2025/12/8 降誕節第2主日  「悪の道から離れよ」

エレミヤ36:1-8、マルコ7:14-23、Ⅱテモテ3:14-4:2a
讃美歌 284


お前は断食の日に行って、わたしが口述したとおりに書き記したこの巻物から主の言葉を読み、神殿に集まって人々にも読み聞かせなさい。……主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。(エレミヤ36:6−7)

Ⅰ.罪との戦い
「外から人の体に入るものが人を汚すのではない、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(15)。主イエスのこの言葉は、弟子たちが手を洗わないで食事をしているのを見たファリサイ派の人々が、なぜ「昔の人の言い伝え」を無視するのか(5)と非難したことに答えたものです。ユダヤ社会では「昔の人の言い伝え」は「律法」に次ぐ権威を持つ戒めです。ちなみに、ここでいう食事の前の手洗いは、単に衛生上のことではなく、聖なる献げ物を食べる宗教儀式に準ずることです。
「律法」や「昔の人の言い伝え」に対する主イエスの態度は、山上の説教に見られるように、古代のユダヤ教を通じて唯一かつ他に例をみないものでした。人々は主イエスの教えに「非常に驚いた(たまげた)」(マルコ1:22)のです。発言だけなら驚くべき発言をした人はユダヤ教のラビにも見られます。福音書記者たちと同世代のラバン・ヨハナン・ベン・ザッカイは、_ユダヤ戦後、捕虜収容所があったヤムニヤでユダヤ教の再建を主導した人_死体に触れた者の汚れとその清めについて次のように語っています。「誓って言うが、死体が汚れの元となるのでも、水が清めてくれるものでもない。しかし、それはすべての王たちの上にある王の定められたことである」と。
ザッカイは死体を「汚れ」とした「律法」(レビ22:4−8)を否定するような徹底性を示したのです。こうした驚くべき発言ですが、両者の間にはある決定的な違いがあります。ザッカイの発言の意図は、「すべての王たちの上にある王の定められたこと」とあるように潔めの規定を守り、正当化することにあるのですが、主イエスにはそういうことはまったくなく、人間の心から出る人を汚す罪と真剣に対決することを問題にしているのです。「人間の心から、悪い思いが出て来る。淫らな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、妬み、悪口、傲慢、無分別などの悪は皆、心から出て来て、人を汚す」(マルコ7:21−22)と。
きょう、私たちに開かれた〈生ける神の言葉〉、エレミヤが神の言葉をバルクに筆記させた36章の主題はまさにこれです。罪と真剣に対決するということです。エレミヤはそれを二度繰り返し語ります。3節、「ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、 それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。」そして7節、「主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない」と。エレミヤは神の民イスラエルが神に立ち帰ることを願って、書記バルクに、神が「ヨシヤの(治世)第13年から今日に至るまで23年間」(25:3)、「イスラエルとユダ、および諸国について」エレミヤに語った言葉を残らずに巻物に筆記させたのです。それを要約すると、「主は僕である預言者たちを倦むことなく遣わしたのに、お前たちは耳を傾けず、従わなかった」(25:3b−4)、「それゆえ、……見よ、わたしはわたしの僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて、……この地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる」(25:8−9)というものです。
エレミヤはそれを、有名な「神殿説教」で語りました(26章)。イスラエルが神の言葉に聞き従わないなら、神はエルサレムと神殿を「すべての国々の呪いの的とする」と。エレミヤは、神の言葉に何の興味もない人が礼拝することに意味があるのか、その人々にとって神殿はもはや何の意味もない(7:1−15)と言い放ったのです。エレミヤと同じようなことを語った人がいます。米国の教会員の95%は聖書に無関心である、と(J・D・スマート『教会における聖書の奇妙な沈黙』)。米国における宗教的無関心は、生誕祭や復活祭、日曜日の務めの尊重という見せかけのもとで起こったのです。聖書が沈黙した教会、神の言葉を聞いて心が燃えないキリスト者とは何者か? 聖霊の召命を祈り求めつつ、この礼拝で語られる神の言葉に心が燃やされ、罪と真剣に対決したいと思います。

Ⅱ.神の熱情
エレミヤは「神の心を最も深く見た」人といわれます(キッテル)。そのエレミヤが聞いた神の言葉、「我が膓かれの為に痛む」(31:20)を導きの糸として『神の痛みの神学』を書いた北森嘉蔵先生は、「私は彼(エレミヤ)と共に神の御心の深き所へまで入りゆくことを許されて、感謝に満たされている」と語りました。私たちも北森先生のように、エレミヤが見た神の心の最も深い所を見て、感謝に満たされたいと思います。
エレミヤが見た、神の心の最も深い所には何があるのか? それは、イスラエルに罪を認めさせ、自分のもとに立ち帰らせるという〈神の熱情〉です。_「立ち帰れ、イスラエルよ」と主は言われる。「わたしのもとに立ち帰れ。呪うべきもの(偶像)をわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない。」もし、あなたが真実と公平と正義をもって「主は生きておられる」と誓うなら、諸国の民は、あなたを通して祝福を受け、あなたを誇りとする」(4:1−2)と主は言われたのです。イスラエルは罪を悔い改めて神に立ち帰るなら、「地上のすべての民と異なる特別なもの」(出エジプト33:16)となるのです。
エレミヤはこの神の熱情、深き御心を伝えるために、若き日に預言者として召され、23年間(25:3)、理解されようがされまいが倦むことなく神の言葉を語り続けたのです。そのエレミヤが晩年、神の言葉に飽きてしまった人々によって公の場で語ることを禁じられたのです。そうした状況の中でエレミヤは、断食の日に、神殿に集まる人々に読み聞かせるため、書記官バルクに神の言葉を残すところなく口述筆記させたのです。
旧約聖書に収められた預言書の著者を「記述預言者」と総称します。彼らは数知れない預言者伝承の中で、自分に臨んだ神の言葉を語るだけではなく、巻物に書き記したのです。その経緯を伝えているのがイザヤ書の二箇所(8:16−18、30:8−7)とここです。預言者に臨んだ神の言葉を〈語る〉ことから〈巻物に記す〉この三箇所は、預言者の言葉の本質、またその見解について大きな鍵を与えてくれます。エレミヤに臨んだ神の言葉をバルクに口述筆記させるというこの行為は、この企ての目的が何であるかを知る上できわめて重要です。それは、イスラエルを神へと立ち帰らせること、そして神に赦しを与えてもらうという〈最後の試み〉なのです。
それを語り手は、周辺から中心へと徐々に緊張を高める技法で、この巻物が三度読まれたことを報告します。一度目は、605年の「断食の日」に民の前で読まれた最初の朗読です。それは簡潔に、「バルクは主の神殿で巻物に記されたエレミヤの言葉を読んだ」とだけ記され、それを聞いた民の反応については何も語られていません。
この後バルクは、役人たちの前で二回目の朗読を行います。それはかなり詳しく述べられます。役人たちはバルクが読むエレミヤの言葉を聞くと、驚き、「この言葉はすべて王に伝えねばならない」(16)と言って、バルクには、「あなたとエレミヤは急いで身を隠しなさい。だれにも居どころを知られてはなりません」と言ったのです。国の重要な職責を担う役人たちは巻物に記された神の言葉に戦慄し、王がこの言葉にどのような反応を示すかを予見して、エレミヤとバルクに身を隠すよう勧めたのです。言い換えれば、バルクはこのとき、役人の集まりで神の言葉が聞かれるという何ものにも変え難い恵みを体験したのです。
そして三度目は、王の前でバルクが巻物を読む場面です。語り手は民衆、役人、そして王へと徐々に高まる緊張をもって、巻物が辿る運命の最高頂を準備したのです。王は巻物に記された神の言葉を聞いてどのような反応を示すのだろうか? 父ヨシヤのように、「主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されている……言葉を実行することを誓う」(列下23:3)のだろうか。冬の宮殿で火鉢の前に座わる王の周りに大臣たちが立っている。王は巻物が読まれると激怒し、巻物を引きちぎり、火にくべたのである!

Ⅲ.書物の受難
巻物が引きちぎられ、火にくべられて燃やされることの中に、神の言葉の運命が反映しているのです。それは「書物の受難」と呼んでもよいものです。それは特別な仕方で繰り返された苦難の僕エレミヤと重なります。しかし巻物が辿った受難はエレミヤの受難とある一点で決定的に異なります。ばらばらに引き裂かれ、燃やされた巻物は新たに作られるのです。神から授かった十戒の板が、イスラエルの罪ゆえに砕かれた後、神は再び十戒の板をモーセに授けたようにです(出エジプト34:28)。エレミヤは王が巻物を破り捨て、火で焼くと、新たにバルクに口述筆記させたのです。天地は滅びても神の言葉は決して滅びず、永遠に立つのです(イザヤ40:8)!
若き日に預言者として召されたエレミヤが23年間、時が良くても悪くても倦むことなく語り続けた神の言葉を記録したこの企ての目的は、イスラエルを揺り動かして神に立ち帰らせ、赦しを与えてもらう最後の試みでした。その巻物を王は破り捨て、火で燃やしたのです! 王は、つまりイスラエルの民は神に立ち帰る最後の機会を失ったのです!
イスラエルに救いはあるのか? エレミヤはこれより少し前、神がこう語るのを聞いたのです。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている……。それは平和の計画であって、将来と希望を与えるものである」(29:11)。人間が神の言葉をどれほど拒もうと、巻物を引きちぎり、火で燃やそうとも、神の言葉は永久に立つのです。
それが預言者に臨んだ神の言葉を巻物に記したという行為の意味なのです。神の言葉が書き記されたことで、預言者の言葉は最初の聴衆を越えて、それが語られた歴史的状況が変化する中、時代を貫いて伝達されたのです。この伝承の背後にあるのは、一度語られた神の言葉はいかなる事情があっても無効になることはないという確信です(イザヤ55:10−11)。特に注目したいのは、歴史において目的を達した預言、つまり成就した預言ですら、預言としてイスラエルの上に留まり続け、つねに新たな内容を抽き出すことができたことです。
そのことを思い巡らしているとき、主イエスが郷里ナザレの会堂で行った最初の宣教を描いたルカの記事に導かれました。主イエスは預言者イザヤの巻物から、イスラエルが異邦人から解放される預言を朗読すると(61:1−2a)、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4:21)と言われたのです。主イエスの言う「今日」とは、主イエスが宣教を開始した今日であり、ルカが福音書を書いた80年代後半の「今日」であり、そして、私たちが今、現に生きている「今日」なのです。
旧約聖書が一冊の書物にまとめられた千年の時は、イエス・キリストが十字架に上げられた一日のためにあった、と語った人がいます(ヴェスターマン『千年と一日』)。十字架のキリストが、いま、ここに現在する主の晩餐において、預言者の言葉は「今日」実現するのです。ギリシア正教会の典礼に強い影響を与えたクリュソストモスは、ミサのなかにキリストが現在する方法は、聖餐制定の言葉だけではない。キリストは目に見えなくとも、祭儀のどこにもいる。彼は「主の食卓の主人」である。祭司が聖体をさし出すとき、目に見えなくとも、それを渡すのは主の手である、と語りました。
結びに、書物に記された神の言葉が、常に新しく繰り返し今となる信仰の神秘について語ったパウロの言葉に聞いて終わりたいと思います。パウロは晩年、若き伝道者テモテにこう書き送りました。_あなたは、……自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っている。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。……神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国を思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」(3:14−4:2)。
神の御心の最も深いところには十字架のキリストがいる!とパウロは語るのです。「世界宣教に乗り出した時ほどキリスト教がキリスト教らしく、また、イエスと一体化しており、未来への途上にあったことはなかった。」初めにあった言、神と共にあった言、神であった言が肉となり十字架に上げられたことで、私たちの罪、咎、汚れは清められたのです。十字架のキリストをいま、ここに現在化する主の晩餐により、主が来られる時まで主の死を告げ知らせる教会は、神がこの世界に打ち立てた平和の計画、人類の将来と希望なのです。

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