讃美歌 Ⅱ112
慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。
エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。
(イザヤ40:1−2)
Ⅰ.極限の闇
慰めよ、わたしの民を慰めよと
あなたたちの神は言われる。
エルサレムの心に語りかけ
彼女に呼びかけよ。
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。
このように語り出す預言者の言葉ほど心に染み透る言葉はない。これに匹敵するのは、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)という主イエスの言葉だけである。
第二イザヤと呼ばれる、バビロン捕囚末期に現われた無名の預言者は、昔から今に至るまでヘブライ宗教思想史上最も高く評価される存在です。それは主に、唯一神ヤハウェの世界支配と、その民イスラエルの救済に関する卓越した思想によるものです。「慰めよ」との声で始まるこの部分は、形式・内容ともに、第二イザヤの思想が凝縮された荘重にして華麗、流露するパトス(心から自然に溢れ出る情熱)の中に深いロゴス(理性)を秘め、詩的であるとともに神学的、絵画的であるとともに音楽的であり、原文の簡潔で力がこもった響きは、あらゆる翻訳を嘲るほどに美しい格調と韻律に満ちている、と言った人がいます(中沢洽樹『第二イザヤ研究』)。
第二イザヤが生きた時代、それは荒れ野の時代でした。戦争に敗れ、神がいます神殿が破壊され、四百年余続いた王制が廃され、支配層と技術者が抑留された時代です。エゼキエルは当時の人々の荒れ果てた心を次のように描きました。「われわれの骨は枯れ、望みは尽き、絶え果てる」(37:11)と。あのときイスラエルの民はもはや神にさえ望み得ない絶望を生きていたのです。それはどのような経験なのかを哀歌の詩人は次のように描きました。「わが民の娘の滅びる時には、情深い女たちさえも、手ずから自分の子どもを煮て、それを食物とした」(4:10。レビ26:29)と。母が自分の腹を痛めて産んだ子を煮て食うという吐き気を催すこの言葉で哀歌の詩人は、〈もはや人間ではない〉極限の闇を描いたのです。同じ闇を大岡昇平は、太平洋戦争末期、フィリピンのレイテ島に取り残された日本兵を題材にした作品『野火』で描きました。
北森嘉蔵が敗戦後の混乱の中、昭和21年に出版した『神の痛みの神学』の一節が心に迫ります。「……我々の生きている今日は、最も優勢なる意味において『死の時代』であり、『痛みの時代』である。私の眼には、今日世界は大空の下に横たわっているのではなく、痛みの下に横たわっているものとして映ずる。」イザヤ、アモス、ホセア、ミカという8世紀の預言者から、エレミヤ、エゼキエル、第二イザヤという6世紀の預言たちが生きたのは、まさに死の時代、痛みの時代でした。北王国イスラエルは紀元前721年にアッシリアに滅ぼされ、南王国ユダは紀元前587年バビロニアに滅ぼされたのです。預言者たちは国家が滅亡するという死の時代、人間の全体としての存在と、人間自身ならびに人間の限界を意識したのです。世界の恐ろしさと自己の無力さを経験したのです。
あの時代が「死の時代」であったように、私たちが今、現に生きている時代も言葉の最も優勢なる意味で「死の時代」ではないのか。私たちは科学技術の目覚ましい進歩の時代を生きています。しかし、過去2世紀の科学技術の目覚ましい発展は、それに見合う発展を人間の精神にもたらさなかったことは誰もが知っています。ヤスパースは、「現在は精神にせよ、人間性にせよ、愛や創造力にせよ、貧困を目ざしての破滅的な下降」にあると語りました。この破滅的な下降にある私たちに、〈生ける神の言葉は〉こう語りかけるのです。「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。……苦役の時は今や満ち、……咎は償われた……」と。聖霊の照明を祈り求めつつ、慰めに満ちた神の言葉に聞きたいと思います。
Ⅱ.新しい創造
戦争に敗れ、神のいます神殿が破壊され、バビロンに連れ去られた民は、バビロンの大路で繰り広げられる神々の華々しい行列を見ながら、「つぶやき」「倦み疲れ」そして「つまずき倒れた」のです(40:27−31)。神の歴史は終わったのではないか、信仰は過去の遺物ではないのかと。この虚無的な〈心に〉天上の声は〈語れ〉と言うのです。〈心に語る〉とは、創世記34:3では若い娘に心を「奪われた」男が口説き落とす場面で使われています。また、ヨセフと兄たちとの和解を描いた創世記50:21や、ルツがボアズの好意を語った2:13では、「慰める」という語と共に、「心にしみとおるように」語るという意味で使われます。イスラエルの民はそれほどに心をかたく閉ざし、みな心の荒れ野で砂を噛む孤独を味わっていたのです。
第二イザヤはこの時代精神の外に身を置いていたのではありません。ひとり孤高を保ち、世界と歴史に関する洞察をもち、揺るがぬ信仰と希望とを持っていたのではありません。6−7節は第二イザヤの召命体験が記されていると言われる箇所です。「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と」あるように、彼は宣べ伝える言葉も力も方策もない、無力な、悩み果てた人間なのです。しかも野の草花の譬えが語るように、「神の風」が吹きつけた、つまり神の烈しい裁きを全身で受け止めた人間です。その意味で、神殿を覆い尽くす聖なる神の幻を見たイザヤが、「災いだ。わたしは滅ぼされる」(6:5)と叫んだのと同列です。第二イザヤは、己れの罪を心底受け止めたのです。言い換えれば、神の使者として召された者は皆、己れの罪を心底受け止めるのです。そして預言者は、「草は枯れ、花はしぼむ」という己が罪の深き闇の中で、「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」を聞くのです。己れの罪を心底受け止めた預言者は、救うに値しない塵芥の人間を救う「神の言葉」があると聞いたのです。それなくして、荒れ野に神の大路を整える使命の遂行はあり得ないのです。
荒れ野に神の大路を備えよ、とは、いわゆる倫理的な命令ではありません。神の来臨に備えて、「私たちは何をなすべきか」ではなく、「何が始まっているか」を第二イザヤは聞いたのです。いったい、天上の世界で何が始まっているというのでしょうか? 「荒れ野に道を整えよ……」とは、「新しい」出エジプトが始まらんとする前触れです。しかもそれは、かつてイスラエルの民がエジプトを脱出し、神に導かれて旅した荒れ野を遥かに凌駕するのです。そこでは人はパンに飢え、水に渇いたのですが、これから始まる新しい出エジプトでは、神は「荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる」(51:3)のです。こうして第二イザヤは情感豊かに自然の変貌を描くのですが、それは神学的には神の主権と連関し、最初の創造に対する新しい創造を意味します。神が最初に創造されたエデンの園は、人間の罪により呪われ、何も生み出し得ない死の世界(創世記11:27以下、テラの系図)、「茨とあざみ」(創世記3:18)の生える地となったのです。その地を神は再びエデンのように潤し、命溢れる神の園と化というのです。こうして、人間の罪により呪われた自然が再創造されるのです。つまり自然の変貌は罪に落ちた人間の運命と連帯するのです。人間は、神が御自分にかたどって創造された〈神の像〉(創世記1:28)に再創造されるのです!
この自然の変貌、つまり人間を〈新しい人〉に造り替える神の権能、栄光を「すべての被造物(肉なるもの)は見る」(5)のです。それを象徴的に描いたのが、ルカが伝える、幼子イエスをその腕に抱いたシメオンの物語です。「主よ、今こそ、あなたはお言葉とおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あなたの救を見たのですから!」(ルカ2:29−30)。肉となった言イエス・キリストにおいて、すべての被造物(肉なる者)は、神の栄光を見るのです! 「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてがあたらしくなったのである!」
Ⅲ.神の栄光を見よ!
第二イザヤはこの再創造された世界をこのあと、「良い知らせを伝える者」の件で、三度繰り返される「見よ」で強調します。
見よ、あなたたちの神
見よ、主なる神。
彼は力を帯びて来られ
御腕をもって統治される。
見よ、主の勝ち得られたものは御もとに従い
主の働きの実りは御前を進む、
主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め
小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。
この力を帯びた神の御腕による統治、終末的な神の王的支配の確立こそ、第二イザヤの預言の究極の目標です。そしてこの預言は、十字架のキリストにおいて成就するのです(ルカ24:27)。マタイはそれを福音書の結びで、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(28:18)と語り、ヨハネは、主イエスが十字架に上げられる「今こそ、この世が裁かれる時、今、この世の支配者が追放される」(12:31)と語りました。
神は罪に落ちて何も生み出し得ない死の世界を生きる人間を、エデンの園を、主の園を生きるものとするために御子イエス・キリストを十字架に上げられたのです! それを象徴的に描いのが11節、「主は羊飼いとして群れを養い、……小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」です。第二イザヤがここに描いた光景は、「わが民の娘の滅びる時には、情深い女たちさえも、手ずから自分の子どもを煮て、それを食物とした」という極限の闇とは正反対の光景です。小羊は羊飼いの懐に抱かれ、その母は羊飼いに導かれて、エデンの園に伴われ、主の園で安らかに憩うのです! 十字架のキリストによって歴史は大きく動き出すのです。十字架のキリストにおいて神の新しい創造と救いがはじまるのです。
日本は戦後二度の荒廃を経験したと言われます。敗戦によって奪われたのは「権威」でした。それは「父なき時代」の開始です。50年代にはじまる経済成長によって奪われたのは母なるものとしての自然であり、ふるさとであり、文化でした。「母なき時代」へ突入したのです。荒れ野なる日々を過ごすのは、老人と孤児には避けがたいところです。今、日本は、そして世界は、新しい歴史の足音を聞く時がきているのです。それは第二イザヤが聞き、福音書が聞いたものに基づくなら幸いです。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」(マルコ1:3)。
神は、御子イエス・キリストを十字架に上げることで私たちを緑の牧場に伏させ、憩いの汀に伴われるのです。わたしたちはこの主の園に憩う安らぎを、十字架に上げられたキリストが、今、ここに現在する主の晩餐で生きるのです。主の食卓にあずかる者は「キリストの愛に駆り立てられて」(Ⅱコリント5:14)、人肉を食う極限の闇に生きる人々に向かって、声をかぎりに叫ぶのです。
慰めよ、わたしの民を慰めよと
あなたたちの神は言われる。
エルサレムの心に語りかけ
彼女に呼びかけよ。
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。
メリー・クリスマス!