讃美歌 96、112、108、126
Ⅰ.アブラハムとダビデ
クリスマス・イヴ、蝋燭の火を見つめながら聖書の言葉を読んでいると、ドストエフスキーが『罪と罰』で描いた、殺人者ラスコーリニコフと淫売婦ソーニャがラザロの復活物語を読む場面が思い起こされる。「自分というものをすべて、洗いざらいさらけだしてしまう」という言葉もある。ここには作者の深い体験がにじんでいるように思われる。私たちも自分を何もかも洗いざらいさらけ出して、神の言葉に聞きたいと思う。
まず注目したいのは、この系図の表題に記された二人の人物、アブラハムとダビデです。アブラハムは75歳の時、「すべての民の祝福の源」として神に召されました。その時、世界は、何も生み出しえない死の世界、呪われた世界として痛みの下に横たわっていました。蛇に誘惑されて禁断の木の実、善悪を知る知識の実を取って食べた人間の罪は雪だるま式に拡大し、ついて天に届く塔を建て始めたのです。善悪を知るとは、神のようになる、という意味ですが、その人間を前にして、神はこう言われます。「これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない」と。この言葉には、人間の恐るべき可能性に直面した古代人の真の恐怖を感じると言った人がいます。
科学技術の目覚ましい進歩の時代を生きている私たちが感じている恐怖はこれを遥かに超えるのではないか。スペインの思想家オルテガが『大衆の反逆』に記した言葉が心に迫ります。_われわれの時代は、信じがたいほどの実現能力があるのを感じながら、何を実現すべきかがわからないのである。……われわれの時代はかつてないほど多くの手段、より多くの知識、より多くの技術をもちながら、結果的には、歴史上もっとも不幸な時代として波間を漂っているのである。_
世界は何も生み出し得ない、呪われた死の世界として波間を漂っている! その世界を神は、祝福された命溢れる世界に再創造するために75歳のアブラハムを召し出されたのです。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と。その後イスラエルは自らの在り方を、このアブラハムの召しに照らして繰り返し検討しました。その一つに、国家が滅亡する死の時代を生きたエレミヤの言葉があります。_「立ち帰れ、イスラエルよ」と主は言われる。……呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。……もし、あなたが真実と公平と正義をもって「主は生きておられる」と誓うなら、諸国の民は、あなたを通して祝福を受ける_と(4:1−2)。
イスラエルは預言者の言葉に従い神に立ち帰ったでしょうか。マタイがこの系図で描いたのは、イスラエルは神に立ち帰らなかった、という歴史です。諸国民の祝福の源として召されたイスラエルが神に立ち帰らなかったとは、世界は呪われたまま、死の相の下に横たわるしかないのか? この問いに答えるのが、アブラハムと共にその名を記されたダビデです。ダビデはイスラエル十二部族を統一して王国を築いた王です。神は預言者ナタンを通して、ダビデにこう約束されます。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。……彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。(しかし)わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。……あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」(Ⅱサムエル7:12−16)。
ダビデに対するこの神の約束は、時間の経過と共に新たに解釈され、現実的な意味を獲得して、世代から世代へと受け継がれました。そして今、ダビデから千年の時を経て、ナタン預言が成就するのです。ダビデの子ヨセフと婚約していたマリアが聖霊によってイエスを生むのです。ヨセフの夢に現れた天使は、マリアから生まれるイエスは、神に立ち帰らないイスラエルを「罪から救う(贖う)」のです。
Ⅱ.この上なく純な希望
マリアから生まれるイエスはどのようにしてイスラエルを罪から救うのか。旧約聖書が現在ある形にまとめられた千年の歴史は、人の子が十字架に上げられた一日のためにある、と言った人がいます。つまりナタン預言、「彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。(しかし)わたしは慈しみを彼から取り去りはしない」が、十字架のキリストにおいて成就するのです! マタイはそれを次のように言い表しました。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」
十字架のキリストにおいて、「神、我らと共におられる」が実現したのです。それを象徴的に描いたのが、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊」と歌い出すイザヤ書11章です。
イザヤは「エッサイの切株」から出る未来の王に救いが決定的に肉体化されているとみなしたのです。現に続いているダビデ王朝という政治体制を根底からの否定したのです。この激しい否定なしに一つの希望は、この上なく純な形にまで清められることはないのです。
いったい、イザヤは、エッサイの切り株から萌え出る若枝に何を見たのか。それを思い巡らしていたとき、キルケゴールの言葉が思い起こされました。_政治的なものと宗教的なものの物の見方は、天と地ほども相異しており、同様にその出発点や最終目標も、天と地ほども相異している。というのは、政治的なものは地にとどまるために地で始めるが、一方、宗教的なものはその端緒を上方からみちびきつつ、地上的なものを聖化して天にまで引き揚げようとするからである。_
政治とは何か、力、すなわち権力である。権力とは何か、富、金である。ゾンバルトは20世紀を「悪魔の世紀」といい、「経済時代」と言った。「経済が、経済的利益が、他のあらゆる価値に対して優位をもとめ、また獲得して、経済のもつ特性が他のすべての社会、文化を特質づけている。」
主イエスは言われる。人は神と富とに兼ね仕えることはできないと。人はパンだけでいるのではない、神の口から出る一つ一つの言葉で生きると。
Ⅲ.闇に輝く光
イザヤが11章で描いているのは、まさに神に仕えるあり方、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる宗教的な物の見方です。地上的なものを聖化して天にまで引き揚げるこの上なく純な希望です。ちなみに、イザヤが活動したのは北イスラエルが滅亡する死の時代です。それは「今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」暗黒の時代です。仏教者であり小説家である武田泰淳は『わたしの中の地獄』でこの闇について次のように語りました。「地獄を知り尽くすことはできない。地獄の地獄性は、それほど限りないものである。……地獄とは何か。人間の苦悩のすべてである。……つまずきがある、壁がある、矛盾がある、絶望がある、迷いがある、疑いがある。醜さがある、汚れがある、弱さがある、競争がある、攻撃がある、抹殺がある。」
預言者はこの地獄、死の陰の地に住む者の上に輝く光を見たのです。1―5節で、主の霊を注がれたメシア王の姿に光を見たのです。それは栄華と繁栄の政治的王とは無縁です。軍備拡張についても何も語られていません。主の霊を注がれたメシア王の働きは、「正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯び」て、社会の弱者を毅然と守る姿にしぼられるのです。
この弱者を毅然として守るメシアの働きが自然界に及んだのが6節以下です。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。」こうして預言者は、地上的なものが聖化されて天にまで引き上げられた、新しい天と新しい地を描いたのです。
この新しい天と新しい地の鍵となるのが、「義」です。「正義をその腰の帯とし真実をその身に帯びて」社会の弱者を守り、自然界で敵対する動物の間に平和を造り出すのです。旧約において「義」ほど中心的な意味をもつ概念は他に全くない。義は人間と神との関係のみならず、人間同士の取り止めもない争いというような関係に対する基準、否、人間と動物、自然環境との関係に対する基準でさえあるのです。つまり義は、そのまま最高の生価値として、あらゆる生命が秩序ある状態すなわちシャローム(平和)にあるものとして言い表すことができるのです。
この平和、義を言い換えたのが、主イエスの降誕物語の主題、「神、我らと共にいます」です。しかし、と人は言うかもしれない。武田泰淳が言うように、私たちが生きているこの世は、 神、共にいます天国ではなく、地獄であると。この問いにマタイは福音書の結びで答えている。マタイは自らの福音書を「神、我らと共にいます」で結んだのです。マタイは、甦られたイエスは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての人をわたしの弟子にしなさい。……わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語らせたのです。神は、十字架のキリストという形で我らと共におられるのです。十字架のキリストにおいて神が我らと共におられるとは、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」のです。
結びに、フランス系ユダヤ人、シモーヌ・ヴェイユがナチス・ドイツの迫害を逃れ、アメリカに亡命中に書き残した言葉の一つに聞いて終わりたいと思います。「不幸な人々に対して、神の御国について語らないこと。その人たちに取って、神の御国なんて、あまりに縁遠いものであるから。ただ、十字架についてだけ語ること。神が苦しんだのだ。」十字架のキリストは、挫折し苦しむことの多い私たちの人生に差し出された存在の恵み、希望なのです! メリー・クリスマス!