マタイ20:1-16、ロマ11:11-12、創世記12:1-3
讃美歌 502
「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」主人はその一人に答えた。「……わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように払ってやりたいのだ。」(20:12−14)
Ⅰ.労働対価
きょう、皆さんと共に審きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言はマタイ福音書20章1節以下、ぶどう園の労働者の譬えです。これはマタイだけが伝えている特殊資料です。私は洗礼を受けてまだ間もない頃に聞いた、この箇所で語られた説教を、半世紀を経た今でも覚えています。説教者は、夜明けから始まり、9時頃、12時頃、3時頃、そして5時頃に雇われた労働者を、幼児洗礼から始め、晩年に受洗してキリスト者になるそれぞれの季節(とき)になぞらえて語りました。特に夕方5時頃、つまり人生の晩年に救われた者にも同じ神の恵みが与えられるとは、「夕暮れになっても、光がある」(ゼカリヤ14:7)という慰めに満ちた説教でした。そして一つの問いが残りました。主イエスがこの譬えで語られたのはそういうことなのだろうかという問いです。
主イエスは譬えの題材を人々が生きている生活の場から取られました。ぶどう園の労働者の譬えは、葡萄の収穫期によく見られる光景です。しかし、主イエスがこの譬えで描いたぶどう園の労働者の光景は、人々が慣れ親しんだものとは違っていました。夜明けとともに十二時間働いた労働者と、夕方一時間しか働かなかった労働者が同じ賃金を受け取ったのです。それは聴衆を驚かせたに違いありません。いったい、聴衆の心を逆撫でするような譬えで、主イエスは神の国について何を語られたのか。
ローマ教会とそれに続くルター教会は、聖職者たちが断食を始める日、つまり受難週前のレントの始めに、この箇所から説教します。教会はレントの始めに何を説教するのか。答えは、神のぶどう園への〈召し〉です。しかもそれは寓喩的に解釈されてきました。寓喩的解釈は、単純な主イエスの言葉に深い意味を見出すというものですが、譬え本来の意味を厚いヴェールのように蔽ってしまうと言った人がいます。
この寓喩的解釈の一般的な例としては、イレナエウス(150年ごろ)以来、譬えの中で労働者を雇う五回の時間を、アダム以降の救済史に割り当てて解釈したことや、オリゲネス(185−254年)以来、先ほど触れたキリスト者になる年齢の諸段階に割り当てるという解釈です。これらの寓喩的解釈はいずれも神の国への〈召し〉を主題としていますが、譬えの重点は8節以下の報酬の支払いを巡るやりとりから解るように、ぶどう園への召しではなく、報酬の支払いにあります。 しかも、主イエスがぶどう園の労働者の譬えで語られた報酬の支払いは、私たちの実生活とは真逆なのです。私たちは働きに応じて報酬を得ます。「同一労働同一賃金」という制度があります。雇用形態にかかわらず、不合理な待遇差を設けてはならないという原則です。正社員と非正規社員の間で、職務内容や責任が同じであれば、賃金、賞与、福利厚生といった待遇において不合理な格差をなくすことを目的とした制度です。
主イエスがぶどう園の労働者で語る神の国は、同一労働同一賃金を定めた「働き方改革関連法」とは明らかに違います。夜明けと共に丸一日働いた労働者と、夕方5時に雇われ、一時間しか働いていない労働者が同じ賃金を受け取っているのです。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」という労働者の不平は、働き方改革関連法によれば、まさに正当な訴えなのです。しかし主人はこの人の訴えを退けたのです。この世の価値基準、経験では推し量れない何かが主イエスが宣べ伝えた神の国にはあるのです。聖霊の照明を祈り求めつつ、ぶどう園の労働者の譬えに聞きたいと思います。
Ⅱ.神の恵みの自由
ぶどう園の主人は、一時間しか働いていない者に一日分の賃金を支払った。そのことを思い巡らしていたとき、「セーフティネット」が思い浮かびました。_セーフティネットとは「安全網」と訳され、経済的なリスクなど、万が一の事態が発生した際に、個人や事業者が安全や安心を提供され、保護されるための仕組み全般を指します。_(AIによる概要)。誰からも必要とされず、一日中何もしないでいた人が、ぶどう園に雇われ、一時間しか働いていなのに、一日分の賃金を支払ったのは、いわゆるセーフティネットの先駆けなのでしょうか? 言い換えれば、セーフティネットが充実すれば、この世は神の国になるのか? 答えは否です。生活保護を受けている人に対するバッシンが飛び交っているように、セーフティネットを充実してもこの世が神の国になることはありません。
セーフティネットは経済を基盤とする制度だからです。経済を基盤とするとは、その意味をゾンバルトは次のように語りました。_経済が、経済的利益が、したがってまたこれに関連して物質的需要性が、その他のあらゆる価値に対して優位をもとめ、また獲得して、そのため経済のもつ特性が他のすべての社会、文化を特質づけている。人間は個性を喪失したばかりでない。自然から引き離され都会へ追いやられて、不気味な人種になり果てた。_
私たちが今、テレビやネットで目にしているのは〈不気味な人種〉です。夕方一時間しか働かない人にも一日分の賃金が支払われる神の国は、経済時代を生きるすべての人間の、癒しの場であり、憩いの場なのです。額に汗して日毎の糧を得る人間が求めてやまない真の休息がここにあるのです。
ところでマタイはこの真の休息を与える譬えを、「先にいる多くの先の者が後になり、後にいる多くの者が先になる」いう言葉で囲い込みました(19:30、20:16)。つまりマタイはこの譬えに、終末に起こる黙示文学的な階級序列の逆転を見たのです。世の終わりに高き者が低くされ、低き者が高くされる逆転が起こる! それは主イエスが宣べ伝えた神の国の福音の中核です。それを美しく表現したのが、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」と歌い出すマグニフィカート(マリアの賛歌)です。それはこう歌うのです。「主はその御腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」と。
世の終わりに階級序列の逆転が起こる! しかし、主イエスがぶどう園の譬えで語られたのは 階級序列の転倒ではありません。確かに主人は言います。「最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と。しかし、最初の者と最後の者が報酬を受けとる順序は逆転しても、すべての者が同額の報酬を受け取っているのです。主イエスはこの譬えで、神の国の報酬はすべての人に等しいと言われたのです。今日、この理解が圧倒的であると言った人がいます。しかし、この理解は、すべての報酬は恵みの報酬であると付け加えたとしても正しくありません。なぜなら、パウロの言葉を借りれば、日の出と共に一日中働いた人が受けた報酬は、働きに対する報酬であり、恵みの報酬ではないからです(ロマ4:4)。
主イエスが語る「ぶどう園の労働者の譬え」で最大の驚きは、働きのない最後の者たちが受け取ったきわめて大きな恵みの報酬!です。主人はこの恵みの報酬に対して不平を言う最初の者に、「友よ、あなたに不当なことはしていない。……わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」と言われます。主人は不平を言う者に「友よ」と呼びかけたのです。その上で、「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか」と、最後の者に対する恵みの自由を語られたのです。
Ⅲ.神の秘められた計画
わたしは、主人のこの言葉に、この譬えを読み解く鍵があると考えます。主イエスは最初の労働者の不平を「ねたみ」という言葉で表現しました。「ねたむのか」と訳されたこの言葉は新約に78回使われていますが、三分の一の26回がマタイに出てきます。『ギリシア語釈義辞典』によれば、この語は名詞(緊張、苦境、患難、病気)と動詞(働く、緊張する、苦痛を与える、骨を折る)から派生した語で、強度に倫理的・道徳的特色が明らかとなり、人格的な堕落を示す、とあります。「それは人間の側の罪と責任について明らかにされ、そして悪の根源についての問いを表現している(少なくとも間接的に)」と。主イエスは「妬むのか」という語で、日の出と共に働き出した労働者の強度に倫理的・道徳的特色、つまり人格的な堕落を描き出したのです。人間の側の罪と責任について明らかにし、そして悪の根源についての問いを表現したのです。
この解説を読みつつ心に浮かんだのは、アブラハムに始まる救済史です。神は人間の罪により何も生み出し得ない、呪われた死の世界を、命溢れる祝福された世界に再創造するためにアブラハムを「すべての民の祝福の源」として召し出されました。この祝福はイサク、ヤコブ、そしてイスラエルの民へと継承されるのですが、イスラエルの歴史を見るとき、イスラエルは神への不従順ゆえに、「祝福の源」足りえない者となったというのが、旧約聖書が描く一千年の歴史です。主イエスは「妬むのか」という語で最初の者たち、すなわち神の民イスラエルの罪と責任、悪の根源を抉りされたのです。このイスラエルの姿と、日の出と共に、一日中、暑い中を辛抱して働いた労働者の姿が重なるのです。
アブラハムに始まる神の救いの計画によれば、世の終わりに、異邦人が祝福を受けるのです。救われるのです。パウロはそれをぶどう園の労働者を彷彿とさせる言葉で描きます。「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったと言うことなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらせる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにすばらしいことでしょう。」
パウロは実に不思議なことを言います。「(イスラエル)の罪によって異邦人に救いがもたらせる結果」になった、と。イスラエルの罪が異邦人の富、恵みの報酬になったと。異邦人の時が歴史の終わりに到来するという表象には深い意味があります。主イエスは、ローマの百人隊長の僕の癒しで、次のように言われました。「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く」(8:11)と。この異邦人の時が来る前に、まず第一に神の約束が充たされ、イスラエルに救いが提供されなければならないのです。そのために、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリスト」は、「自分の民を罪から救うために」聖霊によってマリアから生まれたのです。つまり、イスラエルが罪を赦されて、すべての民の祝福の源になるために、イエス・キリストが血を流さなければならないのです。だからマタイはこの譬えの後に、人の子の受難と死と復活の予告を配置したのです。その意味は大きい!異邦人の時は人の子の受難の彼方に横たわっているのです。
主イエスはぶどう園の労働者の譬えで、異邦人にも!神の選びの民と同等の恵みが与えられると語られたのです。このメッセージは、異邦人にとって恵み、喜びであるだけではありません。神の民イスラエルにとっても恵みであり、喜びなのです。パウロはそれを次のように言い表しました。「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにすばらしいことでしょう。」イスラエルが皆救いにあずかる!
パウロは、この素晴らしいことを次のように語ります。「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。
『救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざ
これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くとき、
彼らと結ぶわたしの契約である』」と。
神は御子イエスを十字架に上げることで、罪を根源から赦されたのです。それが、朝日の出と共にぶどう園で働いた神の民イスラエルと、夕方、世の終わりにぶどう園に召された異邦人とが全く同じ恵みの報酬を受けるという神の救いの計画なのです!