礼拝メッセージ

2025/9/14聖霊降臨節第15主日   「今は恵みの時」 

マタイ13:44-52、Ⅱコリント6:1-2、申命記7:6-8
讃美歌 505

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。……また、網が湖に投げ下ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。(13:44、47−48)

Ⅰ.神の国の秘義
きょう、私たちに開かれた〈生ける神の言葉〉は主イエスが語られた七つの神の国の譬えの中の、「畑に隠された宝」、「良い真珠を探している商人」、それに魚獲網の譬えである。実は、マタイが13章に集録した七つの譬えは、「魚獲網の譬え」を除いてすべてトマス福音書(正典に採用されなかった外典)に集録されている。ちなみに、きょう私たちに開かれた三つの譬えと毒麦の譬えは、共観福音書マルコとルカには集録されていない。それが外典トマス福音書に集録されていることは興味深い。しかもトマス福音書ではこれらの譬えは文書全体に散らされている(9、57、20、96、109、76 エレミアス『イエスの譬え』より)。それをマタイは13章に、この順序で集録したのである。改めて聖書記者としてのマタイの天才、凄さを実感する。もちろんそれは聖霊の働きによるのであるが。

 マタイがここに集録した七つの譬えは、それらが語られた状況を知ることはできない。状況が異なれば同じ内容でも意味は異なる。そのことを私たちはこの後、一対の譬え、「畑に隠された宝」と「良い真珠を探している商人」で見ることになる。一つ一つの譬えが語られた状況を知ることはできないが、主イエスの譬えは全部ではないが、大部分論争の武器である。つまりファリサイ派や群衆に対する弁明であったことを念頭に置いて、聖霊の照明を祈り求めつつ、御言葉に聞きたいと思う。

 まず注目したいのは、「畑に隠された宝」の譬えである。主イエスは譬えの題材を民衆が生きた生活の場から取られた。ユダヤの民の生活圏であるパレスチナは、二大古代文明メソポタミアとエジプトの中間に位置し、数百年にわたって国土は戦争の危機に覆われ、人々は貴重品を土に埋めたのである。「それをある人が見つけた」のである。この人は、明らかに貧しい日雇い労働者であり、他人の畑で働いていた。畑を耕していると鍬が固いものに当たる。石かと思い掘り起こしてみると、なんと隠された宝であった。「彼は(蛇のような賢さで)その宝をそのまま隠す。」そうすることで彼は、三つの目的を果たす。第一に、その宝を畑の一部にしておくこと、第二に、畑に宝を隠した人のように、それを安全に確保すること、そして第三が、その秘密を守ろうとしたことである。ある研究者は、「彼が、持ち主にとって消息不明の掘り出し物をすぐには着服しないで、まずその畑を買うことによって、形式上合法的に振る舞ったことは、どうでもよいことではない」と解説する。つまりこの人の行動は法的になんら問題ではない、と。

 主イエスが譬えの題材とされた隠された宝はオリエントの民間物語が好んで採用した主題である。聴衆はこの物語から、宝を発見した者が建てるすばらしい邸宅とか、あるいは彼が奴隷を従えて市場を闊歩するさまを、あるいは発見者の息子は畑の持ち主の娘と結婚すべきであるとの賢い裁判官の裁定を語る物語を期待したのである。主イエスは、まるで宝くじに当たったような日常を切り取ったこの譬えで「神の国」という非日常について語られたのである。いったい、この譬えのどこに「神の国の秘義」が開示されているのか?

 この譬えは、良い真珠を探していた商人の譬えと共に、「持ち物をすっかり売り払い」(44、46)とあることから、「イエスが全き献身の要求を述べられたかのように、一般に理解」されてきた(エレミアス)。確かに主イエスは、「わたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄妹、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではあり得ない」(ルカ14:26)と語られた。しかし、主イエスはこの譬えで、御自分のために全てを捨てることを求めていると解するなら、それは決して正しい理解ではない。「神の国」は人間の業にはよらないからである。そうであるのに、神の国はあなたがたが払う犠牲にあると語り、多くの若者の人生を狂わせたのがカルト宗教、文鮮明率いる統一教会であり、同情的イエスをカルバリーのキリストに取って代えた社会福音派(デイヴィッド・ボッシュ)である。

Ⅱ.神の国は十字架にあり
では、主イエスがこの譬えで開示された神の国の秘儀とは何か。エレミアスは、「決め手になる言葉は、……『喜んで』である」と語る。彼は言う。「度外れた大きな喜びがある人をとらえると、その喜びはその人を拉致しさって、心底を魅了し、思念を圧倒してしまうものだ。発見されたもののすばらしさと比べると、それ以外の全ては色褪せてしまう。」このエレミアスの解説に呼応するのがパウロである。パウロは、「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土(塵芥)のように思っている」(ピリピ3:8−9)と語った。
パウロは「キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値」を見出し、喜びに溢れたのである! パウロの言う「キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値」とは、キリストの十字架による罪の贖いである。言い換えれば、主イエスがこの譬えで語られた「畑に隠された宝」とは、御自分が十字架に上げられるということではないのか。

 それとの関連で注目したいのが、良い真珠を探していた商人の譬えである。この譬えは「畑に隠された宝」と一対の譬えである。しかしそれは異なる状況で語られた、異なる視点を持っている。「真珠は、全古代文明を通じて、非常に渇望された商品であった。」それは江海やペルシャ湾やインド洋で、潜水夫によって採取され、装飾品、特に首飾りに加工された。言い換えれば、この譬えの題材から浮かび上がってくるのは富裕層である。改めて言うまでもなく、主イエスに従った人々の多くは貧しい階層の人々である。主イエスは、一見、貧しい人々には無縁の高価な真珠の譬えで「神の国の秘義」について何を語られたのか?

 私は、それを読み解く鍵は、「高価な真珠を一つ見つけた」、つまり、「特に貴重な一個の真珠を見出した」という形容詞にあると考える。この表現で強調されているのは、商人が見つけた真珠は、他の真珠と比較して高価であるというのではなく、商人にとってかけがえのない、何ものにも変え難い真珠だということである。そうであるのにこの譬えには、畑に隠された宝を発見した喜びが語られない。それは、商人が、「持ち物をすっかり売り払い、それを買う」とあるだけに不可解である。

 ちなみに、この商人の行動は、畑に隠された宝を発見した人の行動に影響された「度を越した表現」であると言った人がいる。トマス福音書には「持ち物をみな」ではなく「商品を売り払った」とある。このトマスの文言こそ状況に即している、と。トマスの状況に即した表現をマタイは「持ち物をすっかり売り払った」と度を越した表現に書き換えたのである。そのマタイが、高価な真珠を見つけた商人の「喜び」に沈黙したのである。迷い出た一匹の羊を見つけた譬えや無くした銀貨を見つけた譬えのように喜びに溢れてしかるべきではないのか。

 なぜ、マタイは「喜び」に言及しないのか? そのことを黙想していたとき、申命記7章、神が全世界の民の中からイスラエルを宝の民として選ばれた記事に導かれた。神は言う、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに!」(7:6−8a)と。ちなみに、神がイスラエルをご自分の宝の民、聖なる民として選ばれたのは、彼らが正しいからでも、また心がまっすぐだからでもない。イスラエルの民は「心頑なな民」(9:6)、より厳密に言えば、「愛するに値しない者」なのである。この愛するに値しないものを神は、御自分にとって掛け替えのないものとして愛されたのである。この「愛するに値しないもの」を愛する愛(アガペー)は、ホセア書、申命記、エレミヤ書、そして第二イザヤを経て新約に至るのである。パウロはこの愛を十字架のキリストに見て、自分の持てるもの全てを糞土のようにみなしたのである。

 申命記のこの言葉は、良い真珠を探していた商人が高価な真珠を見つけたことを彷彿とさせないか。私には、良い真珠を探していた商人と、地の面の民の中からイスラエルを宝の民として選ばれた(見つけた)神の姿が重なって見える。私はここに、なぜマタイは、「高価な真珠」を見つけた商人の「喜び」を語らないのか、それを知る理由があると考える。正典聖書が描く、イスラエルを宝の民として見つけた神にあるのは、喜びとは真逆の、腑が捩れるほどの痛みだからである。旧約聖書全巻を貫いているのは、神の痛みの愛!なのである。主イエスは良い真珠を探し求める商人の譬えで、独り子を与えるほど世を愛された神の痛みの愛に、神の国があるとされたのではないか。

Ⅲ.聖なる残りの者
マタイがこれに続けて配置した「漁獲網の譬え」で主イエスが語られた神の国の秘義はまされこれである。この譬えには、譬え本来の意味を厚いヴェールで覆い隠す寓喩的解釈_譬えの言葉一つ一つに深い意味を見出す_が施されている。「種を蒔く人の譬え」(13:1−9)にも「毒麦の譬え」(13:24−30)にも寓喩的解釈が施されているが、それは離れたところに置かれている(13:18−23、13:36−43)。しかし漁獲網の譬えでは、寓喩的解釈は本文と密接に結びついている。譬え本文と密接に結びつけられていることで、譬え本来の意味を理解することを極めて困難にしている。

 エレミアスは49節以下が寓喩的解釈であるとする(『イエスの譬え』)。そこには次のようにある。「世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」エレミアスは、この終末における最後の審判を語る寓喩的解釈は、毒麦の譬えの結び(40節以下)に影響されたもので、漁獲網の本来の意味を求める上で無視して良い。否、これから離れなければならない、と語る。

 私はエレミアスの見解に同意する。その上で48節、「網がいっぱいになると、人々は引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる」も寓喩的解釈であると考える。主イエスは譬えの題材を人々が生きる日常から取られた。網にかかった「いろいろな魚」を分離することは漁師の日常である。しかしそれは、主イエスの福音にそぐわない。主イエスが投げた網、つまり福音を聞いて主イエスに従った人々の多くは悪い者として「投げ捨てられる」人々である。つまり「良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる」分離は、主イエスが宣べ伝えた神の国の福音とは真逆である。主イエスは「正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのである!

 主イエスがこの譬えで語った本文は、「網が湖に投げ下ろされ、いろいろな魚を集める」である。つまり主イエスはこの譬えで、聖なる残りの者だけからなる終末論的神の民を集めようとした、ファリサイ派に宣戦布告されたのである。ファリサイ派は、敬虔と律法への忠実、つまり浄めの掟の厳格な遵守と断食などの苦行によって神の民に属するにふさわしい者だけを集め、彼らからなる「閉鎖的な」残りの者を形成した。
この残りの者共同体の実現を、人間の努力の積み重ねと他者からの分離によってはかろうとするすべての試みを主イエスは拒み、それに厳しい態度で臨まれたのである。主イエスは残りの者の共同体から締め出された人々に呼びかけたのである。洗礼者ヨハネはその意味で主イエスの先駆者であった。ヨハネもファリサイ派から締め出された人々を受け入れたのである。しかし、その洗礼者とさえ主イエスは異なっている。洗礼者は、罪ある者が新しい生活に入る決意を示した〈後〉に、初めて彼らを受け入れたのであるが(マルコ1:14−15)、しかし主イエスは、罪人が悔い改める前に救いを提供したのである。それが十字架のキリストに示された神の痛みの愛である! 主イエスと他とを分かつのは、十字架の恵みには限りがなく、そこにはいかなる条件もついていないという使信である。

 主イエスは十字架に上げられることで、天の国の門を広く開け放ち、例外なしにすべての人を呼び集めたのである(ヨハネ12:32)。この神の愛を誰の目にも最も印象的な仕方で表現しているのが主の晩餐である。主の晩餐は終りの時の救いの宴の先取り(マタ8:11)であり、そこではすでに今聖なる人々の共同体が目の当たりに表されているのである。食卓を共にする形で罪人が救いの共同体に迎え入れられているのである! 「網が湖に投げ下ろされ、いろいろな魚が集められる」、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Ⅱコリント6:2b)なのである。
こうしてマタイは本来、別々の機械に、別々の聴衆に対して語られた譬えをこのように配置することによって、十字架のキリストに神の国があるとしたのである。それを象徴的に描いたのが、イエスが十字架で死んだ時、墓が開いて聖なる者たちの体が生き返ったという証言である(27:52)。

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