礼拝メッセージ

2025/8/31 聖霊降臨節第13主日 「神の家族」

マタイ12:43-50、ガラテヤ2:19-21a、創世記37:2-8
讃美歌 529

「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とは誰か。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。(12:48−50)

Ⅰ.荒涼とした死の世界
きょう、私たちに開かれた〈生ける神の言葉〉は、汚れた霊が人から出て行き、休み場を求めて砂漠をさまようが、どこにも休む場所が見つからず、仕方なく出てきたわが家に戻ってみると、家は空き家で、きれいに掃除してあり、何もかも整えられていたので、自分以上に悪い七つの霊を連れて来て住み込んだために、その人の状態は初めよりも悪くなった、という譬えと、主イエスの家族とはだれか?について語られた衝撃的な言葉を伝えている。
汚れた霊が、他に七つの悪霊を連れてきて住み着いたという譬えは、なんともユーモラスであり、そして実に深刻である。当時、悪霊の住処は砂漠、水のない渇き切った死の世界と考えられていた。その砂漠よりも人間の心の方が住み心地がいいとは、人間の心は砂漠よりも荒んでいるということである。私たちが今、現に見ている世界がそれである。私たちの目の前に広がる世界は人間の荒んだ心が生み出した世界である。私たちの国が高度経済成長の坂をひた走っていた1970年代、井上陽水はアルバム『氷の世界』を発表し、日本レコード史上初のLP販売100万枚を突破する金字塔を打ち立てた。陽水が歌い上げた「氷の世界」は多くの若者の心を捉えたのである。暴力でこの国のかたちを問うた学生運動の熱気は急速に消えつつあった。
主イエスがこの譬えを結んだ言葉、「この悪い時代の者たちもそのようになる」が心に刺さる。この言葉がいかに深刻であるかを知るために、旧約聖書千年の歴史、アブラハムの召命に始まる神の救いの歴史計画を俯瞰したいと思う。神のようになれる、との悪魔の誘惑に誘われ、禁断の木の実を取って食べた人間の罪は雪だるま式に拡大する。神と共なるエデンの園を追われた男と女から生まれた最初の息子カインは、人類最初の殺人者となり、カインの末裔レメクは「77倍の復讐」を誓う。そして神の子らが地上の娘たちを妻にしたことで、天と地の境が崩れ、地は人間の悪で満ち溢れたのである。それを見た神は地上に人間を造ったことを後悔し、心を痛め、大洪水によって生けるものすべてを滅ぼすと決意し、そして実行した。
大洪水によって人間の悪は洗い清められただろうか。洪水後に語られた神の言葉は実に衝撃的である。神は言う。「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」洪水後の世界は、洪水前の世界と何も変わらない、人間の悪が地に満ちた世界なのである。「人が心に思うことは、幼いときから悪い」ノアの息子たちから、洪水後、人類は世界に広がるのである。彼らは同じ言葉を話し、協力して天に届く塔を建て始める。それを見た神は、「これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない」と言って、意志の疎通を妨げるために言葉を乱す。この神の行動に、人間の恐るべき可能性に直面したときの真の古代人の恐怖を感じる、と言った人がいる(フォン・ラート)。私たち現代人が感じている恐怖は古代人の恐怖を遥かに超えている。アンドレ・ヴァラニャックは、「あらゆる技術革新は集団の死の危険をはらんでいた」と言った。古人類が生き残ったのは技術の進歩が緩慢だったからなのである。高度に発達した科学・技術文明の時代、原爆に象徴される「集団の死の危険を孕んでいる」のである。
バベルの塔以後の世界、それはアブラハムの父テラの系図に暗示されている、何も生み出し得ない荒涼とした砂漠、死の世界である(11:27−32)。その死の世界を、命溢れる祝福された世界に再創造するために、神はアブラハムを召し、すべての民の「祝福の源」とされる。その後イスラエルは自らの在り方を、このアブラハムの召しに照らして繰り返し検討した。その一人がエレミヤであり、彼は次のように語る。
「立ち帰れ、イスラエルよ」と主は言われる。……
もし、あなたがたが「主は生きておられる」と誓うなら、
諸国の民は、あなたを通して祝福を受ける(4:1−2)、と。
このエレミヤの呼びかけにもかかわらず、イスラエルは神に立ち帰らず、神の救済史は休止を余儀なくされる。その中断された神の救済史が、「イスラエルの罪を贖う」ために、聖霊により乙女マリアから生まれた主イエスにおいて再び動き出したのである。聖霊の照明を祈り求めつつ、御言葉に聞きたいと思う。

Ⅱ. 主の僕による新生
主イエスが語る汚れた霊の譬えとの関連で注目したいのは12章22節以下、主イエスが悪霊を追放されたことで巻き起こったベルゼブル論争である。マタイはこの論争を預言者イザヤが語った「主の僕」の歌で導入する。
見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。
この僕にわたしの霊を授ける。……
彼は争わず、叫ばす、その声を聞く者は大通りにはいない。
彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。
この「主の僕」の歌はベルゼブルを読み解く鍵である。どういうことかと言えば、主イエスが悪霊を追放されたのはベルゼブルの力によるのではなく、十字架の無力さによるのである。それを端的に語ったのが、「まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか」(29)という言葉である。主の僕イエスは、「争わず、叫ばす、その声を聞く者は大通りにはいない」のである。なのになぜ主イエスは、「まず強い人を縛り上げなければ」と言われたのか。この言葉は「ある特定の出来事」を指していると言われる。「ある特定の出来事」とは、主の僕が私たちの罪、咎、過ちのすべてを背負い、私たちの身代わりとなって神に裁かれるという主の僕の苦難の出来事である。イザヤはこの主の僕の歌を次のように結ぶ。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。(53:12)。
つまり「強い人を縛り上げて、家財道具を奪い取る」はこの言葉を言い換えたものなのである。主イエスは十字架の無力さによって、何も生み出し得ない死の世界を、命溢れる祝福された世界に再創造されたのである。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなった」のである。
この〈新しく創造された者〉を、パウロは次のように言い表した。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです!」と(ガラテヤ2:19−20)。「わたしは、キリストと共に十字架につけられている」、あるいは「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっている」(Ⅱコリント4:10)とは、十字架のキリストをいま、ここでのこととして現在化する主の晩餐によって生きるということである。主の僕イエスは、ご自分の肉と血で、私たちの罪、咎、汚れをすべて清めてくださったのである。悪霊を追い出してくださったのである。キリストの愛がわたしたちを駆り立てるのである。生きている者たちがもはや自分のためではなく、自分のために死んで甦られ方のために生きるよう駆り立てるのである。そうであるのに、悪霊に支配されていた時と同じく生きるのが〈わたし〉であるならば、私の状態は前よりも悪くなるのである!
マタイはこの譬えに続けて、「神の家族」に関する主イエスの言葉を置く。マルコによればこの記事はベルゼブル論争の直後に置かれている。「イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた」(46)。身内の者たちが何を話したいと思っているのかについて、マタイは何も触れていないが、マルコはそれを伝えている。「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである」(3:20−21)。私ごとで恐縮ですが、大学1年から2年になる春休み、牧師になりたい、と両親や姉たちに話したとき、家族が示した反応はまさにこれでした。気が変になっていると言って、取り押さえようとしたのである。この身内の者たちの主イエスに対する姿勢が、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とは誰か。」「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」を読み解く鍵である。

Ⅲ.神の家族
主イエスは十字架への道を行くご自分の使命ゆえに、弟子たちも苦しみに遭うことが定められていると確信していた(10:16)。その苦しみの頂点に、血を分けた家族の分裂がある。主イエスはそれを10章34節以下で次のように語っている。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。……人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに(敵対させるために!)。こうして、自分の家族の者が敵となる」(10:34−36)と。
聖書には、自分の家族の者が敵となる物語がある。ヨセフと十二人の兄弟たちの物語である。御言葉はひとつの家族が崩壊する様をこう語る。_ヨセフは年寄り子であったので、ヤコブはどの息子よりもかわいがり、裾の長い晴れ着を作ってやった。父がどの兄弟よりもヨセフを寵愛したので、兄たちは……ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった(37:3−4)。父の寵愛を一身に受けて育ったヨセフに、兄たちを思いやる心は育たなかった。一日中汗水流して家畜の世話をし、畑を耕し、疲れ果てて帰ってきた兄たちにヨセフは、兄たちが自分にひれ伏す夢を見たと語ったのである。結果、兄たちはますますヨセフを憎み、その憎しみは殺意に代わる。「こうして、自分の家族の者が敵となった」のである。
主イエスは、この敵となる家族に続けて次のように語られた。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(10:37)。主イエスはこのような言葉で何を語られたのか。家族の崩壊を食い止めるには、イエスを心に迎え入れる以外にないということである。それを言い換えたのが、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」という主イエスの言葉である。
聖書は、人間の罪ゆえに、つまりカインがアベル殺して以来、血を分けた家族が敵となり、崩壊の一途を辿ってきたと語る。その家族を再創造するために主イエスは、家族の血に代わる、ご自分の血による新しい絆を提示されたのである。ヨハネはそれを次のように言い表した。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」(1:12−13)。初めにあった言、神と共にあった言、神であった言を信じる者には「神の子となる資格」が与えられるのである! その人々は「神によって生まれたのである!」
この神の子となった新しい生活の最も重要な、他のどんなことにもまさる徴表は、神を父とする新しい関係である。古代ユダヤ教にとって神は「主」であった。「主」とは無限の威厳を持つ至高の存在であり、畏敬の対象であった。それは、福音の本質をなす要素である。しかし、福音の中心ではない。主イエスの弟子にとって神は「父」なのである。この父は「独り子を世に賜うほど、世を愛された」のである。これが最も重要なことであるが、この愛は、神の子となった弟子たちの全生活を貫くのである。弟子たちの全生活を貫くとは、弟子たちは未来の救いに与るという「言葉では言い尽くせない輝きに満ちた喜び」を生きるのである。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのこと神に感謝しなさい!
また、神の子となることで弟子たちの日常に安らぎと保護が与えられる。父は子が何を必要としているかをすべてご存知なのである(マタイ6:8、32)。
こうして、将来の救いが約束されていることと、日毎の生活に神の守りがあるという安心から、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」キリストに従うという量り知れない神の意志に自分を委ねる勇気が生じるのである。
私たちが今、現に生きている世界は、悪霊に支配された人間の心が生み出した世界である。その世界の真只中に神は、「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きている」と、計り知れない神の愛に自分を委ねる決意をした聖餐共同体、神の家族を創造されたのである。独り子を賜うほど世を愛された神の愛によって生きる神の家族こそ、何も生み出し得ない呪われた死の世界にあって、すべての民の祝福の源なのである。

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