2025/12/21 降誕節第4主日  「マリアの賛歌」

Ⅰサムエル2:1-10、ルカ2:46-55、ロマ1:1-7
讃美歌 98


わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも
目を留めてくださったからです。
(ルカ2:46−55)

Ⅰ.心を注ぎ出す祈り
2025年のクリスマス礼拝で私たちに開かれた〈生ける神の言葉〉は、
わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも
目を留めてくださったからです。
と歌い出す〈マリアの賛歌〉です。
ルターはこの『マリアの賛歌』の美しい調の真髄を次のように言い表しました。「……神の至高者にて在しまし、その上には何ものも存しないから、上を見上げ給う訳にはゆかない。また横を見給う訳にもゆかぬ。何者も神に比ぶ者はないから。それ故、神は己自身と下とを見給うより外に仕方がないのである。そして人が神の遥か下に居れば居るほど、神は一層之を顧み給うのである。」神の民イスラエルにとって特徴的なことは、低い所にいる人を顧み、その低さにまで下ってこられた神に、輝き出る美しさを見たということです。
何を美しいと感じるかは、民族により、時代により異なります。聖書の民イスラエルも、すべての文化民族同様、人やその姿の美しさ、また花鳥風月の美しさを知っています。しかしイスラエルにとって特徴的なことは礼拝の場において、つまり信仰と密接に関連して最も強度に、美に出会ったのです。「最高の美は、ヤハウェがイスラエルの歴史的実存の中へと降下したこと_つまり栄光を現されたこと_である」(フォン・ラート)。詩編50編の詩人はそれを、「麗しさの極みシオンから、神は顕現される」(2)と賛美しました。
この最高の美を歌う「マリアの賛歌」は、サムエルの母「ハンナの祈り」(サムエル上2章)が下地になっていると言われます。マリアの賛歌をより深く味わうために「ハンナの祈り」に注目したいと思います。ハンナは、夫エルカナに愛されながら「子のない女」(5b)でした。洗礼者ヨハネの母エリサベトも不妊の女でしたが、彼女はそれを「恥」(ルカ1:25)と言いました。「恥」とは、禁断の木の実を取って食べた人間を襲った最初の感情です。
エルカナにはもう一人、ペニナという名の妻がいて、彼女には子供がいました。その意味でハンナとペニナの関係は、族長ヤコブの二人の妻レアとラケルの関係に似ています(創世記29:31−30:24)。ヤコブはラケルを愛していたのですが、ラケルには子供がなく、夫に疎んじられたレアはたくさん子供を産みました。語り手は、ラケルとレアは子供を産むことに関して「死に物狂いの争い」(30:8)を繰り広げたと記します。
ハンナとペニナの間にあったのも「死に物狂いの争い」ではなかったのか。子供を持つペニナは、子供のいないハンナを思い悩ませ、苦しめたのです。そんな日々が続く中、エルカナは家族を連れて、神を礼拝するために自分の町からシロに上ります。祭りの間、家族は揃って食事をするのですが、ハンナは深い悩みのゆえに食事が喉を通りません。ハンナはひとり食事の席を離れ、神殿に行き、そこで「悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた」(1:10)のです。
祭司エリはそんなハンナを見ると酒に酔っていると誤解します。そのエリに答えたハンナの言葉は私たちの心を打ちます(1:15−16)。「わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も濃い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。」心を注ぎ出すとは、「魂を注ぎ出す」とも、「命を注ぎ出す」とも訳せます。「わたし自身を全部注ぎ出す」という意味です。改めて思うのは、このハンナのように自分自身をすべて曝け出して、苦しいことを神に訴える人々は後を経たないということです。この呻き、苦しみに神は答えてくださるのか?

Ⅱ.罪の認識の欠如
祭司エリはハンナのこの言葉を聞くとハンナにこう語りかけます。「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように」(1:17)。なぜエリはこのように語ることができたのでしょうか。彼もまた、自分を曝け出して祈り、神に聞かれた経験があったのか。神に仕えるとはまさにそういうこと、自分の全てを曝け出すことなのです。語り手は、祭司エリの言葉通り、「主は彼女に御心を留められ、ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子と産んだ」(19b−20)と記します。自分の全てを注ぎ出し、空っぽになった器に、神の恵みが注がれたのです。そしてハンナは息子サムエルを腕に抱き、神を賛美してこう言ったのです。
主にあってわたしの心は喜び、
主にあってわたしは角を高く上げる。
わたしは敵に対して口を大きく開き、御救いを喜び祝う……と。
ところで、このように始まるサムエル記は、バビロン捕囚の時代を生きた申命記的史家によって書かれました。捕囚期という時代の様相はサムエル記に深く影を落としています。この人がサムエル記に設定した時代背景は、士師の時代から王の時代へと移行する転換期です。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行なっていた」(士師記21:25)という時代です。士師の時代の末期、それは私たちが生きている現代のように、各々が自分の目に正しいとすることを行なう、混乱の極みにあった世界です。この政情不安に加えて、イスラエル十二部族の中心聖所があったシロでは、祭儀が乱れ、参拝者たちの不満が噴出していたのです(サムエル上2:12−3章)。エリの息子たちはならず者で、主を知ろうとしなかったのです(2:12)。上に立つ者の腐敗は下にいる者たちを腐らせます。語り手はそれを、「下働きたちの罪は主に対する甚だ大きな罪であった。この人々が主への供え物を軽んじたからである」(2:17)と描きます。そして語り手は、神への畏敬の念を欠いたこの時代は、「主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」(3:1)と要約したのです。
語り手が士師の時代の末期について描いたこの情景は、わたしたち現代の教会にも言えるのではないか。聖公会からカトリック教会に転向したニューマン枢機卿は、「神への畏敬の念のないところで、神の言葉が語られ、また聞かれるなどというべきではない」と語りました。この言葉は、十字架のキリストを記念する聖餐を軽視し、説教に重きを置いたプロテスタント教会に対する批判として語られました。
同じことをプロテスタント陣営から語ったのがR・ニーバーです。ニーバーは言います。「わたしは説教者であり、説教するのが好きである。だが、私は多くの人々が奨励によって影響を受けるとは思わない」と。_「30にして立ち」、40年間、来る週ごとに説教を語ってきました。どの説教も聴衆はもとより、私自身満足するものではありませんが、ニーバーの言葉が真実であることを実感しています。_
彼はこれに続けて次のように語ります。プロテスタント教会は「あまりにも説教に依存しすぎている。……準典礼的教会に属し、典礼的教会を評価している者として、私は、典礼的教会の主な長所は、説教にあまり依存していないことだ、と言いたい。仮に説教が悪い場合でも、……それに耐えることができるのだ。なぜなら、典礼において上演されている信仰の全ドラマを見ているからである」と。
秋田楢山教会から小岩教会に赴任するまでの一年間、無任所であったとき、わたしはニーバーのような経験をしました。家の近くにあったカトリック教会の礼拝に出席したのですが、それはキリストの受難と死と復活の全ドラマで構成されていました。_いま、説教者として晩年を迎え、毎週聖餐式のある準典礼的な教会で奉仕できることは牧師冥利に尽きます。_
その上で言いたいのは、キリスト教の礼拝は、聖晩餐に重きを置くか、説教に重きを置くかの二者択一ではない、と。神の言葉が語られ、また聞かれることも、聖餐が神への畏敬の念に満ちたものであるのも、聖霊の働きによる、つまり心底罪を認識することによるのです。罪の認識のないところでは、聖餐は空洞化し、神の言葉が語られることも、また聞かれることもないのです。ルカはそれをエマオ途上の二人の弟子で描きました。彼らは夕食の時、「イエスがパンをとり、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡すのを見て」、こう言ったのです。「道で話しておられたとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えたではないか」(24:32)と。願わくは、私たちもこの二人の弟子のように、礼拝の場で十字架のキリストを見て心燃やされたいと思います。

Ⅲ.心燃えて
心を注ぎ出して祈ったペニナはもとより、マリアにあったのも心燃える思い、つまり神への畏敬の念、罪の認識だったのです。マリアはそれを次のように言い表しました。
その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、
〈主を畏れる者〉に及びます。
マリアが「主を畏れる者」であることは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(1:38)に端的に表現されています。「主のはしため」との認識はハンナも共有しています(サムエル上1:16)。先ほど朗読されたロマ書を見るとわかるように、パウロも「キリストの僕(奴隷)」(ロマ1:1)との認識を共有しています。さらに言えば、「主の僕(婢女)」との認識は、初代教会も共有しています(コロサイ1:7、ヤコブ1:1、ユダ1等)。キリスト教がローマに公認され、戦う教会から凱旋の教会になってからは、「主のはしため」という認識はキリスト者の中から姿を消しました。
「主のはしため」とは、マリアの謙譲の美徳から出た言葉ではありません。創造主なる神に対する人間の被造物性、すなわち無価値な者、塵芥の意味です(創世記18:27、ヨブ42:6)。嵐の中に顕現された神を見て、自らを「塵芥」と言ったヨブがそれです。ヨブは聖なる神を見て畏敬の念に満たされたのです。主の婢女、というこの認識は、キリスト教がローマに公認され、戦う教会から凱旋の教会になった以後、教会から姿を消しました。
ハンナは「主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」時代、つまり神への畏敬の念が消失した時代にあって、聖なる神への畏れを失うことなく生きていたのです。そのハンナの祈りがマリアの賛歌の手本なのです。つまりマリアは、旧約の賛美の用語法の中で神を賛美したのです。救い主(47)、大いなる業をする神(49)、神の慈しみ(50)、高きを低くし、低きを高くする神(52)、さらにザカリアの預言にみられる、民を訪れ、贖い(68)、契約を憶える神(72)は、すべて旧約で使われている用語です。しかもザカリアの預言には、「敵」からの救いの主題すら入っています(71、74)。
旧約の賛美の至る所で見られるこうした表現が、全く新しい救済の出来事に結びつけられたのです。しかし何かが変わったのです。イエス・キリストにおいて、同じ表現が全く新しい地平に置かれたのです。例えば「敵」からの救いは、旧約の民にとってきわめて重い神学的な調子を持った用語法ですが、それが著しく変化したのです。洗礼者ヨハネの誕生に関するザカリアの預言には、「敵」からの救いが入っています。マリアの賛歌の手本であるハンナも「敵」からの救いを語ります(2:1)。
ハンナが、そしてザカリアが語った敵からの救いの主題がマリアの賛歌にないのです。それは注目に値します。マリアは旧約の中心的な主題である、敵からの救いに沈黙したのです。なぜマリアは敵からの救いに沈黙したのか? 考えうる答えはただ一つ、聖霊によってマリアの胎に宿る御子は、十字架のキリストである!ということです。わたしと他者とを隔てる敵意の壁を打ち壊すことができるのは、十字架のキリストだけなのです(エフェソ2:14)。ルカがそのように考えていたことは、主イエスが神殿に献げられる記事を見るとあきらかです。ルカは、清めの期間を終えて、犠牲を献げるために神殿にやってきた幼子イエスを腕に抱いたシメオンにこう語らせます。「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められている!」(2:34)。
聖霊によってマリアに宿った御子は〈十字架のキリスト〉である! 十字架のキリストは、「人が遥か下に居れば居るほど、一層之を顧み給う」神なのである。マタイは、この十字架のキリストが、「世の終わりまで、いつも私たちと共にいてくださる」という言葉で福音書を閉じました。十字架のキリストが共にいてくださるとは、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」のです。「いつもイエスの死を体にまとっている」いるからです。私たちの命に立ち上がる力を与えてくれるのは、十字架のキリストが放つ麗しさの極み、最高の美だけなのです。マリアの胎に宿った十字架のキリストは、挫折し苦しむことの多い私たちの人生に差し出された存在の恵み、希望なのです! メリー・クリスマス!

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