そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(1:9−11)
Ⅰ.イエス、ヨハネから洗礼を受ける!
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなった!」(Ⅱコリント5:17)。パウロがコリントの信徒たちに書き送ったこの言葉は、全く新しいことの到来に対する驚きのパトス、感情の高揚に溢れています。これに限らず新約聖書の至る所で私たちは、神の救いの全く新しい地平が開ける始まりにいるという圧倒的な自覚に触れるのです。しかし、パウロがこの言葉を書き送ったとき、コリントの教会の有様はこの言葉とは裏腹に旧態依然のままでした。パウロは言います、「現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしている」(5:1)と。なぜパウロは、旧態依然としたコリントの教会の惨状を知りながら、すべてが新しくなったと語れたのでしょうか? それを読み解く鍵が、主イエスがヨハネから洗礼を受けたというマルコの記事にあるように思います。
「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝える」と、一大改悛運動(リバイバル)が起こり、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けた」(1:5)のです。その人々の中にナザレのイエスもいたのです。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた!」イエスがガリラヤのナザレから来たとは、ヨハネが洗礼を授けていた場所は、イエスの生活圏であったガリラヤ湖近辺ではなく、ヨルダン川が流れ込む死海に近いことが分かります(参 14節)。つまりマルコによれば_ルカはヨハネがヨルダン川沿いの地方一帯に行ったとしている_イエスはヨハネから洗礼を受けるために、ガリラヤのナザレから長い道のりを歩いて来たのです。
主イエスがヨハネから洗礼を受けたという事実は、初代教会にとって肉体に刺さった棘でした。イエスがヨハネの風下に立つからです。マタイはこの難題を解決するために、イエスが洗礼を受けるようとすると、ヨハネはそれを思いとどまらせようとして、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたしのところに来られるのですか」という一文を創作しました(マタイ3:14)。ルカは、ヨハネが逮捕された後に、イエスは洗礼を受けたとすることで、ヨハネから洗礼を受けた事実をオブラートに包みました(3:19−21)。ヨハネ福音書は、イエスが洗礼を受けた事実に一切触れていません。ただ一人マルコだけが、「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」と明記したのです。聖霊の照明を祈り求めつつ、この事件に隠された、神秘としての神の知恵を知り、キリストにある新しさを味わいたいと思います。
Ⅱ.クリスマスと公現日の分離
ところでヨハネは、洗礼を受けるために自分のところにやってきた人々に、「わたしより優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と語りました(1:7−8)。ヨハネの後から来る方は、水ではなく聖霊によって洗礼を授ける! この聖霊による洗礼こそ、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなった」と言われる根拠です。なぜなら、「聖霊によらなければ、だれも『イエスを主である』とは言えない」(Ⅰコリント12:3)からです。聖霊によらなければ「イエスは主である」と言えないとは、イエスが主であると信じるには、罪の認識が不可欠であるということです。パウロはそれを霊の賜物としての「異言と預言」の件で次のように語ります。「皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう」(Ⅰコリント14:24−25)と。聖霊によって預言するとは、非を悟らせ、罪を指摘し、隠された心を明るみに出すことで、わたしもあなたと同じ罪人ですと語りかけるということです。それが聖霊による洗礼を受けたということです。キリスト者は罪人の交わりの中で、神をひれ伏して拝むのです!
パウロは聖霊により「イエスが主である」と知る前、律法の義については非の打ち所がないと豪語し、徴税人や罪人を、神の救いから排除された者として蔑んでいました。そのパウロが、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ている」(フィリピ3:8)と語ったのです。これが、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなった」なのです。マルコがイエスの洗礼で描いたのは、「イエスを主である」と知ることのあまりのすばらしさなのです!
それとの関連で注目したいことがあります。それは、イエスの洗礼が世々の教会でどのように理解されてきたかです。教会暦は1月6日を「顕現祭(公現日)」に定めています。顕現祭はクリスマスが祝われるようになるずっと以前から、冬季の最も大切な祭日として守られていました。しかし顕現祭にまつわる奇妙さや曖昧さは、この祭りそのものと同じくらいに古く、その起源ははっきりしません。確かなことは、四つの異なった出来事がこの日に考えられていたことです。キリストの誕生、キリストの洗礼、カナの婚礼、そして東方の博士たちの来訪です。
教会は4世紀以来、つまりキリスト教がローマに公認されて以来、四つの出来事の一つキリストの誕生を12月25日に祝うようになりました。キリストの誕生を祝うクリスマスが、キリストの洗礼日から切り離されたことには大きな意味があります。グノーシス(物質世界は悪、魂は善と捉える霊肉二元論)や異端の人々は、キリストが洗礼を受けた公現日(顕現祭)を神の子としてのキリストの誕生日と考えたのです。この考えの中には、神が私たちと同じものになられた(フィリピ2:7、ヨハネ1:14)という「受肉」を秘義を見逃す危険な誤謬が含まれているのです。誤謬とは、マリアから生まれたイエスは肉なるがゆえに、改めて精神的な再生、つまり神の子キリストとしての誕生が起こらなければならないという誤謬です。イエスは母マリアの胎に宿られた時から私たちと同じ肉と血をまとう神の子なのです。その場合にだけイエスは真に人であり、真の神なのです。その場合にだけイエスは私たちを助けることができるのです。その場合にだけ私たちは、イエスの誕生においてほんとうに、神の救いの全く新しい地平が開ける始まりに置かれていることを知るのです。つまりイエスの洗礼は受肉の神秘、〈真に人・真の神〉に光を投げかけるのです。
マルコはイエスの洗礼を次のように描きます。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」このマルコが描くイエスの洗礼の中心は、霊がイエスの上に降ったことです。霊が注がれるとは、古代ユダヤ教ではほとんどの場合預言者的な霊感、すなわち神が人間を捉え、その使命と説教のために全権を授け、預言者を通じて語ることを意味していました。聖霊がイエスの上に下ったとは、イエスの洗礼はグノーシスや異端の人々が考える神の子キリストが誕生したというのではなく、預言者として召されたということです。
Ⅲ.主の僕の使命
もっともイエスの召命は旧約の預言者たちのそれとは根本的に異なります。それを端的に描いたのがヘブライ書です。「神は、かつて預言者たちにより、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(1:1−2a)。バビロニアによって神殿が破壊されて以来、イスラエルから姿を消していた霊が再び戻って来てイエスに降り、イエスの召命に終末論的な性格を付与したのです。それが天からの声、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」です。この言葉の聖書的典拠はイザヤ42:1、「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す」です。
イエスはヨハネから洗礼を受けたとき「主の僕」として召されたのです。その使命は、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁き(義)を導き出して、確かなものとする」(42:3)です。主の僕は「裁き(義)を導き出す」ことで、このままでは何の役にも立たない〈傷ついた葦を折ることなく、ほの暗い灯心を消すことはない〉のです。この主の僕の使命の真骨頂がイザヤ書53章、
「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、
彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、
彼が受けた傷によって、わたしたちは癒やされた!」(53:5)です。
主の僕が私たちの罪、咎、穢れの全てを負って、私たちに代わり神に裁かれたことで、罪に落ちた世界が新しく創造されるのです。その新しい世界をマルコは「荒野の誘惑」で描きます。マルコが描く荒れ野の誘惑は、マタイやルカとは異なり、まるで霧に閉ざされているかのようです。 このあからさまでない語り口こそ、第三の天に引き上げられたパウロが、「人が口にするのを許されない、言い表し得ない言葉」聴いたという奥義の存在を指示しているのです(Ⅱコリント12:4)。
マルコによれば、イエスに注がれた霊がイエスを荒れ野に「追い出す」のです。荒れ野は、悪霊の住処であると同時に(マタイ12:43)、終末論的な意味を持つ場所でもあります。メシアは荒れ野から来るからです(イザヤ40:3)。その荒れ野にイエスは四十日留まるのです。四十とは、苦難と試練の時を示す象徴的数字ですが、その間イエスは「野の獣とともにいた」とマルコは記します。これは創世記2:19によれば、アダムが獣たちと一緒にいたエデンの園、パラダイスの描写です。 このパラダイス、終末における人間と動物の間の平和がイエスの宣教と、彼の死と復活によって実現するのです。この平和に最も美しい表現を与えたのがイザヤ書11章です。
狼は小羊と共に宿り、豹は小山羊と共に伏し、
子牛は若獅子と共に育ち、小さい子度がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
イザヤが描くこのシャローム(平和)は、イエスが主の僕としての使命、すなわち十字架に上げられることで実現するのです。イエスは十字架に上げられることで不義に満ちた世界、争いが絶えない世界に平和を実現するのです(エフェソ2:14以下)。
マルコは、ヨハネから洗礼を受けたイエスで、神の救いの全く新しい地平が開ける始まりにいるという圧倒的な自覚を描いたのです。そしてマルコは、このすべてが新しくなった世界を、天使が「彼の食事に仕えた」と結んだのです。天使が「彼の食事に仕えた」とは、神が臨在する食卓、すなわち主の晩餐です! 食卓を共にする形で罪人が救いの共同体に迎え入れられているのであって、人を救う神の愛の使信を誰の目にも最も印象的な仕方で表現するのです。主の晩餐こそ、神と人との間に交わりが回復した新しい世界なのです!