マタイ13:24-33、ロマ7:15-25、創世記1:29-31
讃美歌 234A
僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。……刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」(13:27−29)
Ⅰ.イエスの譬え
マタイは13章に「神の国の譬え」を7つ集めた。この7つの譬えは、それぞれ別の機会に、別の状況下で語られたものである。改めて言うまでもなく、同じ言葉でも、状況が異なればその意味は異なる。そのことを心に留めつつ、今週と来週の二週にわたり、4つの「神の国の譬え」を聞く。ピスガの頂きから約束の地を見渡したモーセのように(申命記34章)、私たちもまだ見てはいないが信じている天の故郷に想いを馳せたいと思う。
主イエスの譬えを読む場合、「私たちは……主イエスの側近くにいるのだと結論せざるをえない」(エレミアス 『イエスの譬え』)と言った人がいる。主イエスは譬えの題材を、人々が生きた身近な日常生活から取り、非日常である神の国について語られたのである。つまり主イエスは譬えを語ることで、聴衆を見たことのない神の国、非日常の世界に導き入れたのである。
ところで、主イエスの譬えはすべて簡単明瞭で、子どもにも理解できるようなものである。にもかかわらず譬え本来の意味を探索するという困難な問題に直面させる。なぜなら、主イエスの死後十年のうちに、譬えは〈寓喩〉として取り扱われ始めたからである。寓喩とは、譬えの個々の部分に特別な深い意味を付与するものである。例えばマタイは36節以下に、「毒麦の譬え」の寓喩的解釈を伝えている。それによれば、_良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らであり、その毒麦を蒔いた敵は悪魔、そして刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである_というように、譬えの一つ一つの言葉に深い意味を付与している。
この寓喩的解釈は、譬え本来の意味を数世紀にわたって厚いヴェールで覆い隠したと言ったのはアーノルド・ユーリッヒャーである。彼は言う、多くの事情が寓喩的解釈を促したと。最初は、子供にも分かる主イエスの単純な言葉の中により深い意味を見出そうとする素朴な願いが無意識のうちに働いたと。時代が進むと、この傾向に一層拍車がかかったのであるが、それは「毒麦の譬え」のように、寓喩的解釈の施された譬えが福音書の中に四つ存在したことによる(マルコ4:14−20、マタイ13:37−43、49−50、ヨハネ10:7−18)。
アーノルド・ユーリッヒャーはこの寓喩的解釈を決定的に粉砕し、譬えは一度限りの、具体的な生活状況の中で語られたものであるとして、譬えが語られた本来の具体的な状況に位置づけようとしたのである。そうした取り組みの中でユーリッヒャーは、主イエスの譬えは、全部ではないが、大部分論争の武器であったことを発見する。言い換えれば、主イエスは譬えを語ることで聴衆に即座の回答を求めたのである。主イエスは聴衆にある影響を与えるべく譬えを語られたのである。ある影響とは、先ほど触れたように、主イエスの譬えを読む場合、私たちは主イエスの側近くにいるということである。
聖霊の照明を祈り求めつつ、できる限りではあるが、寓喩という厚いヴェールで覆われた主イエスの譬えの本来の意味を探り出し、主イエスの側近くにいる幸いを味わいたいと思う。
Ⅱ. 毒麦の譬え
まず注目したいのは「毒麦の譬え」である。すでに見たように、この譬えには寓喩的解釈が施されている。_良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らであり、その毒麦を蒔いた敵は悪魔、そして刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである_と。
この寓喩的解釈は主イエスの譬えの本来の意味を厚いヴェールで覆い隠す。では、「毒麦の譬え」の本来の意味は何か。それを知る手掛かりは、僕たちが「行って(毒麦を)抜き集めましょうか」と言ったのに対して、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言われた主イエスの言葉にある。聴衆は主イエスのこの言葉を聞いて、大工を生業とするイエスは農作業のことを何もわかっていない、と思ったのではないか。農民たちにとって雑草を取り除くことは常識だからである。雑草処理を怠ると農作物の収穫に悪影響が出るのである。主イエスはそれを、「種を蒔く人の譬え」(13:1−9)で語っていた。茨の間に落ちた種は、茨に塞がれて実をつけることができない(7)、と。
主イエスも農作物のためには雑草処理が不可欠であると知っていたのである。そうであるのになぜ主イエスは、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言われたのか。いったい、農作業の常識に反するこの言葉で主イエスは何を言われたのか。わたしは、それを読み解く鍵は譬えの導入部にあると考える。主イエスは「天の国は次のようにたとえられる」と言ってこう語る。「ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた」(24−26)と。
寓喩的解釈は「毒麦を蒔いた敵は悪魔」であると解説する。主イエスがこの譬えで語られた「敵」とは悪魔のことか? そうでないことはナザレの会堂で主イエスが、悪霊に苦しめられている人を癒す記事に端的に描かれる(マルコ1:23−26)。悪霊は主イエスに、「かまわないでくれ」と必死に懇願し、主イエスが「神の聖者」であると知っており、そして主イエスが「この人から出て行け」と言うと、悪霊は出て行ったのである。悪霊は主イエスの敵ではない!
では、畑に毒麦を蒔いた「敵」とは誰か? そのことを黙想していた時、創世記1章以下の天地創造の物語に導かれた。そこには毒麦を蒔いた「敵」は人間、つまり禁断の木の実を取って食べ、「神のようになった人間」であるとある。語り手は、六日目の創造を終えられた神を次のように描く。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(1:31)。神はお造りになったすべてのものを御覧になり、極めて良いと太鼓判を押す。そして「第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった」のである(2:2)。
このあと聖書は、この神の安息は、神のようになった人間によって破られた!ことを描く。神が「極めて良い」と太鼓判を押された世界は、神のようになった人間によって崩壊の一途を辿るのである! 「神は言われた。『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食物となる』」(1:29)と。この青草に覆われた全地が、神のようになった人間により、「茨とあざみを生えいでさせ」(3:18)、人は一生、額に汗して食べ物を得、ついに土に還るのである(3:18−19)。
それ以来、旧約聖書のどこを見渡しても神の安息を見出すことはできない。神は昼夜を分かたず崩壊の一途を辿る世界のために働き続けるのである。それを印象的に語ったのがヨハネである。主イエスが38年もの間病気で苦しんでいる人を癒やされると、それが安息日であったことで、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始める。その人々に主イエスはこうお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる」(5:17)。「神のようになった」人間によって神の安息が破られて以来、神は働き詰めである、とヨハネは主イエスに語らせたのである。
いったい、いつまで、神は働き続けねばならないのか。それは独り子イエスが十字架に上げられる時まで!である(18:28)。神の御子イエス・キリストは十字架に上げられることで、「神のようになった人間」の罪を贖われるのである。つまり、主イエスが十字架で死んで以来、神の安息を妨げるものはもはや存在しないのである。神は十字架のキリストにおいてすべての業を完成し、安息なさったのである!
ここにおいて私たちは、農民の常識に反する主イエスの言葉、「両方とも育つままにしておきなさい」がいかに恵み深い言葉であるかを知るのである。その恵みをパウロはロマ書7章で次のように描いた。「わたしは、自分のしていることが分からない。……自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪」(7:15、19−20)であると。
このパウロの言葉は、毒麦の譬えを彷彿とさせないか。「両方とも育つままにしておきなさい」という主イエスの言葉がなければ、人は一瞬たりとも生きることはかなわないのである! この後パウロが語る言葉は、「両方とも育つままにしておきなさい」という主イエスの言葉がどれほど恵み深いかを象徴的に描く。「わたしは、なんという惨めな人間なのか。誰がこの死の体から救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」(7:24−25)。
主イエスは農民の常識に反する、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」という言葉で、聴衆にこのパウロの反応を求められたのではないか。良い麦と毒麦が共生している「わたしは、なんという惨めな人間なのか。誰がこの死の体から救ってくれるでしょうか。」この心の底から溢れ出る叫びを持たない者は、神の安息に入る至高の喜びを、「言葉では言い尽くせないすばらしい喜び」(Ⅰペトロ1:8)を味わうことはできないのである。
Ⅲ. 大いなる信頼
主イエスが十字架に上げられたことで、父である神はその働きを完成し、永遠に安息なさったのである。永遠の安息とは、もはや神の安息を妨げるものがない新しい世が始まったということである! しかし今、私たちが現に見ている世界は、穀物がたわわに実る世界ではない、毒麦が繁茂する世界である。神の独り子イエス・キリストが十字架で死んだことは無意味なのか? この問にマタイは、「からし種とパン種」の譬えで答えたのである。からし種とパン種の譬えが語られた状況は、主イエスの宣教の成果が疑われたことにある、と解説した人がいる。例えば、郷里ナザレでは、主イエスは人々の不信仰のために力ある業を一つも行うことができなかったとある(マルコ6:5以下)。言い換えれば、主イエスがそこにいるのに、何も変わらない現実がそこにあるのである。主イエスの空しい説教や、主イエスに対する激しい敵意(マルコ3:6)、そして大勢の弟子たちが主イエスから離反する(ヨハネ6:60)形をとって、人々の疑惑の目は、主イエスの宣教に向けられたのである。
こうした状況下にあって主イエスは「からし種とパン種」の譬えを語られたのである。主イエスは言う。「神の国は、一粒のからし種、とりわけ少量のパン種と同じ関係にある」と。主イエスはこの譬えで、初めと終わりの鋭い対照を述べる。からし種は、「地上のあらゆる種の中で最小のもの」(マルコ4:31)である。しかしそれが育つと、「空の鳥がその影に巣を作るようになる」(32)。また、少量のパン種は、大量の粉に比べると微量である。それが粉全体を発酵させるのである。
主イエスは、ご自分に向けられた疑惑の眼差しに対して、初めの小ささと終わり大きさに注目せよ、と言われたのである。神の国は肉の目には見えないほど小さくても、すでに始まっていると。それを端的に言い表したが、ルカが伝える次の言葉である。「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」(12:32)。主イエスが「からし種とパン種」の譬えで意図されたのはまさにこれである。主イエスは〈大いなる信頼〉、揺るがない信頼を聴衆に求めたのである。
結びに、この〈大いなる信頼〉に約束された祝福について語ったパウロの言葉を聞いて終わりたいと思う。パウロは言う、_死者の復活もこれと同じである。
蒔かれるときは〈朽ちるもの〉でも、〈朽ちないもの〉に復活し、
蒔かれるときは〈卑しいもの〉でも、〈輝かしいもの〉に復活し、
蒔かれるときは〈弱いもの〉でも、〈力強いもの〉に復活するのです。
つまり、〈自然の命の体〉が蒔かれて、〈霊の体〉に復活する」(15:42−44)と。
なぜパウロは、このような神秘を語ることができたのか。それは十字架で死んだイエスが復活したからである。パウロは、種を復活の比喩、死と生の神秘の象徴として、初めと終わりの完全に異なった状態、一方では〈朽ちるもの〉〈卑しいもの〉〈弱いもの〉、すなわち死、他方では〈朽ちないもの〉〈輝かしいもの〉〈力強いもの〉に復活する、神の全能の奇跡、独り子イエスを十字架にあげる愛によって起こった永遠の生命に全幅の信頼を寄せたのである。
神は人間の罪によって毒麦が蔓延る世界を、独り子イエスを十字架に上げることで再創造されたのである。私たちが今、現に見ている世界は、人間の罪が生み出す毒麦が繁茂する世界、しかしその世界は、御子イエス・キリストが十字架に上げられることで祝福された命の世界に生まれ変わったのである。そのことに疑いの眼差しを向ける者たちに主イエスは、「からし種とパン種」の譬えによって〈大いなる信頼〉を求めたのである。「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」(12:32)と。
神が御国をくださるというこの約束は信頼に足る。なぜならこの約束の根拠は十字架のキリストだからである。キリスト者は、人間の罪によって毒麦が繁茂するこの世を、十字架のキリストを目の前に描き出す主の晩餐に与ることで、死ぬべき体が霊の体に復活する希望に生きるのである。