2025/11/16 降誕前6主日  「神の子となるために」

マタイ5:38-48、エフェソ1:3-7、申命記7:6-8
讃美歌 453

敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。……だから、あなたがたは天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(5:44、48)

Ⅰ.不可欠な戒め
きょう、私たちに開かれた〈生ける神の言葉〉は、神の子となる条件について語られた、「復讐してはならない」と「汝の敵を愛しなさい」という教えです。特に「敵への愛」は主イエスが宣べ伝えた神の国の倫理の頂点です。枯れた谷の水を慕い喘ぐ鹿のように、我が魂は神を慕うと歌い上げた詩編42編の詩人のように、私たちが慕い喘ぐ神の国とはどのようなものであるかを敵への愛の戒めは最もよく映し出しているのです。この礼拝を通して、後ろのものを忘れ、全身を神の国に向かって伸ばし、この世の荒れ野を走り抜く力を得たいと思います。
ところで、マタイがここにまとめた山上の説教、特に敵への愛は、「あなたがたは天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」で結ばれているようにあまりにも高邁であることから、2000年の教会の歴史において、キリスト者たちを堂々巡りさせてきました。
すでに初代教会と、そしてのちのトマス・アクィナスは、この人はローマ・カトリック教会の神学を集大成したと言われる人ですが、山上の説教の命令には必ずしも全てのキリスト者が従う必要はなく、特殊なキリスト者、すなわち教職者のためだけに意図されているとしました。
またルネッサンスと宗教改革を経て、17世紀の正統的ルター派は、山上の説教で求められた主イエスの要求に従うのは不可能であり、厳密に言うなら、それが目的ではないと主張しました。これらの超人間的な要求の非現実性は、人間の不十分さと罪深さをさらけ出し、私たちの信頼をキリストだけに置くようにさせるためであるとしました。
そして時代が進み、個人主義が強調された19世紀においては、山上の説教で意図されていたのは、具体的な服従ではなく、心のあり方、正しい心の性質であると説明しました。つまり個人の態度の方が実際の行いよりも重要であると。
さらに別の説明は、山上の説教の命令は「中間倫理」、つまり、ここで期待されている驚くべき行為は、終末が目前に迫っている非常に短い中間的期間においてのみ遂行できるとしました。
これらの解釈はいずれも不適切であると言わなければなりません。主イエスが山上の説教で語られたことは、人は神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるとあるように、すべての弟子が!これらの基準に従って生きることを求めているからです。イエスの言葉は地の炉、すなわち人間の苦しみによって練り清められたもので、超人間的でも非現実でもなければ、行動を伴わない心のあり方ではないのです。ましてや中間倫理など詭弁でしかありません。こうした詭弁を弄したのは、2000年におよぶキリスト教の歴史において、主イエスの期待に答えてキリスト者がほとんどいなかったことによるものです。なぜ、キリスト者は主イエスの期待に答えられなかったのか。エフェソ書の著者は、主イエスが十字架に上げられたことで、わたしと他者との間の敵意の壁は打ち壊され、一人の新しい人に作り上げられ、平和を実現したと語りました(2:14−16)。つまりキリストは十字架において〈敵への愛〉を完成されたのです。そうであるのに、この戒めに答えて生きたキリスト者がほとんどいなかったのは、「キリスト者の神」は必ずしも常に「十字架につけられた神」ではないし、そうであることは極めたまれであったからです。この点においてナザレのイエスは、当時のユダヤ人たち同様、あらゆる時代のキリスト者にとっても躓きであり愚かさなのです(Ⅰコリント1:23)。
キリスト者たちが山上の説教の基準にしたがって生活することに失敗したとは、その基準への努力をしなくても良いということではありません。特に、暴力に暴力で対抗し、右派勢力や左派勢力からの抑圧が増し、豊かな者がますます富み、貧しい者がますます貧しくなる現代において、山上の説教を生きることは、地の塩、世の光である教会にとって不可欠です。塩の効き目を失い、外に投げ捨てられ、踏みつけられないために、聖霊の照明を祈り求めつつ、御言葉に聞きたいと思います。

Ⅱ.神の国の現在
そこでまず注目したいのは旧約、特に預言者たちが口を揃えて語った、人間には神に従う可能性がないということです。アモスは、イスラエルの過ちを神が鞭をもって何度懲らしめても「しかし、お前たちはわたしに帰らなかった」と語りました。イザヤは、イスラエルは頭のてっぺんから爪先まで腐り果て、健康なところはない、と語りました。エレミヤは、イスラエルの罪は皮膚感覚にまでなっているので、善を行う可能性はないと語りました。なかでもエゼキエルほど、人間的なもの全体を神の審きの下に置いた預言者はいません。エゼキエル以上にイスラエルの不実、神の愛に対する鈍感さ、ほんの僅かの服従の可能性のなさについて語った預言者はいないのです。そうであるのに主イエスは、神の子となるために、復讐してはならない、敵を愛しなさいと要求されたのです。言い換えれば、主イエスは弟子たちがこの要求に従うことなど求めていないのです。いったい、誰が、天の父が完全であるように完全な者になれるでしょうか。
では、主イエスはこのような高邁な要求で弟子たちに何を期待されたのか。それを知る一つの手がかりは、獄中のヨハネが弟子たちに問わせた、「来るべき方は、あなたでしょうか」(11:3)に対する主イエスの答えです。主イエスは、「見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と言って、「目の見えない人は見え、足の不自由な歩き、らい病人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死人は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(11:4−5)と言われたのです。盲人の開眼、耳の聞こえない人に聴力が戻り、唖者の上げる歓声などはすべて、オリエント世界において、悩みも嘆きも痛苦ももはや存在しない救いの時を示す最古からの言い廻しです。今や前途の希望もなく打ちひしがれている人々に助けの手が伸べられ、死人に等しかった人々に新しい生命が与えられるのです。生命の水が流れ、呪われた時は終わり、楽園の門が開かれたのです。世界の完成が今すでに始まったのです!
主イエスの力ある業、その最高の「御業」は、十字架上の死です。人類の罪を贖う主イエスの十字架の死がなくては、山上の説教の教えは雄弁であっても空虚な説教でしかないのです。いわゆる「絵に描いた餅」です。肉となった言が発した言葉は、ナザレのイエスの模範的生涯、その苦難と死を通してのみ拘束力を持つのです。主イエスはその有効性に対して御自分の血で証印されたのです。言い換えれば、マタイは主イエスが語られた山上の説教で、神の国の現在を描いのです。つまり、マタイの視点からするなら、主イエスの力ある業に出会うことは、神の国に出会うことなのです。世界の完成が、十字架のキリストにおいて、今すでに始まったのです!
「目の見えない人は見え、足の不自由な歩き、らい病人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死人は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている!」ところで、主イエスがここに数え挙げた六つの項目は、イザヤの預言からの自由な引用です(35:5以下、29:18以下、61:1以下)。それは世界が完成する時の溢れんばかりの恵みのうちからいくつかを取り上げたもので、それはどこまでも先に続けていけるのです。そこで注意したいのは、イザヤのリストの中にはらい病人の清めと死者の復活については何も語られていない点です。主イエスがそれらに言及されたのは、旧約のすべての約束、希望、期待をはるかに超えた充足が与えられるということです。期待をはるかに超えた充足、それが「神の子となる」ということです。
申命記の著者は、神の民イスラエルについて次のように語りました。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」(7:6)と。主イエスが山上の説教で語られた「神の子たち」は、申命記が語る「聖なる民、宝の民」をはるかに超えるのです。神の恵みによって始まる新しい生活の最も重要な、他のどんなことにもまさる徴表は、「父」である神との新しい関係です。古代ユダヤ教にとって神は「主」です。神は創造者であり、生死を司り、服従を要求する主です。新約の福音にとっても、神が主であることは基本的な事柄です。福音の領域においても神に対する人間の根本的態度、畏敬と謹みは不可欠です。無限の権威を持つ主である神に対する畏敬は、福音の本質を構成するのです。しかしそれは福音の中心ではありません。主イエスの弟子にとって神は「父」なのです。「あなたがたは天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われているようにです! 「完全な者になる」、それが主イエスが弟子たちに求めた敵への愛なのです。

Ⅲ.地の塩、世の光
いったい、神の子となるとは、どういうことなのでしょうか? ちなみに、弟子を「神の子」_原文では「神の子たち」と複数形_とする表現は共観福音書に僅か3回で(マタイ5:9、45、ルカ20:36)、その三つとも終末論的意味を持っています。どういうことかと言えば、主イエスによれば、神の子になる恵みは、創造の秩序に属する賜物ではなく、終末論的な賜物であるということです。弟子たちが神の子であるのは、主イエスが神の子であることへの参与であり、それは終末における成就の先取りなのです。つまり、神の国に属する者だけが、神を「アッバ」と呼ぶことを許され、今すでに神を父として、今すでに子たる資格を得ているのです。
それを端的に語ったのがヨハネ福音書の〈ロゴス賛歌〉です。_初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。その言が肉となってわたしたちの間に宿られた。そして言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々に神の子となる資格を与えたのである。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである(1:12−13)。_
私たちが神の子となる資格を与えられたのは、初めにあった言、神と共にあった言、神であった言が肉となったイエスにおいてなのです! そしてヨハネによれば、永遠のロゴスの受肉は十字架で完成するのです。それをヨハネは十字架にあげられたイエスの場面で次のように描きました。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した!」と。わたしたちが神の子であるのは、初めにあった言が肉となり、十字架に上げられたことによるのです。
神の言は肉となる、つまり形をとることを象徴的に描いたのが創世記1章です。そこでは神が「光あれ」と言われると、光が現れ出たのです。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」と言われると、そのようになったのです。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ」と言われると、そのようになったのです。そのように神は天地万物、森羅万象を言葉によって創造されたのです。ただ一つ、言葉によらないで造られたのが人間です。人間は、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」という、神が心の底で特別に厳粛に決断することによって創造されたのです。
この神の厳粛な決意について優れた註解を示したのがエフェ書の著者です。「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定になったのです!」神は〈言〉によって世界を創造される前、御子イエス・キリストを十字架に付けることを決意された! つまり、世界の中にキリストの十字架が立っているのではない、十字架のキリストの下に世界は存在しているのです!
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛し」、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになった! この選びが形となったのが主の晩餐です。わたしと他者との間の交わりは破れている。その破れをキリストは十字架で繕い、敵意という隔ての壁を打ち壊し、一人の新しい人に造り変え、平和を実現されたのです。つまり、十字架につけられた神、イエスをわたしの神とする聖晩餐を守る集まり(ゲマインデ)という状況においてキリスト者は、神の子として最も確信をもって現われ出るのです。「あなたの敵を愛しなさい」という主イエスの要請に答えうるのは、主イエスが十字架で完成された天上の食卓を、いま、ここでのこととして現在化する聖晩餐を守る集いだけなのです! 十字架のキリストの下に立つ聖晩餐を守る群れであるとき、キリスト者は、復讐が際限なく続く世界の地の塩、世の光なのです!

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