礼拝メッセージ

2025/8/17 聖霊降臨節第11主日 「平和の使者」

マタイ9:35-10:15、Ⅰコリント11:26-30、イザヤ52:7-12  讃美歌 531

イエスは十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「……町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。」(9:5、11−12)

Ⅰ.聖霊を求める祈り
主イエスは御国の福音を宣べ伝えながら、町や村を残らず回り、会堂で教え、ありとあらゆる病気や患いを癒やされた(9:35)。そこで主イエスが見たのは、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていた群衆の姿であった(9:36)。その群衆を主イエスは深く憐れみ、弟子たちにこう語りかける。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(9:37−38)。主イエスは、収穫のためには一刻の猶予もないと言われる。しかし、「働き手が少ない」と。主イエスは弟子たちが進んで「働き手」になると申し出ることを期待されたのだろうか。主イエスの御心にあずかった者として、また、主イエスを通して見る目を与えられた者として、あのイザヤのように、「わたしがここにおります。わたしをお遣わしください」(イザヤ6:8)と願い出ることを期待されたのか。
そうではない。主イエスが弟子たちに求められたのは、収穫の主に「働き人を送り出してください」と願うことであった。なぜ主イエスは弟子たちに、「わたしをお遣わしください」と申し出ることではなく、収穫の主に願うよう求められたのか。ルカは(24:46−49)、そしてヨハネも(20:19−23)、弟子たちが全世界に派遣されるのは、主イエスの死と復活の後に、聖霊が注がれることによってであるとした。弟子たちが主イエスの死と復活、そして罪の赦しの証人になるには、収穫の主、聖霊が不可欠なのである。

この後マタイはその秘義を十二弟子の選びと派遣の記事で展開する。ちなみに、十二人を選ぶ記事と派遣する記事は表題を見ると判るように、マルコにもルカにもある。しかもマルコとルカは、この二つの単元を別々の文脈で伝えている。マタイはそれを一つの単元として密接に結び付けたのである。つまり十二人の選びと派遣に関するこの単元には、マタイの信仰、神学が色濃く反映しているのである。聖霊の照明を祈り求めつつ、主イエスが十字架で死んだ時、墓が開いて死者たちの体が生き返ったと記したマタイの視線を通して、マタイが見たものを私たちも見たいと思う。

まず注目したいのは「十二人の選び」である。マタイはそれを次のように導入する。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」(10:1。9:35)。マタイによれば、主イエスは、ご自分と同じように、弱り果て、打ちひしがれている群衆を癒すために十二人を選び、霊を授けるのである。問題は、この素晴らしいカリスマを与えられる十二人の中に、「裏切り者」イスカリオテのユダが含まれていることである。マルコは、この十二人の選びを、「これと思う人々」(3:13)と言い表した。またルカは、イエスは祈るために山に登り、夜を徹した(6:12)と語る。つまりユダは、主イエスが「これと思う人」の一人であり、夜を徹して祈られた祈りの中で選ばれたのである。このユダの選びに隠された、神秘としての神の知恵の頂点に、主イエスが語った次の言葉がある。「新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」(マタイ19:28)。主イエスが「あなたがた」と言った中に「ユダ」もいるのである。主イエスはユダが裏切ることを見抜けなかったのか? わたしは、主イエスとユダの関係は、神とイスラエルの関係の写しではないかと考える。言い換えれば、ユダは主イエスに最も愛された者なのである。

 

Ⅱ.神を信じない者の姿
このユダの裏切りが明らかになるのは最後の晩餐においてである。ルカはそれを次のように描いた。主イエスは「これはわたしのからだ、わたしの血である」という言葉に続けて、ご自分を裏切る者に言及される。「見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている」(22:21)と。主イエスはご自分の死を「記念する」ために定められた主の晩餐の真只中で、〈裏切り者〉に言及されたのである。しかも〈裏切り者〉が誰であるかについては何も触れず、ただ、「わたしと一緒に手を食卓に置いている」とだけ語られる。オリエント地方では食事を共にするとは生活と運命を共にすることであった。生活と運命を共にする者の中に「裏切り者」がいると主は言われたのである! 言い換えれば、十字架のキリストを目の前に描き出す主の晩餐において、イエスを裏切る者がだれであるかが明らかになるのである!

それを象徴的に描いのが、コリントの信徒に宛てたパウロの手紙である。パウロは教会の一致の根拠は主の晩餐にあるとしてこう語る。「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。……パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です」(10:16−17)。この後パウロは、コリントの信徒の間に仲間割れがあることにふれ、「一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならない」(20)と言って、こう警告するのである。「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになる(すなわち、キリストを裏切ると)。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのである。そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです」と(11:27−30)。コリントの信徒たちもまた、イエスを裏切る者であるといことではないのか。その人々にパウロは次のように語っていた。「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」(1:9)。
いったい、イエス・キリストとの交わりに招き入れられる人とはだれか。それは、「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、『神よ、罪人のわたしを憐れんでください』」と祈る徴税人のような人である(ルカ18:13)。主イエスは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのである。

マタイはそれを、十二人を派遣するに先立って語られた主イエスの言葉、「異邦人の道に行ってはならない。……サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへいきなさい。行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい」で描く(5−6)。これはマタイだけが伝える_マタイの信仰が色濃く反映する_特殊資料である。なぜ主イエスは、福音を宣べ伝える弟子たちの働きをイスラエルだけに限定されたのか? それを読み解く鍵は、9章36節、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」主の民、イスラエルの現実にある。弱り果て、打ちひしがれている、とは、「神を信じない者」の言い換えである。

神の宝の民として地上の全ての民の中から選ばれたイスラエルは(申命記7:6)、ダビデ・ソロモン時代に千年後も「栄華を極めた」といわれるほど繁栄した。しかしソロモン亡き後、統一王国は北王国イスラエルと南ユダに分裂し、北イスラエルは722年アッシリアによって滅ぼされ、南ユダは586年バビロニアによって滅ぼされた。その後、ペルシア王キュロスによってユダは捕囚から解放され、第二神殿を築き、犠牲祭儀を再開するが、イスラエルは国家の形態をなさず、ペルシアの属国であった。主イエスが生き、活動されたとき、イスラエルを支配していたのはローマであった。つまり、神の民イスラエルはダビデが統一国家を築いて以来、千年もの間、崩壊の一途を辿り、敵国に支配されていたのである。それはイスラエルが神礼拝に失敗した結果である。エゼキエルは、偶像が祭られたエルサレム神殿から神が去るのを見た、と語った(11:22−23)。それは言葉の最も厳密な意味で「死」を意味する。

主イエスが、町や村を残らず回り、群衆に見た、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている姿は、まさに崩壊の一途を辿った神の民イスラエルの姿なのである(1:1−17の系図)。ここに、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」という主イエスの言葉を取り上げたマタイの意図がある。マタイはその視線の先に、弱り果て、打ちひしがれている群衆に対する主イエスの深い憐れみを見たのである。それを端的に描いのが11節以下の「平和の挨拶」である。「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。」これもマタイだけが伝える特殊資料である。

 

Ⅲ.平和の使者
マタイはこの「平和の挨拶」に何を見たのである。それとの関連で注目したいのはイザヤ書52章9節以下である。そこにはバビロンからの解放を伝える伝道者の声と、それを聞いたエルサレムの住民の歓喜が描かれる。
いかに美しいことか
山々を行き巡り、
良い知らせを伝える者の足は。
彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、
救いを告げ
あなたの神は王となられた、
とシオンに向かって呼ばわる。
その声に、あなたの見張りは声をあげ、
皆共に、喜び歌う。
彼らは目の当たりに見る、
主がシオンに帰られるのを。
歓声をあげ、共に喜び歌え、
エルサレムの廃墟よ。
主はその民を慰め、
エルサレムを贖われる。

伝道者は、偶像が祭られたエルサレム神殿から去った神が帰ってきて、エルサレムの罪を贖う、というのである! ヤハウェを捨て、バアルに犠牲をささげる救いようのないイスラエルに対して神は、「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか」(ホセア11:8)と言い、ユダよ、お前を退けるたびに、「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」(11:9)と言う。この憐れみに胸が焼かれる神の痛みの愛こそ、十字架のキリストなのである。
ここにおいて第二イザヤの使信は最高潮に達し、彼は最高の情熱をもってそれを表現した、と語った人がいる。これらのテキストに感じられる感情の高揚と興奮の震えとは、すべての預言の中でも無比のものである(フォン・ラート)、と。 第二イザヤが描くバビロンからの解放を告げるこのビジョンは、かつてイスラエルの民がエジプトを脱出したときのそれを凌駕する。預言者は言う。「立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ。汚れたものに触れるな。……しかし、急いで出る必要はない、逃げ去ることもない。あなたたちの先を進むのは主であり、しんがりを守るのもイスラエルの神だから」(11−12)。
かつてイスラエルの民は、モーセに導かれてエジプトを脱出したとき、過越の食事を「腰帯を絞め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べた」(出エジプト12:11)のである。しかし、ここでは「急いで、逃げ去る必要はない。」神があなたたちの先を進み、しんがりをまもられるからである。捕囚の民に求められているのは、「汚れたもの」に触れないこと、つまり偶像から離れ、ヤハウェのみを神とする正しい宗教である。
また、この帰還の旅は、かつてモーセに導かれた荒れ野の旅とも異なる。かつてエジプトを脱出した民は、パンに飢え、水に渇き、モーセに不平を言う。しかしここでは脱出する者たちは渇くことも、飢えることもない。「なぜなら彼らを憐れむ者が伴い、泉のほとりに導かれる」からだ(49:10)。こうして「主に贖われた人々は帰って来て、よろこびの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき、喜びと楽しみを得、嘆きと悲しみは消え去る」(51:11)のである。

第二イザヤが語ったこの預言が今、主イエスにおいて成就するのである。弱り果て、打ちひしがれた神の民イスラエルは、目の当たりに見るのである、主がシオンに帰られたのを。それを端的に描いたのが、イエスは「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」である。十二弟子は、主イエスが十字架で成就した悩みも嘆きも痛苦ももはや存在しない救いの時を告げ知らせる「平和の使者」として遣わされるのである。ベン・マイヤーは言う。「世界宣教に乗り出した時ほどキリスト教がキリスト教らしく、また、イエスと一体化しており、未来への途上にあったことはなかった。」教会は……聖晩餐を守る集まり(ゲマインデ)という状況において、最も確信をもって現われ出るであろう(ボンヘッファー)。キリストの弟子たちは、十字架のキリストを記念する聖餐共同体として世界宣教に乗り出すのである!
いかに美しいことか
山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。
彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ
あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。
彼らは目の当たりに見る、イエスが十字架に上げられるのを。
歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。
主はその民を慰め、エルサレムを贖われる。

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