マタイ7:15-29、Ⅱコリント2:14-17、エレミヤ29:4-11
讃美歌 304
「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆は非常に驚いた。……権威ある者としてお教えになったからである。(7:26−29)
Ⅰ.将来と希望
「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(7:26-27) 。まるでノアの大洪水を彷彿とさせるような、降り続く雨の濁流に飲み込まれ、日常がすべて失われるという、主イエスが語るこの光景は、近年の気候変動の影響もあり、よく目にするようになった。私たちの〈祈りの家〉小岩教会は、ハザードマップでは赤く塗られた危険地域に立っている。その意味で、きょう、私たちに開かれた〈生ける神の言葉〉は、私たちにとって、また、すべての人にとって身近なものである。
ところで、マタイが「幸いなるかな、心の貧しい人々」で始まる山上の説教を締め括る主イエスの言葉は、まことに厳しい響きを湛えている。狭い門より入れ。滅びに通じる門は広く、そこから入る者が多い(13)とか、偽預言者を警戒せよ(15)とか、わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者が、みな天の国に入るのではい、とあるように。祝福で始まる山上の説教をこのような言葉で閉じるマタイの眼に、主イエスはどのように映っていたのだろうか? しかも、マタイがここにまとめた主イエスの厳しい言葉は福音書の結びに、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えない」(28:20)とあるように、極めて重要な意味を持つのである。主イエスの弟子たちは、すべての民に、天の父の御心を行うように教えなければならないのである!
そこでまず注目したいのは15節、「偽預言者を警戒せよ」である。先ほどお読みいただいたエレミヤの手紙(29章)の主題がまさにこれである。それには、「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。」(29:5−6)と日常を取り戻すよう綴られている。それは生き延びるための方策ではない。「われわれの骨は枯れ、望みは尽き、絶え果てる」(エゼキエル37:11)と、神にさえ望み得ない絶望、文字通り〈死に至る病〉に犯されていた人々に、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という神の祝福である。その祝福の根拠をエレミヤはこう語る。「それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(29:11)と。
それにしてもなぜエレミヤは、このような手紙を書き送ったのか? それは、この苦しみは2年で終わると語る偽預言者がいたからである。彼らは言う。「イスラエルの神、万軍の主は言われる。わたしは二年のうちに、バビロンの王が奪って行った主の神殿の祭具を持ち帰らせる」(28:2−3)と。しかしエレミヤが神から聞いたのは、これとは全く異なるものであった。「バビロンに七十年が満ちたら、わたしはあなたたちを顧みる。あなたたちをこの地に連れ戻す」(10)というものであった。「七十年」とは長い年月のことである。この苦しみは2年で終わると語る偽預言者の言葉と、「七十年」続くと語るエレミヤの言葉のどちらが真の慰めか。それに答えたのはパウロである。パウロは、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」(ロマ8:18)と語った。パウロが語る現在の苦しみとは、キリスト者に対する迫害であるが、人は皆、苦しみを身に負って生きていると語ったのはブッダである。生老病死すべてが苦であると。預言者や詩編の詩人たちもそう語った。しかしそれはブッダのように難行苦行を経て得た悟りではなく、神の言葉を聞くことによって得た知恵である。言い換えれば、聖書が語る救いは苦しみからの解放ではなく、罪の支払う報酬、死からの解放である。神はエレミヤを通して、罪の支払う報酬としての死を生きる者たちに、「平和の計画、将来と希望」を与えると言われたのである!
Ⅱ.十字架の権威
わたしは、マタイが山上の説教の結びに置いた主イエスの言葉は、エレミヤが語る平和の計画、将来と希望であると考える。主イエスは言われる。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れされ。』」
それにしても主イエスのこの言葉のどこに将来と希望があるのか? 主イエスは十二弟子を伝道に遣わすに先立って、「病人をいやし、死人をよみがえらせ、悪霊を追い出せ」と言われた(10:8)。弟子たちは主の名によって、「預言し、悪霊を追い出し、多くの力ある業を行った」(ルカ10:17)のである。そうであるのに主イエスは、『あなたがたのことを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ!』と言うのである。主イエスはご自分が派遣した弟子の働きを全否定し、「わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」と言われるのである。いったい、天の父の御心を行う者とは、どのような人か?
山上の説教の文脈によれば、天の父の御心を行う者などひとりもいない! モーセの律法ならば聞いて行う者はいる。例えば、永遠の命を求めて主イエスを訪ねた金持ちの青年である。主イエスはこの人に、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな」と語り、「父母を敬え、隣人を自分のように愛しなさい」(19:18−19)と言われる。すると青年は、「そういうことはみな守ってきました」(20)と答えたのである。モーセの律法なら守ることができるのである。その青年が、「もし完全になりたいのなら、持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」との主イエスの言葉を聞くと、悲しみながら立ち去ったのである(19:22)。私たちが山上の説教の結びで聞くのはこれではないか。天の父の御心を行い、天の国に入ることができる完全な者(24)などひとりもいないのである!
そもそも、主イエスに従った人々の大半は、爪はじき者、いわゆる「徴税人や罪人」であり、当時の人々の確信によれば救いを得ることは絶望的であった。その人たちが喜んで、主イエスの言葉を聞いて受け入れたのである。マタイはそれを次のように描く。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆は非常に驚いた。……律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と。キリスト者とは、イエス・キリストへの驚きに生きる者である。それは「感謝」と言い換えることができる。
ところで、マタイが群衆の驚きで描いた主イエスの権威とは何か? マタイはそれを主イエスの復活顕現物語で語る。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておられた山(山上の説教を語られた山? 変貌の山?)に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能をさずかっている!』」(28:16−18)。主イエスは十字架に上げられることで、天と地の一切の権能を授かったのである。十字架が主イエスの権威である。だから人は驚くのである。十字架の言葉はユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの、しかし救いにあずかる徴税人や罪人(わたしたち)には「神の力」なのである。
Ⅲ.キリストの香り
ここ十字架の権威において私たちは、マタイが山上の説教を結んだ主イエスの言葉、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」の意味を知るのである。
「天の父の御心を行う者」とはどういう人か。そのことで注目したいのは、山上の変貌の記事である。弟子たちが、天上の輝きに変貌する主イエスを見ていると、光輝く雲に覆われ、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(17:5)と語りかける声を聞く。「これに聞け」とは、「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活する」(16:21)イエスに聞け!いうことである。つまり、「天の父の御心を行う」とは、倫理的な次元のことではなく、十字架のキリストによる罪の贖いを信じるということである。
それがどれほどの経験であるかを言い表したのが、「律法の義については非の打ちどころがない」と豪語したパウロである。パウロは十字架のキリストによる罪の赦しのあまりの素晴らしさを知った時、「律法の義については非の打ちどころのない」自分を塵芥と吐き捨てる! そして、十字架のキリストによる罪の赦しの素晴らしさをこう語る。
「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられた良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。」この〈キリストの香り〉が、「天の父の御心を行う者」の特質なのである!
その秘義をマタイは復活顕現物語で次のように描いた。「弟子たちは……イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」と。なぜマタイは、主イエスに会い、ひれ伏す者の中に疑う者もいたとしたのか? わたしは、マタイはこの一文で〈キリストの香り〉を描いたと見る。主イエスに会い、ひれ伏す者の中に疑う者もいたとは、パウロの言葉で言えば、「わたしは、なんという惨めな人間なのか。だれがこの死の体からわたしを救ってくれるだろうか」である。主イエスはこう叫ぶしかない私たちの罪をすべて身に負って、すなわち、地獄の火に投げ込まれるしかないわたしに代わって、地獄の火で焼かれたのである。つまり、私たちがキリストの香りであるとは地獄の火で焼かれるキリストの体の香りなのである。
そのことを誰の目にも最も印象的に描いのが、主イエスがペトロに「サタン、引き下がれ」と語った事件である。この言葉が語られる直前、主イエスはペトロを岩と呼び、「この岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」と言われた。そのペトロが、人の子の苦難と死と復活の前に立ちはだかったとき、つまり、十字架のキリストを同情的イエスに取って代えようとしたとき、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱責されたのである。この「サタン、引き下がれ」と主イエスの叱責を受けるペトロこそ、〈キリストの香り〉、キリストの教会が建つ岩なのである。然り、「律法の義については非の打ちどころのない」人々の上にではなく、「わたしは、なんという惨めな人間なのか。だれがこの死の体からわたしを救ってくれるだろうか」と叫ぶ人々の上にキリストの教会は立つのである!
ハザードマップで赤く塗られた危険地帯に私たちの教会は立っている。しかし、私たちの教会は十字架のキリストを信じる者たちが放つ〈キリストの香り〉ゆえに、雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れない。「陰府の力もこれに対抗できない」のである!
「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」
なんという祝福! 天にも昇る喜び、死ぬほどの悲しみか!