礼拝メッセージ

2025/9/28 聖霊降臨節第17主日   「絶望との闘い」 

マタイ18:21-35、ロマ8:18-24a、創世記3:22-24
讃美歌 246

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。(18:21−22)

Ⅰ.神の国の福音の中核
きょう、私たちに開かれた〈生ける神の言葉〉は、罪の赦しには際限がない、という、主イエスが宣べ伝えた神の国の福音の中核である。罪の赦しに際限がないとは、私たちが生きている世界の現実から著しく逸脱する。人類は犯した罪に対して同等の罰を科すことで、犯罪を抑制してきた。それを象徴するのが「目には目を」というハンムラビ法典である。同じ言葉が旧約聖書、出エジプト記21章にある。「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足……で償わねばならない」(21:23−25)。
しかし主イエスが宣べ伝えた神の国の福音は、罪の赦しには際限がないのである。主イエスは、人類が犯罪の抑止として勝ち取った同等の償いを「山上の説教」で否定した。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」と命じられている。しかし、わたしは言う」と言って、昔の人の言い伝えを廃棄したのである。その意図は次の言葉に象徴される。「淫らな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女をおかしたのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」(5:28−30)。

主イエスは、実際に姦淫を行なっていない者も、姦淫の罪から逃れることはできない、としたのである。「淫らな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女をおかしたのであると」と。言い換えれば、片目を抉り出したところで、人間は罪の誘惑に打ち勝つことはできないのである。ヤコブはそれを次のように語った。「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥る…、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生む」と(ヤコブ1:14−15)。人は片目を抉り出したところで、地獄の火を免れることはできないのである!

人類が犯罪の抑止として勝ち取った同等の償いを廃棄し、罪の赦しには際限がないと語る主イエスのこの言葉を私たちはどう聞けばよいのか。それについてキルケゴールが「単独者」のまえがきに記した言葉が示唆となる。_政治的なものの物の見方と、宗教的なものの物の見方とは、天と地ほども相異しており、同様にその出発点や最終目標も、天と地ほども相異している。政治的なものは地にとどまるために地で始めるが、一方、宗教的なものはその端緒を上方からみちびきつつ、地上的なものを聖化して天にまで引き揚げようとするからである。_
「目には目を」はキルケゴールの言葉で言えば、政治的なものの物の見方であり、主イエスが言われた際限のない赦しは、宗教的なものの物の見方、つまりイエスをメシアと信じる者の共同体、教会に妥当する言葉なのである。マタイは、主イエスが語る際限のない罪の赦しに、「地上的なものを聖化して天にまで引き揚げる」圧倒的な神の恵みを読み取ったのである。マタイはそれをこの後の「天の国の譬え」で展開する。聖霊の照明を祈り求めつつ、主イエスが神の国の譬えで語られた圧倒的な神の恵みを味わいたいと思う。

Ⅱ.圧倒的神の恵み
一万タラントンの借金を許された家来が、仲間に貸した百デナリオンを許さないというこの譬えは、マタイだけが伝える特殊資料である。主イエスがこの譬えで語られた、家来が王に借りた借金一万タラントンとは、想像を絶する途方もない額である。_1タラントンは6000日分の賃金、つまり休みなく働いて16年分の賃金に相当する額であり、一万タラントンは、その一万倍、十六万年分の額である。_
王は家来に返済を迫るが、返済できないと知ると、「自分も妻も子も、また持ち物全部売って返済するように命じる。」家来はひれ伏し、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と必死に願う。すると主君は家来を「憐れに思って、彼を赦し」、その借金を帳消しにする。ところがこの家来は、外に出て、百デナリオンを貸している「仲間」に出会うと、捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と詰め寄り、仲間を引っ張って行き、借金を返すまで牢に入れたのである。この家来が仲間に貸した百デナリオンは100日分の賃金に相当する額であり、家来が王に借りた1万タラントンとは比べようのない小額である。そうであるのにこの家来は、自分が王から憐れみを受けたように、仲間を憐れむことなく、牢に閉じ込めたのである。_この家来を見ていると、まるで自分の姿を見ているようである。_譬えはこの後、この様子を見ていた仲間たちが心を痛め、事の次第を主君に残らず告げると、主君は怒って家来を牢に収監することで終わる。

そしてマタイはこの譬えに次のような解釈を付け加えた。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」同じ言葉をマタイは山上の説教の中心、「主の祈り」の結びで語る。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(6:14−15)。マタイの信仰、神学によれば、教会は際限のない罪の赦しによって立ちもすれば倒れもするのである。

それにしても主イエスは、一万タラントンの借金を許されながら、百デナリオンを返せない仲間を許さない家来で何を描いたのだろうか。そのことを思い巡らしていたとき、ルターが宗教改革の狼煙を挙げた「95ヶ条の提題」の第一条が心に浮んだ。ルターは、キリスト者の全生涯が悔い改めである、と語った。罪を実感して生きるのがキリスト者である、としたである。_それは死ぬほどの苦しみ、天にも昇る喜び!_一万タラントンの借金を許されながら、友人に貸した百デナリオンを許さない家来にあったのは、罪の感覚の衰えではないのか。罪との関係が切れては、恵みは意味をもたないのである。

マタイがそのように考えていたことは、この譬えを、「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」と問うたペトロに対する答えとして、つまり教会に向けて語られた譬えとしたことから明らかである。この譬えが教会に向けて語られたとはどういうことか。それについて、アウシュヴィッツの経験を纏めた『夜と霧』の中のフランクルの言葉が示唆となる。
「……一つの未来を、彼自身の未来を信ずることのできなかった人間は収容所で滅亡して行った。未来を失うと共に彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落した。」この言葉は「絶望との闘い」の章で記される。わたしは、マタイがこの譬えを、教会に向けて語られたとした意図はこれではないか、と考える。つまり「絶望との闘い」である。

私たちが今、現に生きている世界は、アウシュヴィッツの様相を呈している。すなわち未来を失った世界である。多くの心ある人々が、私たちが今、現に生きている世界は未来を失った世界であると語る。その一人に、ある科学者集団の存在がある。彼らは今から半世紀前、コンピュータモデルを駆使し、その結果を『成長の限界』として出版し、各界に衝撃を与えた。1970年代、このまま世界の人口が増え続けたらどうなるのか、世界経済が今のまま成長を続けたら、環境にどのような影響をもたらすのか、地球の物理的限界の範囲内で収めながら、すべての人を十分に満たすような経済を確保するにはどうすればよいのか、といった問題を提起したのである。

そのチームが20年後、より優れたコンピュータモデルで駆使し、検証し直した結果、人類社会はすでに限界を超えてしまった、と結論し、「もし未来というものがあるとするならば、後退的な、速度を緩めた、癒しの未来以外には考えられない」と、最先端の科学技術を駆使する科学者が、まるで宗教者を思わせるような言葉を語ったのである。そしてこの後に語られた言葉は胸を突く。「技術的、経済的には、持続可能な社会への移行は可能であるし、さほど難しいことでもないと信じている。だが、心理的、政治的には、人びとに二の足を踏ませるような選択であることも承知している。それは、あまりにも多くの希望が、あまりに多くの人びとのアイデンティティが、そして工業化された現代文明の多くが、果てしなく続く物質的成長という前提の上に築かれているからだ。」

Ⅲ.絶望との闘い
一万タラントンの借金を許されながら、仲間に貸した百デナリオンを許せない家来にあるのもこれではないか。果てしなく続く物質的成長という前提の上に築かれた価値観であり、その果てにあるのが、牢に収監されるという、未来を失った姿である。この譬えには、私たちの理解を超える不可解なものがある。それは、一万タラントンという天文学的負債を許されながら、仲間の百デナリオンを許さない家来ではない。すでに触れたように、この家来は〈わたし〉自身なのである。この譬えで不可解なのは、一万タラントンという巨額な借金を帳消しにした王である。この王の振舞は私たちの経験、理解を超絶する。

この王の振る舞いの不可解さを思い巡らしているとき、創世記3章、「禁断の木の実」を取って食べた人間について語られた神の言葉、「主なる神は言われた。『人は我々の一人のように……なった。』」(3:22)に導かれた。神のようになった人とは、「土の塵」から作られた人間(=私たち)である。土の塵から作られた人間は、命の息を吹き込まれて生きる者になった。その人間が、神の戒めを破り、善悪を知る木の実を取って食べて、神のようになった!のである。その帰結に、天に届く塔を建てる物語がある(創世記11章)。つまり聖書記者は、天に届く塔を建てる人間に、神のようになった人間の罪を見たのである。わが罪、身の丈を越えて天にまで達した!のである。それが、主イエスがこの譬えで描いた、一万タラントンという天文学的借金(罪)を負う家来である。結果、世界は何も生み出し得ない死の世界となる。こうして聖書は、塵芥にすぎない人間が神のようになった時、人間は未来を失ったと語るのである。神と共にあり、何不自由なく生きたエデンの園から追放され、土に帰るまで、額に汗して働く者となったのである。

この死の世界を、命溢れる祝福された世界に再創造する、というのが旧新約聖書を貫く神の救いの計画である。そして、その神の救いの計画は十字架のキリストにおいて完成するのである。つまり、主イエスがこの譬えで語られた一万タラントンという天文学的負債を赦した王とは、御子イエス・キリストを十字架に上げる神なのである。主イエスは十字架に上げられることで、「地上的なものを聖化して天にまで引き揚げる」のである(ヨハネ12:32)。十字架のキリストこそ圧倒的な神の恵み、未来を失った世界の希望なのである。

結びに、そのことを語ったパウロの言葉を聞いて終わりたいと思う。パウロは、虚無に服した被造物(未来を失った世界)は、神の子たちの出現を切に待ち望んでいると語る。それは、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子たちの栄光に輝く自由にあずかれる希望があるからであると。つまりキリスト者は、未来を失った世界の光、希望であると。こう語った後、パウロはさらに言葉を続ける。この被造物の切なる呻きに応えるために、御霊の最初の実をもっているキリスト者は、心の内で呻くのであると! この呻きは、体の甦りという希望から発せられると。つまり、キリスト者は体の甦りという希望によって、未来を失った死の世界、絶望と闘うのである。絶望と闘うキリスト者のエネルギー提供源は、十字架のキリストを今、ここでのこととして目の前に描き出す聖晩餐である。主の晩餐においてキリスト者は、人類最後の敵・死、絶望と闘うのである。

トマス・ア・ケンピスが『キリストに倣いて』に記した言葉が心に迫る。この本は、「聖餐にあずかる者への敬虔な勧め」として書かれたものである。彼は言う。「わたしは罪の悔い改めの定義を知るよりも、むしろそれを実感したい。」私たちが命と見立てた聖書には、罪を実感した人々の言葉が溢れている。私たちは、聖書によらなければ、罪を実感することはできない。主の日の礼拝毎に、御言葉と聖礼典の恵みによって罪を実感し、未来を失った世界にあって、絶望と闘う教会であり続けたいと願う。

TOP