2025/7/20 小岩教会献堂75周年記念礼拝(聖霊降臨日第7主日)公同礼拝

「希望の説明」   近藤勝彦先生

 

ルカによる福音書22章57−62節

キリスト教信仰で大切なのは、「信仰と希望と愛」と言われます。「信仰」と「愛」が密接な関係にあることは、主イエス・キリストの御生涯と特に十字架に示された神の大きな愛を思いますと、神に愛された者として私たちも神を愛し、同時に他の人々をも愛する者にされていることが理解されるでしょう。それでは「信仰」と「希望」の関係はどうでしょうか。信仰に生きるところ、そこに希望もあることを今朝の御言葉を通して学びたいと思います。
ペトロの手紙一は、特に信仰と希望の間に密接な関係があることに注意を向けています。この手紙は、キリスト者はみな天に国籍を持ちながら、地上の寄留者として仮住まいの中に生きている、それゆえまた誰もが試練の中に生きると理解しています。それで、寄留者として試練の中を生きながら、何事も恐れず、希望をもって生きると語られます。今朝の御言葉は、仮住まいの生活の中でも「善いことに熱心であること」また「義のために苦しみをうけるのであれば、むしろ幸いなことだ」と語り、「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません」と言います。そして「心の中でキリストを主とあがめなさい」と語って、「希望」の話になります。「あなたがたの抱いている希望」について説明を求められたら、いつでも弁明できるように備えていなさいと言うのです。
それでは、信仰と希望の関係はどう語られたのでしょうか。キリスト者の希望は、ここでは、何か人生の成功者になるとか、金銭的利益を手にすることなどに向けられていないことは明らかです。この手紙で「希望」が語られるのは実はこの個所で三度目で、一度目は、手紙の冒頭で、「あなたがたは、神の憐みと主イエス・キリストの復活によって、新たに生まれさせられ、生き生きとした希望を与えられている」(1・3)、そして続いて「キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神」に「信仰と希望」はかけられている(1・21)、と記されます。そして今朝の箇所で、「希望の説明ができるように備えなさい」と言うわけです。
希望の話しになる直前の言葉は、「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい」です。手紙の著者とされるペトロは、主イエスが十字架にお架かりになる前夜、その決定的な時に、おそらく周囲の人々を恐れたからではないでしょうか、自分が主イエスの弟子であることを否認して、「イエスなど知らない」と何度も言い、その結果自分の惨めさに激しく泣いた経験を持っています。ですから、何事かに恐れを抱くこと、特に人々を恐れることは、希望を失うことに通じるのを知っていました。それで、「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい」と言います。
この言葉は、聖書のどこにでも語られる言葉のように思われるかも知れません。しかし実は、これはイザヤ書8章から引用された言葉です。イザヤ書8章12節に「彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。万軍の主をのみ、聖なる方とせよ」とあります。ペトロの手紙の方は、「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい」です。読みくらべてみますと、同じ内容であることが分かります。「恐れてはならない、おののいて、心を乱してはならない、主をのみ聖なる方としてあがめなさい」と言うのです。「あがめる」と「聖とする」は、同じ言葉です。「キリストを主とあがめる」のは、イエス・キリストを「主」と呼ぶ、「主」というのは神の固有名詞である名を呼ぶところで、代わりに「主」と呼んだのです。つまり主イエスを「万軍の神」と呼んで、「聖なる方とする」ことです。
預言者イザヤのこの言葉は、それが語られた具体的な背景も分かります。それは、アッシリアの王センナケリブの軍勢が紀元前700年頃、突如、大国として出現してきた時のことです。アッシリアはバビロンを滅ぼし、さらにイスラエルの北王朝サマリアを滅ぼしました。突然の大国の出現とその侵略の凄まじさに恐怖して、ユダをはじめ他の小国は同盟を結び合いました。そういう国際政治の恐怖のなかでのことです。アッシリアの軍勢が南王国ユダの都エルサレムを取り囲みました。このときの様子は、列王記下の19章に記されています。その時のユダの王はヒゼキアで、彼は宮廷長や書記官、祭司の長老ちに荒布をまとわせ、預言者イザヤのもとにつかわしたと記されています。そして民のために祈ってほしいと願いました。そのときのイザヤの言葉が、さきほどの「彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。万軍の主をのみ、聖なる方とせよ」でした。そしてエルサレムを囲んだアッシリア軍は、その夜一夜のうちに18万5千人を失って、退却したと言われます。「朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた」。列王記下19章はそう伝えます。アッシリア軍の中に激しい感染症が襲ったのかも知れません。エルサレムはかろうじて窮地を脱しました。そしてこの出来事の中で語られたイザヤの預言は皆の心に残ったわけです。たとえどんな敵軍であれ、人間を恐れてはならない。心を乱してはならない。万軍の主のみを聖なる方とせよ。
それで初代教会は、主イエスがわたしたちのために十字架にお架かりになり、復活なさり、神の右の座に就かれたとき、主イエスを罪と死と悪魔的なものに打ち勝った万軍の王、主なるキリストと信じ、このときの記憶を思い起こしたのです。
そうすると希望とは何でしょうか。それは復活の主キリストが万軍の王であり、主なる神でいらっしゃる。その生けるキリストがわたしたちと共にいてくださる。主イエス・キリストにあって神の救いの偉大な業が今日も働いてくださるということです。そして生ける主なる神を崇め、聖なる方、まことなる神と正しく信じる。そう信じるときに湧いてくるものがあるわけです。それが希望です。そして明日に向かて生きる力になります。
それでペトロの手紙は、この世の寄留者であり、仮住まいにいるキリスト者たちがいま置かれている試練の中で、どう生きたらよいか記しました。「善に熱心であるように」、「義のために苦しみを受けても、幸いとするように」。そう語って、「人々を恐れたり、心を乱してはいけない」、「心の中でキリストを主とあがめなさい」。「キリストを主とあがめる」とき、万軍の王、主なるキリストを聖なる方とします。復活のキリストは神の右に座し、神の大能を帯びた勝利の主として、あらゆる支配、権威、勢力、主権の上にあって、死んだ人にも生きている人にも「主」となられています。この主を信じ、あがめる正しい礼拝が、希望の発信源です。主キリストが活きて臨在され、生ける神がお働き下さるところ、そこに希望が湧き、生きる力が湧いてきます。
「希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」とあります。キリスト者は「信仰の証し」をしますが、同時に「希望の証し」もするわけです。ほかの人々と同じ状況に生きて、キリスト者の信仰が目立つとき、希望に生きていることも周囲の人たちに気付かれて、その説明が求められるかもしれない。その時、答えられるように備えていなさいというわけです。希望について説明を求められるということは、逆に言えば、同じ状況に生きて、多くの人々が希望を失い、失望して人生に見切りをつけ、諦め状態になるでしょう。人生や世界に絶望する人も出て来ます。その中でキリスト者たちは希望をもって生きる。それが不思議に思われるときがあると言うのです。なぜ絶望しないのか。なぜ心配や不安で心乱れないのか。なぜ恐怖に捉えられないのか。なぜ喜んで毅然と生きているのか。
それは、「心の中でキリストを主とあがめているから」です。私たちのために十字架にお架かかりになった主イエス・キリストが勝利の主、万軍の主として私たちと共に、そして私たちのためにいてくださるからです。キリストにあって生ける神が共にいてくださるからです。偉大な神の救いの業が今日も力を発揮します。だから何事も恐れず、人々も恐れません。心を乱しません。イエス・キリストを「主」、「万物の頭」とあがめて、毅然と信仰の生活を生きます。それが希望の姿です。そのことを穏やかに、敬意をもって、正しい良心で弁明しなさいと聖書は言います。「キリストに結ばれたあなたがたの善い生活」をもって弁明しなさいとも言われています。そのように心がけたいと思います。

天の父なる神様、創立記念日礼拝に招かれ、共に、「心の中でキリストを主とあがめなさい」との御言葉を聞くことができて感謝します。どんな時にも主イエス・キリストを私たちの主、万軍の王と信じ、人々を恐れることも、心を乱すこともありませんように、導いてください。信仰を証しするととともに、主にあって希望をもって生きることができますように、「キリストに結ばれた善い生活」を生きて、神様の御栄をあらわすことができますように。今、試練の中に置かれている兄弟姉妹のうえに、神様の憐みと慰めが豊かにありますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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