マタイ10:26-33、ロマ8:31-36、ヨシュア1:1-9
讃美歌 332
体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(10:28−29)
Ⅰ.不透明な時代
マタイ福音書10章には、主イエスが十二弟子を選び、伝道に遣わすために語られた様々な教えがまとめられている。それは主イエスが「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」ことに端を発している。群衆は先の見えない不安の中で疲労困憊していたのである(9:35−36)。言い換えれば、群衆は希望のない人生を送っていたのである。
マタイが記すこの群衆の姿に思いを馳せていたとき、銀座教会で担任教師をしていたとき読んだダニエル・ベルの『21世紀への予感』が脳裏を掠めた。この本は1989年_その年に銀座教会に赴任_から1991年までの、世界を襲ったさまざまな「時の問題」、湾岸戦争、ドイツ統一、民族紛争、ペレストロイカ、EU統合、貿易摩擦、環境汚染など、次々に起こる世界規模の構造変化を独特の視点から読み解いたものである。ベルはこの書物を次のように書き出す。「占星術の雑誌を眺めていたら、面白い話が載っていた。『先行き不透明なため、千里眼協会の次回の会合を延期します』というのである。」占星術でさえ先行きを見通せないほど時代は不透明である! あれから30年余、世界は暗さに暗さを増しているように見えてならない。言い換えれば、私たち現代人も将来に希望を見出せないのである。
主イエスはこの状況を「収穫の時」と言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と(9:37−38)。主イエスは、人間の未来には希望がある、と言われたのである。そして主イエスは弟子たちが希望のために働くよう「聖霊」を授けたのである。「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」(10:8)と。こうして十二弟子は聖霊によって武装され、地の塩、世の光として!先の見えない不安の中で疲労困憊している人々に遣わされるのである。
きょう、私たちに開かれた10章24節以下には、主イエスが十二弟子を遣わすにあたり三度繰り返し語られた「恐れるな」で始まる言葉がまとめられている。三度繰り返される「恐れるな」には、それぞれにその理由が付されている。26節、「人々を恐れてはならない」には、「覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」と。言い換えれば、隠れたことを見ておられる神を恐れなさい、と。28節はそれを受けて、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と語られ、そして31節、「だから、恐れるな」には、「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」と語られる。
この三度繰り返される「恐れるな」は、主イエスが生きていた時代よりも、マタイが生きた80年代後半の状況により関係しているように見える。主イエスが生きていた時代、弟子たちは主イエスに守られていたのである。その主イエスが世を去って半世紀、教会を取り巻く状況は大きく変わった。マタイが福音書を書いた80年代後半、キリスト者はユダヤ人から敵視され、異邦人から迫害されたのである。キリスト者自身が、先の見えない不透明な時代を生きていたのである。
Ⅱ.非連続の中の連続
ユダヤ人から憎まれ、異邦人から迫害された教会は、313年、ローマに承認されたことで、迫害の時代は終わった。戦いの教会が凱旋の教会になったのである。凱旋の教会になったことでキリスト者はもはや「恐れる」必要はないのか? それを読み解く鍵は口語訳聖書にある。口語訳は26節の「恐れるな」の理由を、「弟子は師以上の者ではなく、僕は主人以上の者ではない。……家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家の者はもっとひどく言われる」を受けて、「だから彼らを恐れるな」と続く。主イエスがベルゼブルと批判された記事は12章22節以下にある。そこでは、悪霊の頭ベルゼブルにまさる主イエスの力は十字架にあると語られる(「政治と宗教」12:22−32)。つまり十字架のキリストを信じる者は何も恐れるものがないと!
十字架のキリストを信じる! ここに迫害のない時代を生きるキリスト者の恐れがある。どういうことかと言えば、今日、「同情的イエスがカルバリーのキリストに取って代わってしまった」からである。心理学者ウィリアム・ジェームズは膨大な宗教的経験を検証した書物、『宗教的経験の諸相』で、大宣教時代のアメリカの教会について、「神を信じないさまざまな教会が、今日、倫理会という名称で世界に普及しつつある……」と語った。それは「キリスト教を消滅させる喪失である」(フォーサイス)。言い換えれば、現代の教会は、迫害下にあった教会とは異なる仕方で、存在の危機に直面しているのである。「『キリスト者の神』は必ずしも常に『十字架につけられた神』ではないし、むしろそうであるのは極めてまれである」というモルトマンの言葉が、この危機がいかに深刻であるかを見事に言い表している。
十字架につけられた神が〈わたしの神〉となることは「極めてまれである。」キリスト者の将来にも希望はないのか? そのことを思い巡らしていたとき、ヨシュア記1章の記事に導かれた。『ヨシュア記』は深い、大きな歴史の断絶から話をはじめる。モーセの死という歴史的かつ民族的危機に物語の発端をおく。実は、その歴史的危機の場にヨシュア記の著者がいる。彼はバビロニアにより国家が破滅するという歴史の断絶を経験した。敗戦という国民的規模の崩壊経験の最中で、「わたしの僕モーセは死んだ」とヤハウェに語らせる。より事柄に即した言い方をすれば、イスラエルはヤハウェを異なる神に代えた罪により、乳と蜜の流れる約束の地から放り出されたのである。イスラエスは将来の希望が見えない不透明な時代を生きていたのである。その意味で、ヨシュア記1章が語る危機は、同情的イエスをカルバリーのキリストに取って代えた現代のキリスト者の危機に重なるのである!
将来の希望が見えない不透明な時代、イスラエルがヤハウェを異なる神に取って代えた危機の中でヨシュア記の著者は、その因ってきたる原因を捉え直し、解釈し、不確かさと先行きの不透明さに包まれている未来について語ったのである。「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている 土地に行きなさい」と(1:1−2)。モーセは死んだという過去と、約束の地に行きなさいという未来、この不連続の中の連続を支え、歴史形成を真に保証しているのは人間的勇敢さでもなければ、猪突猛進でもない。「強く、雄々しくあれ」、「恐れてはならない」、〈勇気を出しなさい〉という生き方を支え、それを保証しているのは、「モーセと共にいたように、わたしはお前と共にいる」(5)という神の約束であり、保証である。私たちが、聖霊によってマリアから生まれ、十字架で死ぬイエスから聞くのもこのインマヌエルである。死んで甦られたイエスは、「世の終わりまで、わたしたちと共にいる」のである。
人は主イエスが共におられることを何によって験るのか。それは、十字架のキリストを、いま、ここでのこととして目の前に描き出す主の晩餐においてである! キリスト者は、主の晩餐においてキリストの肉を食べ、血を飲むごとに、主が来られる時にいたるまで、主の死を告げ知らせるのである。それを別の視点から語ったのが、「家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族はもっとひどく言われる」である。主イエスはここで、私たちを神の家族であると断言する。あなたがたは神の家族なの「だから、恐れるな!」と。神がわたしたちの(父)味方であるがゆえに、キリスト者は「体は殺しても、魂を殺すことのできない者ども」、つまり患難も苦しみも迫害も飢えも裸も危険も剣も、恐れないのである!
主イエスは神が味方であることを次のように語る。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」と。主イエスは弟子たちが人を恐れる必要がない理由を、神が「あなたがたの父」であることに見たのである(ヨハネ1:13)。神は独り子イエス・キリストを十字架に上げることで私たちを神の家族とされたのである。神が父である新しい関係こそ、神の恵みによって始まる新しい生活の最も重要な、他の何ものにも比べることができないものである。神が父である新しい関係はキリスト者の全生活を貫く。
Ⅲ.恩寵としての勇気
神を父とする恵みによって始まるキリスト者の新しい生活の最も重要なことは、未来の救い、すなわち体の甦り、永遠の命に与る希望の確かさである。未来の救いが確実であるという希望は、キリスト者の日常に安らぎと保護を与える。それは、いわゆる無病息災ではない。パウロの言葉で言えば、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」(ロマ8:18)のである。将来わたしたちに現されるはずの栄光とは、体の贖われること、すなわち復活節のよろこびである。「復活節のよろこびは、苦痛のあとにくるよろこびではない。束縛のあとの自由、飢えのあとの満腹、別れのあとの出会いではない。それは、苦痛をはるか下にして舞うよろこびであり、苦痛を完成するものである。」(シモーヌ・ヴェイユ)。パウロはそれを次のように語った。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅びない」(Ⅱコリント4:8−9)と。
この「苦痛をはるか下にして舞うよろこび」から量り知られない神の恵みに自分を委ねる勇気、恩寵としての勇気!が生じる。この勇気との関連で特に新しい光に照らされてくるのが〈苦しみ〉である。古代のユダヤ教はこの点で残酷な考え方をしていた。苦悩はその一つ一つが特定の罪に対する罰である、と。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(ヨハネ9:2)。これが当時の人々の揺るがない確信であった。そしてこの確信は科学・技術時代を生きる私たちの身の回りにも溢れている!
主イエスは苦しみのもとである罪を探すのを厳しく拒否した。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:3)。すなわち、神の栄光のための苦しみがあると! 神の栄光のための苦しみとは、独り子をお与えになったほどに世を愛された神の痛みの愛により、御子イエスを信じ、永遠の命を得ることである(ヨハネ3:16)。“霊”の初穂をいただいているキリスト者は、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいるのである(ロマ8:23)。
なぜキリスト者は体の贖われることを呻きながら待ち望むのか? 呻きとは、「わたしは、なんという惨めな人間なのだろう。だれがこの死の体から救ってくれるだろうか」(ロマ7:24)という呻きである。この呻きのないところに、体が贖われる希望はない! 言い換えれば、神がご自分を異なる神に取って代えたイスラエルを約束の地から放り出されたのは、将来と希望をあたえるためなのである。それを象徴的に語ったのがダビデに語られた預言者ナタンの言葉である。「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。……」(Ⅱサムエル7:14−16)。「わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。」この神の慈しみの最頂点に十字架のキリストがいる!
主イエスは言われる。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」この言葉は三つの部分から構成されている。一羽の雀も神にかかわりなく死ぬことはない。神がこの死に関与している(29)神は弟子たちの髪の毛の数まで知っている。すなわち、神の子たちに対する神の配慮はどんな小さなことも除外しない(30)。この三つの部分は、神はその子たちの生死を御手にしっかり握っている!ことを表現している。私たちの生死は独り子を十字架に上げる神の愛の御手に握られている! だから私たちはパウロと共にこう言うことができるのである。「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」(ピリピ1:21)。十字架のキリスト以外に〈わたしの神〉はいない! だから、わたしよ、勇気を出しなさい!