弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼベルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。(10:24−25)
弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼベルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。(10:24−25)
Ⅰ.狼の群れの中へ
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」きょう、私たちに開かれた〈生ける神の言葉〉はこの言葉で始まる。なぜ主イエスは、弟子たちを遣わすにあたり、弟子たちが不安を覚えるようなことを言われたのか。18節に、あなたがたはわたしのために、総督や王の前に引き出される。また、22節に、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる、とある。主イエスはご自分のゆえに、弟子たちも苦しみ遭うことが定められていると確信していたのである。しかも弟子たちが主イエスのゆえに遭遇する苦しみは、預言者ミカの預言、「息子は父を侮り、娘は母に、嫁は姑に立ち向かう。人の敵はその家族の者だ」(7:6、マタイ10:21−22)が成就することによって、一層その痛みを増すのである。家族がその真ん中から引き裂かれ、最も近い血縁である親兄弟が、否、我が子さえもが弟子たちを告発し、死に引き渡すのである。
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」いったい主イエスは、このような言葉で何を言われたのか。これとよく似た言葉をヨハネも伝えている。「あなたがたには世で苦難がある」と。「しかし」とヨハネのイエスは言う。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(16:33)。これを受ける形で、ヨハネの第一の手紙は言う。「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」(5:5口語訳)と。マタイのイエスは、狼の群れの中で弟子たちが生き抜く秘訣は、蛇のような賢さ、鳩のような素直にあると言う。いったい、マタイは、弟子たちを世に遣わす主イエスに何を見たのか?
そもそも「狼の群れ」とは何者か。実は、マタイは主イエスのこの言葉を伝える少し前、主イエスは町や村を残らず回り、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒やされたのであるが、そこで主イエスが見たのは、飼い主のいない羊のように弱り果て、うちひしがれている群衆の姿であり、主イエスは彼らを深く憐れまれた(9:35−36)と記していた。そして十二人の弟子たちを選び、「天の国は近づいた」と宣べ伝えるために、病人を癒し、死者を生き返らせ、らい病人を清め、悪霊を追い出す権能を授けられたのである(10:7−8)。こうして万全の備えをして主イエスは弟子たちに、「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と言われたのである。
つまり、主イエスが弟子たちを遣わす狼の群れとは、飼い主のいない羊のように弱り果て、うちひしがれている群衆なのである。先週『平和の使者』(9:35−10:15)で触れたように、弱り果て、うちひしがれている群衆とは、「神を信じない者」のことである。その辺の事情を端的に描いたのが「ぶどう園と農夫」の譬えである。
ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て(万全の備えをして)、これを農夫たちに貸して旅に出る。そして収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを送る。しかし、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋叩きにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺したのである(21:33−36)。この農夫たちの蛮行は、主人の息子の殺害で頂点に達する。この譬えは、狼の群れの中へ送り出される弟子たちを彷彿とさせる。聖霊の照明を祈り求めつつ、マタイがここにまとめた「隠されていた、神秘としての神の知恵」、主イエスの言葉に聞きたいと思う。
Ⅱ.命懸けの飛躍
マタイによる福音書の主題は「弟子作りとしての宣教」である。それは福音書の結び、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(28:18−19)に端的に描かれる。マタイが福音書を書いたのは80年代後半、ナザレのイエスに関する重大な出来事が起こってから、すでに半世紀以上が経過していた。ユダヤ教の中の改革運動として始まったキリスト教会は、その間にほとんど完全に変貌した。ユダヤ人でありながらキリスト者として留まるのは次第に困難になっていた。紀元85年頃になると、それは不可能になった。ローマからの解放を求めたユダヤ戦争は紀元70年、エルサレム神殿の壊滅的な破壊で終わる(24:1−2)。その後、ユダヤ人捕虜収容所があったヤムニアで、ファリサイ派のラビ・ベン・ザッカイを中心にユダヤ教の再建が図られる。その過程で第十二の祝祷文が定式化され、ナザレの人(「キリスト者」)とミニム(異端者)に対する呪いと、彼らを会堂から追放する言葉が含まれたのである(参 ヨハネ9:22)。会堂から追放されるとは、ユダヤ社会では生きる術を失うということである。家族がその真ん中から引き裂かれ、最も近い血縁である親兄弟が、否、我が子さえもが弟子たちを告発し、死に引き渡すのである。しかしそれは、イエをメシアと信じる信仰の終わりを意味しなかった。弟子たちは家族の分断に象徴される痛み、苦しみの中で、後戻りすることのできない「命がけの飛躍」をしたのである。
その辺の経緯を伝えているのが、パウロが最初に書いたと言われるテサロニケ第一の手紙である。そこにはこう記される。「兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたも同胞から苦しめられたからです」(2:14)。パウロは、主イエスの最初の弟子たちが主イエスに倣ったように、つまり、あなたがたはわたしのために、総督や王の前に引き出される。わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる、ように、テサロニケの信徒たちは同胞から苦しめられることで、最初の弟子たちに倣う者になったと認めたのである。
ここに、私たちにとって重要な疑問が提出される。迫害のない時代を生きるキリスト者は、迫害下にあった初代の弟子たちに倣う者になれるのかという疑問である。この疑問に重要な示唆を与えたのが教会史家レーヴェニヒである。レーヴェニヒは313年、キリスト教がローマに承認されたことで迫害の季節は終わったと語る。「教会は耐え抜いた。われわれはこのことについて神の導きの奇跡を崇めるのが当然である」と。そしてこのあと、こう言葉を続ける。「戦いの教会から凱旋の教会が生まれたが、後者はこの地上にはけっしてあり得ないものなのである。」
レーヴェニヒは、〈戦いの教会〉でなければキリストの教会ではないと言う。迫害のない時代に〈戦う教会〉であるとは? それを読み解く鍵はレーヴェニヒの次の言葉にある。彼は言う。「教会は耐え抜いた。……教会の内部の状態に目を向けると、そこでは多くのものが腐っていた。神学は多くの点で福音からかけはなれていた。信徒たちの信仰状態は、種々さまざまの迷信やこの世とのあらゆる面での妥協について語ることができる、という有様であった。」レーヴェニヒのこの言葉から分かるように、世にある教会は迫害のあるなしに拘わらず、己の罪と戦う教会のであこの世を生きるキリスト者はサタンの誘惑、すなわち罪と戦うのである(ルカ22:31)。罪の認識を欠くとき、すなわち戦いの教会であることを止めるとき、キリスト教は消滅するのである(フォーサイス 『十字架の決定性』)。
Ⅲ.死の固めの式
それを象徴的に言い表したのが、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしにしたがいなさい」(16:24)という主イエスの言葉である。主イエスがご自分に従う者たちに求められた「十字架を負う」とは、いわゆるハンディキャップのことではない。「十字架」は罪人を裁く最も残酷な刑罰である。言い換えれば、自分の十字架を負う、とは、己の罪を知ることである。自分の罪を知って、罪と戦う決意をするということである。そのことについて興味深い言葉を残したのが黒田平治である。彼は遺稿集『キリストの足音』で、罪との戦いについて次のように語った。
「わたしたちは罪を是認すべきではない。罪と戦わねばならぬ。そして勝たねばならぬ。だが人は罪を犯してはならぬのにしばしばこれを犯す。ゆえにわたしたちは罪を犯さないことによって罪に勝つことは不可能である。すでに犯した罪が心を責めても、いつまでも責め続けないように神に心をおゆだねして安んじていよう。そして勝利をいただこう。これ以外に罪に勝つ方法はないからである。」 この黒田の言葉から浮かび上がってくるのは、私たちの罪、咎、過ちのすべてを背負って神に裁かれた主の僕の姿である。
それにしてもなぜ私たちは、自分の十字架を背負ってまで、つまり、自分の罪を認識するという死ぬほどの苦しみをしてまで(ロマ7:24)、十字架への道を行く主イエスに従うのか。十字架への道を行くイエスとは、いったい、何者なのか? それを端的に伝えているのが24節以下、「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である」(24−25)という言葉である。
私たちは、師にまさる弟子を大勢知っている。例えば、将棋のタイトル7冠を保持する藤井聡太のようにである。しかし主イエスは言われる。弟子は師にまさらず、僕は主人にまさらない、と。なぜ、弟子は師にまさらないのか。師の生きる道が十字架への道だからである。十字架への道を行く師の後に従う弟子たちに求められるのは、「弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である」ということである。
この「十分」をルカは主の晩餐の制定との関連で次のように描いた。「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなた方の中で、いわば給仕する者である」(22:27)。 主イエスはこの譬えで何を言われたのか。主であるイエスが給仕する者になった!ということである。「多くの人の身代金として自分の命を献げた」のである(マルコ10:45)。言い換えれば、主イエスは弟子たちを狼の群れに送る前に、弟子たちに先立って狼の群れの中へ出て行かれたのである! それを象徴的に語ったのが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20)である。復活者イエスが世の終わりまで共にいるとはどういうことか。それは十字架のキリストをいま、ここでのこととして現在化する主の晩餐において、いつも共にいるということである。キリスト者は主の晩餐で、キリストの肉を食べ、血を飲むことで、主が来られる日まで、主の死を告げ知らせるのである!
自分の十字架を背負ってキリストに従う戦いの教会は聖餐共同体として、狼の群れの中へ、すなわち世界宣教に乗り出すのである。このキリスト者の姿を黙想していた時、井上靖が千利休の茶の真髄を描いた『本覚坊遺文』の一節が思い起こされた。そのなかに、利休の茶会の中で、一番いい茶会はいつであったかに触れ、信長の実弟有楽にこう語らせる。
_大坂夏の陣に於て河内でいち早く討死した木村長門守重成どのを、その半歳前に大坂の余の茶室に迎えたことがある。客は既に半歳先きに迫っている死を覚悟していた。木村長門守にとっては今生最後の茶であった。それが余にはよく判った。何と言うか、それは自分が死んでゆくことを自分に納得させる、謂ってみれば死の固めの式であった。それに余は立ち合わせて貰った。茶はこのようなものであったかと思った。
そしてこの後、本覚坊の言葉が続く。
_師利休は、また高山右近さまの茶についても言われたことがあった。 自分より三十歳も若い南坊(高山右近)どのであるが、今日はどうしても及ばないと思った。尤も今日に限ったことではない。いつも同じような思いにさせられる。どこかに自分を棄てて、これが最後といったところがある。あの静かさは普通では出て来ない。誰も及ばない。
遊びの茶道を腹を切る場所に代えた利休に、バテレン信者高山右近はここまで語らせたのである。この言葉を受けて、本覚坊の述懐が続く。
_師利休がお褒めになるように、本覚坊の眼にも高山右近さまはいつも御立派に見えた。もし茶室に於けるお姿の立派だった方を一人選ぶとすると、本覚坊の場合も亦、高山右近さまということになりそうである。バテレン信者というものがいかなるものであるか、本覚坊如きの知ろう筈はないが、死を覚悟しているという見方をすれば、高山右近さまには、いつもそういうところがおありだったかと思う。
いつ頃からだろうか、主の晩餐は死を覚悟する「死の固めの式」であると考えるようになったのは。この世にあって戦いの教会であるために、わたしたちに求められているのは「死の固めの式」、聖餐共同体になるという覚悟である。「このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせる」という「命懸けの飛躍」である。