マタイ2:1-12、黙示録21:22-27、イザヤ49:1-6
讃美歌 子ども21
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイ2:1―2)
Ⅰ.主の僕の使命
アドベントの日々を積み重ね、降誕祭を祝い、その喜びの中できょう、私たちに開かれた〈生ける神の言葉〉は東方の博士たち、つまり異邦人が御子イエスの誕生を祝う物語です。四年サイクルの教会暦_メシアの誕生を待つアドベントから始まり、神の救いの完成を祝う終末主日で終わる_「日毎の糧」は、毎年この箇所を指定しています。違うのは旧約聖書と使徒書簡です。旧約聖書では、昨年はイザヤ書60章、今年はイザヤ書49章、そして来年はイザヤ書61章が選ばれています。教会は二千年に及ぶ歴史の中で、イザヤ書としてまとめられた、捕囚期の預言者第二イザヤ(40−55章)と、捕囚後の預言者第三イザヤ(56−66章)の言葉に、東方の博士たちの物語で実現した旧約の約束、希望を見たのです。私たちも先人たちの信仰に倣い、今年はイザヤ書49章から東方の博士たちの物語において成就した希望を見たいと思います。
第二イザヤはバビロン捕囚末期に活動した無名の預言者です。その文体、思想、霊感の高さ、深さ、大きさにおいて、群を抜き、提起する問題の幅、射程においてこれに比するものはなく、それは遠い昔からの謎として今もなおユダヤ人とキリスト者に迫り、 全人類に問いかけていると語った人がいます(中沢洽樹)。そのような人が「無名」であるとは? 中島みゆきの歌に「愛だけを残せ」という歌があります。「愛だけを残せ 壊れない愛を、激流のような時の中で、愛だけを残せ、名さえも残さず、生命の証に愛だけを残せ」というフレーズが繰り返されます。
第二イザヤは、国家が滅びるという激流の時の中で名前さえ残さず、愛だけを残したのではないか。最も有名なのが53章の「苦難の僕」の歌ですが、他に「主の僕」の歌は三つあります。主の僕の〈召命〉を語る42章、主の僕の〈使命〉を語る49章、そして主の僕の〈忍耐〉を語る50章です。きょう、開かれた49章は、主の僕の使命が語られている箇所です。それは、「わたしはあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」(6)に端的に語られます。 これから分かるように、主の僕の使命は二つです。一つは、「ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる」こと、そしてもう一つは、「それにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」です。
マタイは第一の使命、「ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる」を「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とイエスの誕生物語で描きました。マタイは、アブラハムから始まり主イエスに至る系図で、宗教混交を繰り返したことで、イスラエルが「すべての民の祝福の源」であることに失敗した歴史を描きました。そのイスラエルの罪を赦すために、神は、御子イエスを聖霊によってマリアの胎に宿らせたと語るのです。結婚する前に身ごもったマリアのことで思い悩むヨセフに、主の天使が夢に現れ、こう言ったのです。「マリアは男の子を産む。その子の名をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」イエスは、「ヤコブの諸部族を立ち上がらせる」ために、聖霊によってマリアに宿り、真の人となられたのです。そしてマタイは、永遠の言が受肉したことで、預言者を通して言われていた〈インマヌエル〉、つまり、神、我らと共にいます新しい天と新しい地が完成したと語るのです。
Ⅱ.今こそ、その時
きょう、私たちに開かれた東方の博士たちの物語は、預言者が語る僕の使命の第二、「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする!」です。ここにおいてアブラハムを「すべての民の祝福の源」として選ばれた、神の救いの計画が実現したのです。マタイはこの出来事を次のように導入します。「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』」
マタイが福音書を書いたのは80年代後半、キリスト教は、ユダヤ教から異端宣告を受け、ローマから迫害されていました。そうした時代にあってマタイは、神の民イスラエルの罪の赦しを語り、異邦人が神を礼拝するためにエルサレムにやって来たという、終末における神の救いの完成を描いたのです。この神の救いの完成を実感として受けとめるためには、聖書の民イスラエルが異教徒から迫害された歴史を知る必要があります。ダビデが築いた統一王国は、ソロモン亡き後、南北に分裂し、北王国イスラエルは前721年アッシリアによって滅ぼされ、南王国ユダは前587年バビロニアによって滅ぼされました。以後イスラエルは国家なき民としてペルシアに支配され、主イエスが誕生したときはローマの支配下にあったのです。この間、1000年です。1000年もの間神の民は異邦人の支配下にあったのです。その民に神は、あなたがたは「すべての民の祝福の源である」 と語り続けたのです。その一つが、「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」そして今、主イエスの誕生においてこの神の約束が実現したのです。
そうであるのに、今、私たちがパレスチナの地に見るのは、聖書の民を自称するイスラエルが、「国々の光としわたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」という、存在理由を自ら否定するという愚行です。なぜユダヤ人はこのような愚行に陥ったのか。その理由をマタイは次のように語ります。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである!」つまりイエスにおいて、神、我らと共にいます、という神の民とされたことの祝福が実現するのです。言い換えれば、イエスをキリストと信じる意外に、イスラエルが主の僕としての使命を果たことはないのです。
戦いの教会であったキリスト教がローマに公認され、凱旋の教会となって以来、ユダヤ人はキリストを殺した民として、ヨーロッパ・キリスト教国にあって塗炭の苦しみ味わってきました。ダビデの統一王国が分裂してから1000年、そしてキリスト教が凱旋の教会となってからほぼ2000年、ユダヤ人が味わった塗炭の苦しみに答えはあるのか。そのことを思い巡らしていた時、マクガバンが大統領候補指名を受諾したときに語った演説、_……いまこそ、その時なのだ。今こそこの国が世界にとって、人間社会における正しく、高貴なものの証人に再びなりうる時なのだ。今こそこの国が恐れではなく信念をもって、変わらぬ確信をもって……生きるべき時である_が心に浮かびました。 預言者イザヤが、そしてマタイが、今こそイスラエルは、世界にとって、人間社会における正しく、高貴なものの証人に再びなりうる時であると語るのです。十字架に上げられためにイエスが生まれた今こそ、その時なのです!
Ⅲ.この上もない喜び
いまこそ、その時である! マタイはこの〈いまこそ〉を、博士たちの言葉、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」で描きました。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)が、主イエスに「ユダヤ人の王」という称号を用いるのは十字架の場面です。マタイはその称号をイエスの幼児期物語で用いたのです。つまりマタイは生まれたばかりの幼子に十字架を見ているのです。より事柄に即した言い方をしますと、マタイは、十字架のキリストに光を見ながら、主イエスの誕生物語を描いたのです。ユダヤ人の王イエスは十字架の死によって「人類最後の敵」死を滅ぼし、すべての民に永遠の命を提供された、と。
マタイは主イエスが提供した命を、博士たちの「喜び」で表現しました。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」と(10)。ある説教者は、この時の博士たちを描くのに、「喜びに溢れた」という訳は十分ではないと言います。文字通りに訳すと、「彼らはこの上もなく大きな喜びを喜んだ」、つまり、この喜びは人間が経験しうる最高の喜びであると。
実は、新約聖書の大部分において喜びは、人間が終末時の救いの出来事を先取りする際の、第一の方法です。霊がこの世における神の臨在であるとすれば、喜びは、神が我らと共にいます現在性が人間にもたらす特別の結果なのです。神が我らと共にいます現在性は、神殿で神の臨在を見たイザヤが、「災いだ。わたしは滅ぼされる」と言ったように、苦しみではないのか。然り、神が我らと共にいます現在性は、天にも昇る喜び、死ぬほどの苦しみなのです。言い換えれば、この喜びは、苦痛のあとにくるよろこびではないのです。束縛のあとの自由、飢えのあとの満腹、別れのあとの出会いではない。それは、苦痛をはるか下にして舞うよろこびであり、苦痛を完成するのです。
ゆえにこの喜びは、礼拝においてしか表現し得ないのです。「学者たちはその星を見てこの上もなく大きな喜びを喜んだ。……彼らはひれ伏して幼子を拝んだ」とあるようにです。礼拝によってしか表現できないこの喜びがキリスト者を創るのです。それが、「黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」です。占星術の博士たちにとっての「宝」、黄金、乳香、没薬は、彼らが占いに用いる商売道具、つまり生きるための糧です。博士たちは、生きるための糧を差し出したのです。博士たちは、パンのみで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる者になったのです。
博士たちにこの大転換をさせたのが「ユダヤ人の王」、すなわち十字架のキリストです! わたしたちは十字架のキリストに、主の晩餐で出会うのです。主の晩餐は十字架のキリストを、いま、ここでのこととして現在化するのです。私たちは主の晩餐で、現実に存在する領域に入るように、主イエスが十字架に上げられた場に自覚をもって入り込むのです。
結びに、主の晩餐で十字架のキリストに出会う天にも昇る喜び、死ぬほどの苦しみを語った黙示録の言葉を聞いて終わりたいと思う。「わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要ではない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。(こうして)諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。……小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる!」
十字架のキリストを信じる者、すなわち「小羊の命の書に名が書いてある」「あなたを国々の光としわたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」主の晩餐を守る群れこそ「国々の光」、「地の塩、世の光」なのです。神は御子イエス・キリストを十字架に上げることで、憎しみが満ちた激流のこの世界に聖晩餐を守る群れ、愛だけを残されたのです。