マタイ25:1-13、黙示録19:5-9、アモス4:10-12
讃美歌 244
天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。(25:1−4)
Ⅰ. 寓喩的解釈
きょう、皆さんと共に審きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言は、花婿の到着を待つ十人の処女たちを題材にした神の国の譬えです。これはマタイだけが伝える〈特殊資料〉です。主イエスは譬えの題材を人々が生きている日常の場から取られました。花婿の到着を待つ処女たちは、婚礼の場面でよく見かける光景です。しかし主イエスが語るこの譬えには、聞く者たちを戸惑わせる内容が語られています。ともし火の油を用意していなかった処女たちが婚宴の席から閉め出されたのです。いったい、主イエスは祝いの婚礼から閉め出される処女たちで神の国について何を描いのでしょうか?
マタイがこの譬えで読者に何を伝えようとしたかは、この譬えが置かれた文脈、24章32節から25章46節で明らかです。マタイはこの文脈で、キリストの再臨を取り上げ、その文脈の中にこの譬えを置いたのです。それを端的に示しているのが譬えの結び、「目を覚ましていなさい。その日その時は、あなたがたには分からないからである」(13)です。この譬えは、寓喩的に解釈されてきました。十人の処女はキリストの再臨を待ち望んでいる教会、花婿が遅れて到着したこと(5)は再臨の遅延、突然の花婿の到来(6)は再臨の思いがけない実現、そして愚かな処女たちを厳然と拒絶したこと(11)は最後の審判である、と。さらに愚かな処女はイスラエル、賢い処女は異邦人とも解釈されました。
この寓喩的解釈は、マタイが福音書を書いた80年代後半の状況を映し出しています。ナザレのイエスに関する重大な出来事が起こってから、すでに半世紀以上が経過していました。その間に多くのことが起きました。ローマからの解放を求めたユダヤ戦争は神殿の徹底的な破壊をもって終わり、ユダヤ教の様相をほとんど完全に変えてしまいました。キリスト教会もそれまでの間にほとんど完全に変貌しました。教会はそれほど多くのユダヤ人を主イエスに導くことなく、教会はどの点から見ても異邦人の教会になっていたのです。使徒たちによる宣教の拡大とパウロの全方向への精力的な伝道は、すでに四半世紀前のことであり、ある程度停滞し始めていました。教会は第二世代を迎え、変動の全ての特徴を示したのです。新しい回心者の情熱や献身的な姿勢は失われつつありました。初代の信者たちが熱心に期待したキリストの再臨は起こらなかったのです。パウロはテサロニケの信徒たちに宛てた手紙で、「主の言葉に基づいて」、自分が生きているうちにキリストの再臨があると語っています(Ⅰ・4:15)。そうであるのに、キリストの再臨は起こらなかったのです。
こうした危機的状況にあった教会に、マタイは十人の処女の譬えで将来と希望、キリストの再臨に対する信仰を呼び覚まそうとしたのです。カルヴァンは言います。「希望に欠けるならば、よしわれわれがなお信仰についていともたくみに美しく語りうるとしても、われわれが信仰などは全く持っていないということは確かである!」と。聖霊の照明を祈り求めつつ御言葉に聞き、体の甦り、永遠の命の希望を確かにしたいと思います。
Ⅱ.死を前にした人間
ところで、『イエスの譬え』について優れた研究を表したエレミアスは、主イエスが語ったこの譬えの本来の意味を知るには、マタイの文脈と、13節を度外視しなければならない、と言います。「だから、目覚ましていなさい」という13節の結びの言葉は、この譬えの意味を誤らせると。なぜなら賢い処女も愚かな処女も、皆眠っているからです(5)。つまり、キリストの再臨を指す言葉は、この譬えの原形には属さないと。わたしはこの見解に同意します。そもそもメシアを花婿とする解釈は、旧約聖書と主イエスが生きた時代のユダヤ教には全く知られていないのです。この解釈がはじめて現れるのはパウロが第二コリントに記した、「わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げた」(11:2)においてです。言い換えれば、主イエスがこの譬えを語られた時、花婿がメシアを指すと理解する聴衆はいなかったのです!
では、主イエスの聴衆はこの譬えをどのように聞いたのか? 主イエスはこの譬えで何を言われたのか? この譬えの要点は、「花婿が来た!」という真夜中の叫びです。つまり思いがけない時に到来する決定的な転機(危機)です。予期しない悪いことが突然起こる、それが私たちの日常である、と語ったのがハイデッカーです。
ハイデッガーは、人間の存在をおおいつくす日常の世界、その雑談が突然、沈黙にかわり、“不安”のなかで、無の世界を垣間見ると言いました。_人びとはなぜ日常の世界に埋没しているのか。なぜおしゃべりをし、生活のあれこれを配慮し、そして日々の習慣の軌道を安易にすべってゆくのか。それは日常性という板子一枚の下に、おそろしい「無」、すなわち死が隠れているからだ。この「無」から目をそらすために、人びとは優しく手を差し伸べる「日常の世界」をつくり出し、そこで安らかに眠る、のであると。_
人が安らかに眠る「日常の世界」が突如として崩れ去る瞬間があるのです。そのとき雑談は沈黙にかわり、“不安”のなかで、人は無の世界(死)を垣間見ると。主イエスが十人の処女の譬えで語られたのは、この優しく手を差し伸べる「日常の生活」が突如として崩れ去り、雑談は沈黙にかわり、“不安”のなかで、無の深淵(死)を垣間見ることではないのか。油の用意、すなわち神と出会う備えのない愚かな処女たちは婚礼の席から放り出されるという予期しない出来事に遭遇するのです。
改めて思うのは、わたしたちを覆い尽くす日常の世界は巨大な無の深淵、夥しい理不尽な死で溢れているということです。それは主イエスが見た、富を神とする人間の世界です。主イエスは人間が滅びに向かって進んでいるのを見る。すべてが奈落の淵に立ち、今は最後の時である。情況がいかに危ういかを主イエスは倦まずに説き続けた。一言で言えば、時間がまだあるうちに回心せよ、と呼びかけたのです。そのことを思い巡らしていた時、ロジェ・シャルチエが『フランス革命の文化的起源』で取り上げた非キリスト教化、すなわち世俗化について語った言葉が思い起こされました。
シャルチエは言います。_非キリスト教化として理解しうる18世紀における宗教的無関心は、復活祭や日曜日の務めに対する全員一致の尊重が消滅することなく、進行するわけである。けれども、そのような務めの尊重という見せかけのもとで、根本的な変化が、本質的な問題に関する人びとの考え方に生じつつあった。第一の決定的な激変、それは、死を前にしての態度の変化である。遺言に関してはたくさんの資料が残っており、遺言条項の時系列的研究によれば、まず、遺言者が自分の魂の安息のためのミサ基金にあてる金額が減少し、つぎに、死体を埋葬する墓地にかんする無関心がはびこり、さいごに、煉獄の苦しみを短くするミサを要求する行為そのものが消滅する。_
シャルチエは「死を前にしての態度の変化」に世俗化を見たのです。同じことを異なる視点から語ったのが宗教学者M・エリアーデです。エリアーデは『世界宗教史』の最終章でチベット『死者の書』を取り上げます。_『死者の書』は、西洋世界でもっともよく知られたチベットの宗教文書である。1928年に英訳、刊行されたこの書は、1960年以降、多くの若者にとって枕頭の書となった。この現象は、現代西洋の霊性、精神史にとって重要な意味をもっている。それは、現代の西洋社会では死がほとんど全面的に脱聖化してしまっていること。そして、人間の実存をまさに疑問に付したままで終結させるこの死という行為を、再び価値づけようとする激しい欲求のあることをしめしている。_と。
この欲求にチベット『死者の書』は答えられるのか。この欲求に真に応えうるのは、キリスト教だけです。わたしたちが「死の固めの式」としての主の晩餐で聖徒たちを記念するのは、脱聖化、すなわち人間存在を疑問に付したまま終わる死を価値づけようとする挑戦なのである。キリストの体を食べ、血を飲むことで、キリストの命をいただき、キリストの神性に与るのである。
Ⅲ.不信心な者への命の提供!
主イエスは、富を神とする人間が滅びに向かって進んでいるのを見る。すべてが奈落の淵に立ち、今は最後の時であると。情況がいかに危ういかを主イエスは倦まずに説き続けたのである。一言で言えば、時間がまだあるうちに回心せよ、と呼びかけたのである。それを象徴的に言い表したのが、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ!」(マルコ1:15)である。主イエスは奈落の淵に立つ人間に救いの手を差し伸べられたのである。回心とは、人が安らかに眠る「日常の世界」から非日常の世界へ、すなわち聖なる神と出会うということである。人は聖なる神に出会うとき、無の深淵(死)から永遠の命へ、つまり天の御国に引き上げられるのである。この素晴らしい恵みの時を愚かな処女たちは失ったのである。
主イエスの譬えはここで終わる。そして、一つの問いが浮かび上がる。主イエスが宣べ伝えた神の国の福音は、愚かな処女たちは婚宴の席から締め出される!というものなのか。という問いである。この問いに答えたのが預言者たちである。その中から、8世紀の預言者アモスの言葉に聞きたいと思う。アモスは北王国イスラエルがアッシリアによって滅ぼされるという無の深淵を前にして、「お前は自分の神と出会う備えをせよ」と語った。この言葉が語られる前アモスは。神はイスラエルが悔い改めて立ち返るよう、様々な鞭で懲らしめたことを語る。その一つ一つの鞭に、「しかし、お前たちはわたしに帰らなかった」という言葉で結ぶのである。そして、それを受けてアモスは、「それゆえ、イスラエルよ、わたしはお前にこのようにする。わたしがこのことを行うゆえに、イスラエルよ、お前は自分の神と出会う備えをせよ」と語ったのである。
アモスは、何度鞭で打たれても、喉元過ぎれた熱さ忘れるイスラエルに、「それゆえ」と語る。神はこれまで以上の罰を用意しているという意味か。ある聖書学者は、ここ4章12節はアモスの宣教の頂点であると言う。「アモスの宣教しなければならなかったことのすべての頂点は、イスラエルが今やヤハウェと関係を持つということ、しかし聖所や巡礼者のヤハウェではなく、その当時だれも知らなかったようなヤハウェ、イスラエルに新しい行為を始めるヤハウェと関係を持つという点である」と。
何度警告しても立ち帰らないイスラエルに、すなわち救うに値しない者に神は、これまで経験したことのない鞭ではなく、「命」を提供するのである。11節までの、神に立ち帰る可能性が皆無のイスラエルと、12節、そのイスラエルに命を提供する神との断絶はあまりにも深く、その彼岸にある新しさはそれまでのものの継続としてはもはや理解することができないのである。当時知られていた神は、罪を犯した者を罰する神である(出エジプト20:5)。しかし、アモスは、悔い改める可能性が皆無の者に、「命」を提供する神がいると語ったのである!
悔い改める可能性が皆無の者に命を提供する神いる! いったい、神は、どのように命を提供する、と言うのか。パウロはそれを次のように語った。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。……わたしたちがまだ罪人であったとき、キリスト(が……)死んでくださったことにより、……敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」と。
神は、イエス・キリストを十字架に上げることで、救うに値しない罪人、不信心な者、否、神の敵にさえ命を提供されたのである。それが神の国の秘義である!
主イエスが「十人の処女の譬え」で語られたことはこれではないのか。悔い改める可能性が皆無の者に「命」を提供するためにイエスは十字架に上げられるということである! 言い換えれば、十字架のキリストに出会う備えをせよ、ということである。黙示録の著者は、十字架のキリストと出会う喜びをこう証言した。「全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来た。……小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いである」(黙示19:6以下)と。この歓呼の調べを聞き漏らさない者だけが、この譬えの結びに語られた主人の厳しさを計り知ることができるのである。主イエスはこの譬えで、神に出会う備えのない私たちを小羊の婚礼に招いてくださったのである。その意味でこの譬えに、小羊の婚礼への招き、再臨のキリストへの希望を聞き取ったマタイは、主イエスの使信を正しく伝えたのである。