マタイ18:10-20、エフェソ2:14-16、出エジプト33:12-17
讃美歌 495
教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様にみなしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。(18:17−18)
Ⅰ.聴衆の変更
きょう、私たちに開かれた〈生ける神の言葉〉は、10節以下の「迷い出た羊の譬え」も、15節以下の罪を犯した兄弟への対応も、迷い出た羊を探すことを主題としている。迷い出た羊の譬えはルカにもあるが、マタイの視点はそれと異なる。ルカはこの譬えを、主イエスが徴税人や罪人と食事をしていることを批判するファリサイ派の人々や律法学者に対して語られたとしている(15:1−2)。ルカが設定したこの状況が、主イエスがこの譬えが語られた本来の状況である。それをマタイは主イエスの弟子たちに対する教えに転用したのである。つまり主イエスがファリサイ派の人々や律法学者に対して、不平や自己義認や反抗によって救いを取り逃すな、と語った譬えをマタイは教会、すなわち弟子たちに対して語られたものとしたのである。
そうした理由は二つあるように思う。一つは、初代教会がファリサイ派と同じ状況に置かれたことである。その辺の事情を伝えているのが「ガラテヤの信徒への手紙」の一節である。パウロは言う。「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」(1:6)と。主イエスが世を去って十数年の間に「キリストの恵み」、すなわち十字架のキリストから離れる信者が少なからずいたのである(ヨハネ6:66)。こうした状況にあって教会は、敵対者に向けて語られた主イエスの譬えを、自分自身に向けて語られた言葉として聞いたのである。言い換えれば、そうすることによって教会は十字架のキリストに立ち続けると宣言したのである。
十字架のキリストに立ち続ける! これが敵対者に向けて語られた譬えを自分自身に転用した第二の理由である。初代教会が十字架のキリストに立つ決意、姿勢を表したものに、迷い出た羊の譬えの導入句にある「これらの小さい者」(10)がある。同じ言葉が6節にもある。「わたしを信じるこれらの小さい者」と。また、表現は異なるが1節以下で語られた、「天の国でいちばん偉い者」は「子供のようになる人(幼子のような者)」も同じ意味である。さらに、後ほど触れるが、17節の、「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」とある、「異邦人や徴税人」も「小さい者」に含まれる。マタイは、迷い出た羊(小さい者、無価値な者)の譬えを教会に向けられた教えとすることで、十字架のキリストに立つ弟子の姿を描いたのである。
それを端的に描いのが、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」という結びの句である。ルカもマタイも、迷い出た羊を探すのは主イエスである。小さい者に向けられた主イエスの眼差しは限りない慈愛に充ちている。マタイはその主イエスの眼差しを弟子たちに求めたのである。弟子たちがこの世でイエスのようであることを求めたのである。それを象徴的に言い表したのが福音書の結びの大宣教命令、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい‥…。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:18−20)である。主イエスの弟子たちはすべての民を弟子にするために遣わされるのである。世に遣わされる弟子たちと主イエスは共にいる!という。ベン・マイヤーの言葉が心に迫る。「世界宣教に乗り出した時ほどキリスト教がキリスト教らしく、また、イエスと一体化しており、未来への途上にあったことはなかった。」この世でイエスのようであるために、聖霊の照明を祈り求めつつ、御言葉に聞きたいと思う。
Ⅱ.天の国の鍵
キリストの教会は「小さい者(無価値な者)」との関わりによって立ちもすれば倒れもするのである。それをマタイは15節以下の、わたしに罪を犯した兄弟に対してどう関わるべきかを語った主イエスの言葉で展開する。主イエスは言う。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。……それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様にみなしなさい」(15−17)。
「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様にみなしなさい」とは、ファリサイ派の人々や律法学者がそうしたように、教会から排除せよ、ということか。主イエスの福音を聞いて集まった人々の多くは徴税人や遊女であり、総称して「罪人」と呼ばれている人々である。この呼び名は、主イエスの敵対者によるものであることがわかっている。彼らの肩には二重の重荷がかかっていた。社会では人間の側から軽蔑を受け、他方いつか神のもとで救いを得るという望みも絶たれていたのである。
「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様にみなしなさい」とは、いつか神のもとで救いを得る望みが絶たれた、救いようのない者とみなしなさい、ということか? そうでないことは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(9:13)との主イエスの言葉から明らかである。つまり、「異邦人か徴税人と同様にみなす」とは、教会から排除せよ、という意味ではなく、救いを最も必要としている人々である、という意味である。
マタイがそのように考えていたことは、これを受けて語られた「天の国の鍵」に関する言葉から明らかである。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言われたのである。この天の国の鍵は、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したペトロに授けられたものである。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしは天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(16:18−19)と。主イエスはこのペトロに授けた天の国の鍵を、罪を犯してもそれを認めず、悔い改めない兄弟のために行使することを求めたのである。
いったい、天の国の鍵を行使するとは、どのような経験なのか? これに続く主イエスの言葉がそれを語っている。主イエスは言う。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」主イエスの名によって集まる弟子の中にイエスもいる! この〈インマヌエル(神、我らと共に)〉がキリスト者を「地上のすべての民と異なる特別なもの」とするのである。それを誰の目にも最も印象的に描いのが、罪を犯してもそれを認めず、悔い改めない兄弟のために天の国の鍵を行使することである。主イエスの弟子は、「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と祈るのである。この〈主の祈り〉においてキリスト者は「地上のすべての民と異なる特別なものとなる」のである。
Ⅲ.特別なもの
それにしても罪を犯してもそれを認めず、悔い改めない兄弟のために天の国の鍵を行使するとは、どのような経験なのか? そのことを黙想していたとき、出エジプト記33章12節以下の記事に導かれた。これは、モーセがシナイ山で、神から十戒をはじめとする教えを受けていたとき、山の麓では、アロンが金の子牛像を造り、奴隷の地エジプトから導き出した神ヤハウェに取って代えるという、あってはならない罪を犯した一連の記事の中の一コマである。神はご自分を金の子牛に取って代えた民と共に行くことを拒否されたのである。その理由は、神殿で聖なる神の臨在に触れたイザヤの言葉、「災いだ。わたしは滅ぼされる!」(6:5)が端的に描いている。聖なる神が汚れた民と共にあるとは、民は「滅ぼされる」のである! 神が行を共にしない、とは、言葉の最も厳密な意味でイスラエルの死を意味する。この厳然たる事実を前にして、モーセは、神に、共に行くことを嘆願する。救うに値しない者のために執り成すのである。それはあたかも罪を悔い改めない兄弟、救うに値しない者のために天の国の鍵を行使するキリスト者のようである。
実は、ここに描かれた〈生ける神〉を金の子牛に取って代える不信仰は旧約聖書全巻を貫いている。「旧約聖書は、宗教混淆をくり返した古代イスラエル宗教に対する一種の批判の書である」と言った人がいる(船水衛司)。その批判の根拠を示す重要なテキストの一つが、きょう、読まれた出エジプト記33章12−16節である。それによれば、神、ヤーウェ、は単にイスラエルを御自分の民とするために彼らを選んでエジプトから解放しただけではなく、彼らと行を共にし、彼らの間に住むことを約束されたのである。宗教混交を繰り返したイスラエルに対する批判の書、旧約聖書に統一的なテーマがあるとすれば、それは、イスラエルの真中にヤーウェが住まわれるという確信である。
この確信は、出エジプトにおいて示された神の超越性(神聖性)の体験と、神が内在的に自分たちと共に臨在されるという緊張した関係から成り立つ。神の超越性と内在性の同時存在という緊張を内にはらむ神についての体験知は、イスラエル民族の長い過酷な歴史の中で忠信な人々の苦悶の種となった。この種は、出エジプト・シナイ契約以後の荒野の旅、カナン定着、エルサレム占領と神殿建立、預言者の反発と申命記改革、そして王国の滅亡・捕囚続く時代と、つぎつぎに問題の担い手たちの苦闘を引き起こした。特にそれは、神の臨在の典型的象徴であったエルサレム神殿の崩壊(前586年)と、それに先行する神殿礼拝の空洞化に対する預言者たちの批判をめぐって深刻さを増した。
問題は最も尖鋭な形で神殿をめぐって起きた。神の臨在についてのさまざまな約束が神殿に集中していたし、そこで神の約束が成就されると考えられていたからである。この問題解決のために払われた聖書記者たちの苦闘は、やがて、ヤーウェが人間と共に住むことが完全に現われる終末時の期待となる。この期待は、後期ユダヤ教のシェキーナー(神の地上的臨在)の思想を経て、「受肉」の思想へと展開する。すなわち、イエスこそ真の神殿であって、ここに神の超越性と内在性とが、神的なものと人間的なものが完全に合一である方の人格におい調和されたのである。
この神が民と共に住まわれるという約束は、キリスト教徒に熱心に取りあげられ、キリストのからだ、すなわち、そこに神が聖霊において住む「教会」信仰として結実する。それが、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」というイエスの言葉である。十字架のキリストにおいて、聖なる神と汚れた人間が共にいることが実現したのである!
エフェソ書の著者はこの神秘を次のように語る。わたしと他者との間の交わりは破れている、その破れをキリストは十字架で繕い、敵対する者を互いに招き寄せ、平和を実現し、共に並んで保持したもうと。つまり、教会はキリストの十字架の上に立つのである。キリストの十字架が天の国の門を開く鍵なのである。この天の国の門を開くのがキリスト者の世にある使命である。
その使命をキリスト者は、十字架のキリストをいま、ここでのこととして現在化する聖晩餐を守る集まり(ゲマインデ)において行使するのである。聖晩餐を守る集まりという状況において、つまり、わたしと他者との間の交わりは破れている、その破れをキリストは十字架で繕い、敵対する者を互いに招き寄せ、平和を実現し、共に並んで保持したもう主の晩餐において教会は、最も確信をもって現われ出るのである。
主イエスはモーセが神の民の破れ口に立ち、命を賭して執り成したように、弟子たちが世の呼ぶれ口に立ち、執り成すことを求められたのでる。この執り成しは、キリストであることの最高の栄誉、奉仕である。キリスト者はこの執り成しの祈りにおいて、「地上のすべての民と異なる特別なもの」なのである。だから、代々の教会は主の晩餐で「天の国の鍵」、すなわち世界の救いのために執り成しの祈りをささげてきたのである。