2025/11/9 降誕前第7主日  「極みなき恵み」

マタイ3:1-12、Ⅱコリント5:14-17、イザヤ44:21-23
讃美歌 511

わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。(3:11)

Ⅰ.イエスのヨハネ評
きょう、私たちに開かれた〈生ける神の言葉〉は、洗礼者ヨハネが宣教を開始したときの記事です。マルコはこの出来事を、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で導入し、マタイ、そしてルカと同じように、預言者イザヤの言葉、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ』」の成就であるとしました。バビロン捕囚末期、神にさえ望み得ない絶望の中で、預言者は、「慰めよ、わが民を慰めよ。苦役の時は今や満ちた」と天上で呼び交わす神の声を聞いたのです。この慰めを携えてヨハネはユダヤの荒れ野に現れたのです。
主イエスが神の国の福音を宣べ伝える直前、メシアの先駆者ヨハネが現れ、間近に迫った神の審判を前にして、悔い改めを宣べ伝えると人々は罪を告白し、ヨハネから洗礼を受けたのです(マタイ3:6)。ヨハネの宣教は一大改悛運動(リバイバル)を巻き起こしました。「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、……彼から洗礼を受けた」のです。マタイが描くこの記事で特に際立っているのは、ヨハネのもとに押し寄せた多くの人々の中に「ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢」いたことです。マルコとルカは彼らの存在に一切触れていません。マタイだけがヨハネの洗礼の場面にファリサイ派やサドカイ派を登場させたのです。
私は、その意図は二つあるのではないかと考えます。まず一点は、ヨハネの激しい言葉、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改にふさわしい実を結べ」が彼らに語りかけたことです。この言葉はマルコにはなく、ルカでは「群衆」に向けられています。マタイは、ヨハネのこの言葉で、ユダヤ社会の頂点にいる人々を引きずり下ろしたのです。つまりヨハネが施した洗礼は、主イエスの道備えであるとしたのです。もう一つは、マタイはファリサイ派やサドカイ派の人々がヨハネから洗礼を受けたとすることで、ヨハネの洗礼の限界を描いたのではないか。ファリサイ派はこのあと、主イエスの敵対者として描かれます。つまりヨハネが施した洗礼は、主イエスの道備えになっていない!のです。この点についてはこのあと詳しく触れます。
ところで、メシアの先駆者ヨハネの使命について語られた主イエスの言葉は、熱狂的と言ってもよいほどのものです。主イエスは、ヨハネの洗礼を「神から」のものであると言い(21:25)、「彼は正しい道をもたらした」(21:23)と言われたのです。またヨハネを「預言者以上の者」(11:9)、否、「すべての人間のうち最大の者」(11:11)と言い、「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」(11:12−13)と言われたのです。ヨハネが救いの時の始まりをもたらしたというこの言葉は驚くべき洗礼者に対する評価です。このような高い評価を、教会がヨハネに与えたとは考えられません。ヨハネに対するこれらの高い評価はすべて主イエスから出たものです!

Ⅱ. ヨハネのイエス評
主イエスからこれ以上ない高い評価を受けたヨハネは、主イエスについて次のように証言しました。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」と。当時のユダヤ社会にあって、履物の世話をするのは奴隷の仕事でした。ヨハネは、自分の後から来る方に比べれば奴隷にも劣る、と言ったのです。このヨハネの言葉は、嵐の中に顕現された神を見て、自分のことを「塵芥」(42:6)と言ったヨブと重なります。つまりマタイはヨハネの口にこのような言葉を乗せることで、創造主なる神を前にした人間の被造者感情、塵芥を表現したのです。言い換えれば、ヨハネがメシアの先駆者であるのは、自分が塵芥であること、つまり罪を認めていることにあるのです。イザヤ(6:5)やパウロ(ロマ7:24)がそうであったように、罪を知らない者は、神の恵みの宣教者になることはできないのです。
塵芥として地面に這いつくばるように、喘ぎながら見上げた目でヨハネは、自分の後から来られる方の崇高さを見たのです! そうであるのにマタイは、ヨハネの洗礼は主イエスの道備えにならなかったと語るのです。それを端的に伝えているのが、獄中のヨハネが二人の弟子をイエスのもとに遣わし、「来るべき方は、あなたでしょうか」(11:2)と問わせたことです。獄中のヨハネのもとに聞こえてくる主イエスの評判は、「大飯食らいの大酒飲み、徴税人や罪人の仲間」というものだったのです。徴税人や罪人の仲間イエスは、ヨハネの理解を超えていたのです。だからヨハネは、「来るべき方は、あなたでしょうか」と問うたのです。
キリスト者はもとより、キリスト者でない者も、この問いに答えようとして、それぞれの思い通りにイエス像を造り上げてきました。それは、その時々の時代の風潮に非常によく対応していることがわかります。私たちが生きる現代にあっては、社会福音の台頭により、主イエスは貧しい者の友、慈悲深い賢い教師、宗教的天才に造り上げられました。いわゆる「同情的イエスが十字架のキリストに取って代わってしまった」のです。程度の差こそあれ、優れた人間性、人を差別しない心の豊かさ、踏みつけられている人々への深い同情を持つ人は私たちの周りにいるのです。
キリスト教は、イエスはキリストである!とする信仰告白によって、立ちもすれば倒れもします。パウロはそれを次のように語りました。「わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」肉に従ってキリストを知るとは、ひときわすぐれた人間性、人を差別しない心の豊かさ、踏みつけられている人々への深い同情という視点からイエスを見ることです。程度の差こそあれ、そういう人なら私たちの周りにいるのです。
では、イエスはキリストである!とはどういう意味か? パウロはそれをこう語ります。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた!」と。古いものを過ぎ去さらせ、新しいものを生じさせたのは、キリストの十字架、すなわち贖罪のイエスです。人類の罪を贖うために犠牲となったのは、イエス・キリストだけなのです。この贖罪のための死こそ、教会が世の終わりまで告白し続ける「イエスはキリストである」の意味です。「イエスはキリストである」と告白する者は、キリストの愛に駆り立てられて、「生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」のです。

Ⅲ.極みなき恩寵
この信仰との関連で注目したいのが、主イエスについて語られたヨハネの二つの言葉、「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」という崇高なイエスと、「来るべき方は、あなたでしょうか」に象徴される「大飯食らいの大酒飲み、徴税人や罪人の仲間」である卑賤なイエスです。ヨハネが塵灰の低さから喘ぎ見た主イエスの崇高さが十字架の卑しさに覆い隠されている! その隠蔽は最深の意味では、同等でないもの、したがって互いに引き離されているものの間の交わりを可能にするのです。
マタイはこの交わりをヨハネの口を通して次のように言い表します。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。」マタイが描くこのヨハネの言葉で注目したいのは「悔い改めに導く」です。この言葉はマルコにも、ルカにもありません、マタイだけが記す言葉です。マタイによれば_マタイだけが_、主イエスとヨハネは全く同じ言葉、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(3:2、4:17)で宣教を開始しています。問題は、同じ悔い改めの説教で宣教を開始しているが、ヨハネと主イエスの間には根本的な相違があるということです。それは悔い改めの〈動機〉です。ヨハネの場合、悔い改めの動機は審判が切迫しているという〈恐怖〉です。それは主イエスの場合にも欠けてはいませんが、主イエスが語る悔い改めの決定的な動機は〈量り知れない神の慈愛に出会う〉ことです。
これとの関連で注目したいが「残りの者」という思想です。この思想は、古代ユダヤ教の宗教生活ばかりでなく、その歴史にまで大きな影響を刻み込んでいたかを最も明らかに示すのが、残りの者の思想を実現しようとしたファリサイ派運動です。ファリサイ派以外では一連の洗礼者グループを上げることができますが、中でも最もよく知られているのがファリサイ派を母胎とするエッセネ派です。荒れ野を住処としたヨハネもその一人ですが、ヨハネの孤高の姿は際立っています。どういうことかと言えば、ファリサイ派もエッセネ派も、律法への忠実、つまり浄めの掟の厳格な遵守と断食による苦行によって神の民に属するにふさわしい者からなる「閉鎖的な」交わりを形成しました。それに反してヨハネは「開かれた」残りの者を集めたのです。ヨハネは悔い改めるならば罪人をも自分のところに集める「開かれた」残りの者を集めたのです(ルカ3:12−14)。
そのヨハネとさえ主イエスは異なっていたのです。ファリサイ派やエッセネ派から締め出された人々に呼びかけたという点では、主イエスもヨハネと同じです。しかし主イエスとヨハネとの間には根本的な違いがあるのです。ヨハネは、罪ある者が新しい生活に入る決意を示した〈後〉に、つまり罪を悔い改めた後に初めて彼らを受け入れたのですが、主イエスは、罪人が悔い改める〈前〉に救いを提供したのです。主イエスをファリサイ派やエッセネ派はもとより、ヨハネからさえ隔てるのは、恵みには限りがなく、そこにはいかなる条件もついていないという使信です。主イエスはあるがままのわたしたちを受け入れてくださったのです。「すべての人が(祝宴に)招かれている」のであって、もしわずかな人しか祝宴の席につかないとしても、それは主イエスの責任ではないのです。
すべての人を例外なしに天の祝宴に招かれることで主イエスは、旧約の預言者の説教の最も優れているところに結びついたのです。旧約の預言者の最も優れている説教とは、「わたしはお前の咎を雲のように、お前の罪を霧のように吹き払う。わたしに帰って来い。わたしはお前を贖おう」(イザヤ44:22)というものです。これは旧約においては時折聞こえてくる声ですが、主イエスにあっては存在そのものが発する声です。主イエスは、私たちの咎を雲のように、罪を霧のように吹き払われるのです。わたしの頭上には真っ青な空が広がっているのです。
キリトにある者はこの抜けるような空の青さを、十字架のキリストをいま、ここでのこととして現在化する主の晩餐で味わうのです。キリスト者は、「〈取れ〉、これはわたしの体である、 〈取れ〉、これはわたしの血である」というキリストの愛に駆り立てられて、自分のために生きるのではなく、わたしのために死んで甦られた方のために生きる者となるのです。シモーヌ・ヴェイユの言葉が心に迫ります。「神の〈愛〉が内にいきいきと生きている人々がこの世に存在するということを除いては、神は、この世に不在なのである。だからその人々は、憐れみによってこの世にあらしめられているのにちがいない。その人々が抱く憐れみこそは、この世における神の目に見える現存である。」

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