- マタイ23:25-28、Ⅰペトロ2:1-10、イザヤ53:1-6
讃美歌 514
ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。(23:26−27)
Ⅰ.罪人へのイエスの眼差し
2025年の召天者記念礼拝を、ご遺族と共に守れることを神に感謝します。キリスト教は主の祭壇で故人を記念します。天上のもの、地上のもの、地下のものがすべてイエスの御名に跪き、共に神を賛美するのです。その信仰についてアウグスチヌスは『告白』の中で印象深いことを語っています。母モニカを連れて郷里に帰る途上、モニカは臨終を迎えます。せめて母を郷里の地に葬りたいと願う息子たちにモニカはこう言ったのです。「このからだはどこにでも好きなところに葬っておくれ。そんなことに心をわずらわせないでおくれ。ただ一つ、お願いがある。どこにいようとも、主の祭壇のもとで私を想い出しておくれ。」主の祭壇、すなわち十字架のキリストが今、ここに現在する主の晩餐で故人を記念する、それがキリスト教の信仰なのです。マタイはそれを主イエスが十字架で息を引き取られた記事で描きました。主イエスが大声で叫び、息を引き取られたとき、「……地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」と。ここには最初の日々の雰囲気がなお何がしか保たれています。地は震い、死人は生き返り、新しい世が始まろうとしているのです! 聖霊の照明を祈り求めつつ、この礼拝において、私たちも最初の日々の雰囲気に浸りたいと思います。
きょう、私たちに開かれた生ける神の言葉は、主イエスが律法学者とファリサイ派の人々に語られたまことに厳しい言葉、「あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ている……。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」です。この呪いに満ちた言葉は、山上の説教で、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」の対極にあります。主イエスの口からこのような激しい言葉を聞くとは、正直、戸惑いを覚えます。彼らはユダヤ人社会にあって政治と宗教の頂点にいた人たちです。その人たちを主イエスは、外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている偽善者、白く塗った墓と言われたのです。いったい、主イエスはこのような言葉で何を言われたのでしょうか?
主イエスが宣べ伝えた神の国の福音は、当時のユダヤ社会にあって救いを得ることは絶望的であったとみなされていた徴税人や罪人に神の愛が向けられているというものでした。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人をまねくためである」(9:13)と。主イエスの呼びかけが罪人に妥当し、義人には向けられていないということは、一見するところあらゆる倫理の解体です。主イエスの時代、人々は神との関係を人間の倫理的行動の上に置いていました。福音がこれをしなかったのは、まさに宗教の基底を揺るがしたのです。神は正しい人よりも、罪人とかかわりをもつという主イエスの言葉は、激烈な抗議を、特にファリサイ派の人々の間に呼び起こしたのです。
福音書に主イエスの敵対者として記されるファリサイ派は、紀元前2世紀前半、ユダヤ教がギリシア化することに対抗して形成された一般信徒の運動です。このファリサイ派の特徴を最もよく示しているのが「食前の手洗い」です。それは単に衛生上の問題ではありません。祭司が祭壇に捧げられた物を食べる時に行う典礼上の義務であり、祭司だけに課されたものです。それをファリサイ派は一般信徒でありながら、自らに課したのです。そうすることによって彼らは、自分たちを終末における神の救いの民、神の聖なる民であると表明したのです。そのファリサイ派を主イエスは、偽善者、白く塗った墓、外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちていると糾弾されたのです。
Ⅱ.人効論か、事効論か
主イエスはファリサイ派のどこに問題を見ていたのか? その手がかりは26節、「まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる」です。服や食器、あるいは部屋の汚れは洗ったり、拭くことできれいになります。内側、つまり心の汚れを落とすには、どうしたらよいのでしょうか。内側を清める方法についてキリスト教には二つの考え方があります。一つは「人効論《業を為す人によって》」です。人間の「自由意志」にもとづく努力が救いをもたらすという考え方です。もう一つは「事効論《為された業によって》」です。人間の内側の汚れを清めるのは、ただ神の「恩寵」によるという考え方です。
ファリサイ派の人々は人間の「自由意志」にもとづく努力が救いをもたらす「人効論」の考え方に立っていました。それは私たちすべてのものに共通する見方です。幼い頃、祖母は口癖のように「そんなことをしたらバチが当たるよ」と言っていました。私たちは義しい人を賞賛し、善い人を褒め称えるのです。主イエスも、ファリサイ派の人々が神の意志に従うために真剣に努力していたことを認めています。彼らが慈善に励み、断食をし、経済的な犠牲をいとわない姿を、主イエスは無意味であるとはしていません。主イエスの眼にもファリサイ派は、神の御旨をなさんと努力している義なる人、善なるひとと映っていたのです。そうであるのに主イエスは敬虔な人たちこそ危険に瀕していると言われたのです、彼らが罪を真剣に受け取っていなかったからです。
そのことを自らの経験から語ったのがパウロです。パウロは「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした」(フィリピ3:5b−6)。ファリサイ派の一員であった時、パウロは人効論、つまり人間の自由意志による努力によって救いが得られると考えていたのです。言い換えれば、罪を真剣に受け取っていなかったのです。そのパウロが、「わたしは、なんと惨めな人間か。誰がこの死の体からわたしを救ってくれるだろうか」と塵芥であると認めたのは、十字架のキリストが何者であるかを知ったときです(使徒9:1−5)。
「論語読みの論語知らず」という格言がありますが、ラビ・ガマリエルのもとで聖書を研究していたのに(使徒22:3)、パウロは聖書を知らなかったのです。聖書、特に旧約聖書は行間にまで人間の罪が溢れています。詩編51編の詩人は喉から搾り出すようにこう歌います。「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです」と。主イエスの言葉で言えば、人間は母の胎に宿った時から、「死者の骨やあらゆる汚れに満ちている」のです。母の胎に宿った時から罪に汚れているとは、人は努力によって清くなることはないということです! だから詩人はこう祈ったのです。「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように」と。ここには内なる汚れ、罪を心底知った人がいる! 詩人を清くすることができるのは、ただ神の恩寵、憐れみだけなのです。
これとの関連でぜひ紹介したいのは砂漠の修道士アントニウスです。古代末期から中世への移行期に、まるで降って湧いたように、砂漠へあふれでた夥しい数にのぼる世捨て人がいました。時代は、4、5世紀にさかのぼります。その時、地中海世界に何が起こりつつあったのか。すでに、キリスト教は、ローマ帝国の国教として公認され(313年)、地中海沿岸の諸都市には、キリスト教会の聖堂が、次々と建立されました。改宗者が続出し、真新しい教会の聖堂は、信者の群れであふれました。様相は一変したのです。キリスト教会は、多くの富と政治の特権を獲得し、急速に、世俗化への道を歩みはじめたのです。砂漠への逃避は、まさに、このような状況の中で起きました。理由は単純です。キリスト教徒の間に、教会の世俗化に抵抗し、それを嫌悪する者たちが、少なからずいたからのです。
聖アントニウスもその一人でした。彼の生活誌は、悪魔との闘争一色に塗りつぶされています。昼も夜も悪魔との闘争に駆り立てられたアントニウスは、砂漠の奥へ奥へと踏み入ります。そうして15年の歳月が過ぎた時、アントニウスはある決定的な経験をします。彼は洞窟の入口を固く閉ざして、必死に、何ものかの侵入から身を守ります。その正体は、欲望という名の悪魔です。暗黒の洞窟では、眠っていた欲望がつぎつぎに力をもり返し、動きだす。聞くこと、喋ること、見ることの闘いが、執拗に彼を苦しめます。そして、最後に残った闘いが、邪淫との闘争でした。アントニウスは「いったい、だれが、この悪魔の罠から逃れることができようか」と絶望の叫びを挙げるのです。
Ⅲ. 至高の美
アントニウスはこの絶望の叫びの後に、ある決定的な経験をするのです。人々が驚くほどの難行苦行を重ねても魂の汚れを清めることができずに、心と体がくたくたになり、死んだように倒れているとき、見えるはずのないキリストの手が、やさしく差し伸べられていたのを見るのです。彼は、その手を握りしめると、涙にむせびながら、こう叫びます。「主よ! あなたは、勝ち給うた!」その瞬間に、不思議が起こるのです。彼の手の中にひとかけらのパンが、しっかりと握りしめられているのです。正確にいうと、それはもはやパンではない。それは、キリストの〈からだ〉、十字架に釘うたれたキリストの〈聖体〉である。
正しい人はいない、一人もいない。皆迷い、だれも彼も役に立たない者となった。内側は強欲と放銃で満ちている。この内側から腐れ果てた人間に救いはあるのか? 然り、人はただ神の恩寵によってのみ救われるのです。この事効論を印象深く語ったのがイザヤ書53章の「主の僕」の歌です。預言者はこう語ります。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。……この人は……見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」と。主の僕は、人がこれまで経験した一切を超えているのです。聖書によれば、神に選ばれた者はみな、美しいのです。初代の王サウロも、ダビデも、そして約束の地も皆、美しいのです。そうであるのにこの僕は主に選ばれながら、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」のです。なぜ、この僕には見るべき面影がないのか? 預言者はその理由を、「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」と語ります。つまり、主の僕の外見の醜さは、私たちの内なる罪の醜さなのです。神は、その私たちの内なる罪の醜さのすべてを僕に負わせた!のです。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。……わたしたちの罪のすべて、主は彼に負わせられた!」
聖書の民はこの「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」主の僕において、最高の形態における美しさの現実性に出会ったのです。イスラエルにとって特徴的なことは、神の自己放棄に至るまでの神の下降に最高の美、輝き出る美を見たことです。「われわれの命に立ち上がる力を与えるもの、それは、輝き出てくる美しさだけなのである。美のひとのみが力を喚ぶ」のです。
結びに、十字架のキリストという最高の美によって内側から清められ、立ち上がった人について語った、ペトロの言葉を聞いて終わりたいと思います。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。……主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです_最高の美_。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい_救済の恵みもまた美しい_。こうして……あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです!」
イエス・キリストが十字架で裂かれた体、流された血により、死者の骨やあらゆる汚れで満ちている墓が清められ、聖なる者たちの体が生き返ったのです! 地は震い、死人は生き返り、新しい世が今や訪れようとしているのです! 主イエスはこの新しい世に律法学者やファリサイ派の人々を招き入れるために、「まず、杯の内側をきれいにせよ。_十字架のキリストを信じなさい、そうすれば、外側もきれいになる」と言われたのです。
十字架のキリストによって、わたしたちは、暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れられたのです。「われわれの命に立ち上がる力を与えるもの、それは、輝き出てくる美しさだけなのである。美のひとのみが力を喚ぶ」のです。決して神を賛美することのない罪人が神を賛美する者に変わったのです!