讃美歌 235
一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。(1:21−23)
Ⅰ.「病気治し」と救済の最頂点
古代ユダヤ社会において、「病気なおし」と救済が、その最頂点で出会うのは、狂気と癩においてであると言われている。狂気とは悪霊に取り憑かれること、癩は死の病として怖れられていた。ヨハネから洗礼を受け、“霊(プニューマ)”が注がれたイエスは、「主の僕」(イザヤ42:1)としての使命を受け、荒れ野で四十日サタンの誘惑を受けた後、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と、公の活動を開始された。その活動の最初にイエスは、ガリラヤの四人の漁師を神の国の福音宣教のために、つまり御自分の死と復活の証人として召し出された。そしてイエスはガリラヤの漁師たちを伴いカファルナウムにやって来る。カファルナウムはイエスがガリラヤ伝道の拠点した町である。
イエスは安息日にいつものように会堂に入られると、そこで悪霊に憑かれた人、つまり「病気なおし」と救済がその最頂点で出会う病人に出逢う。マルコがイエスの公的活動の初めに置いたこの記事は、イエスが宣べ伝えた神の国を集約する出来事である。ルカはそれを次のように要約する。「ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪霊に苦しめられている人たちをすべて癒されたのですが、それは、神が御一緒だったからです」(使徒10:38)。
初代教会はこのイエスの宣教を引き継ぎ、母胎であるユダヤの壁を超えて世界へと乗り出すという、驚くべき「命がけの飛躍」をとげたのである。初代のキリスト者たちは自らを救われた人類の先導者(トップランナー)と理解したのである。歴史をつくるのは民衆だというが、民衆それ自身ではない。民衆は本質的に保守的なもので、自己保存的な体質を持っている。歴史を決定的に動かすのは、民衆から離れず、民衆の一歩前を自覚的に歩いてゆく少数の小リーダーである。その小リーダーの運動が、不断に変革を準備することをしていなくては、歴史の創造の主役として民衆が政治の局面に登場することはありえないのである。
古代ユダヤの社会にあって、悪霊に取り憑かれ人は、人々が生活する日常の場から離れた不可触禁忌の隔離地帯に、生きながらに捨てられた。それがユダヤの掟であった。狂気も癩も、神の怒りによる懲罰の結果とみなされていたからである。いかにしてイエスは、ユダヤ社会をがんじがらめにしばりつけていた差別と抑圧の原理に向かって、ひとり、果敢に戦いを挑むことができたのか。いかにしてイエスは、「汚れた者」や「悪霊に憑かれた者」に背負わされた負の価値を一挙に逆転し、「わたしが来たのは、義人ではなく、罪人を招くためである」と宣言することができたのか。聖霊の照明を祈り求めつつ、「病気なおし」と救済がその最頂点で出逢うナザレのイエスに、私たちもこの礼拝で出逢いたいと思う。
イエスは神の“霊”を身に帯びてサタンに虐げられたこの世に踏み入る。それはただ憐れみの業を行なうためではない。マルコはカファルナウムの会堂での悪霊追放を「戦い」として描く。まず悪霊が抗議の言葉をもってイエスに立ち向かう。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。」このあと抗議は攻撃になる。「正体は分かっている。神の聖者だ。」悪霊はイエスの実体を暴露し、排斥しようとする。この悪霊の抗議と攻撃を受けて、イエスが攻撃に転じる。「黙れ。この人から出て行け」(25)。イエスのこの命令を聞くと、悪霊は最後の抵抗を試み、「その人に痙攣を起こさせ、大声を上げて出て行った」のである(26)。
悪霊追放(エクソシスト)、それは悪の力との戦いである! イエスはそれを、悪霊の頭ベルゼブル論争の譬えで次のように語られる。「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない」(3:27)。イエスは悪霊の頭ベルゼブルとの戦いを終末における決戦として描く。それは当時の人々の間に広く行き渡っていた考えである。強者に打ち勝って持ち物を分捕るというこの戦いの背景にはイザヤ53:12の句(「彼は強い者を獲物にしてしまう」)があると言われる。つまり、イエスが悪霊の頭と戦う武器は〈十字架〉なのである!
Ⅱ.悪霊との攻防
イエスは十字架の死により悪の力に勝利する! それは、今や到来した救いの時と、サタンを完全に滅ぼすこと(1:24)の始まりとを目の当たり示すのである。ルカはそれを次のように描いた。「わたしが神の指で(マタイ「霊」)悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたがたのところに来ているのだ!」(11:20)と。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(1:15)。
イエスはこの神の国の福音宣教のために、ガリラヤの四人の漁師を召し出されたのである。言い換えれば、弟子たちもイエスのようにサタンと戦うのである。それを端的に描いのが十二人の選びである。イエスはこれと思う人々を呼び寄せ、そこで十二人を任命し、使徒と名づけ、彼らを自分のそばに置くために、また派遣して宣教させるために、悪の力に勝つ権能を与えたのである(3:14以下)。イエスはなぜ、弟子たちに、悪霊追放という大きな権能を付与したのか? それは、派遣された弟子たちが帰ってきて、自分たちの言葉によって悪霊が逃げ出して行ったと報告した時、イエスが口に上せた喜びの言葉に端的に描かれる。イエスは、「サタンが稲妻のように天から落ちるのをわたしは見た」(ルカ10:18)と喜びの声を上げたのである。「サタンが稲妻のように天から落ちる」とは、抛り出されたということである。サタンが天の領域から抛り出されるとは、これに先行する戦いが天で行われたことを前提している(黙示12:7−9)。つまり、イエスが上げた喜びの叫びは、時間の隔たりを超えて、世の終わりの決着を目の当たりに見たことを示している。イエスは弟子たちによる悪霊追放がサタン滅亡の始まりであるとしたのである。すでに現在、事態は決定的に進行しているのである。悪霊どもは無力化され、楽園の扉は開かれ(19)、贖われた人々の名が「生命の書」に書き込まれているのである(20)。これらはすべて私たちの理性や経験を超えた表現であり、信じる者にのみ見えて来る現実である。人はイエスを信じる時、全新約聖書を通じて響き渡る「サタンの力は今や崩壊した!」という喜びの声を上げるのである。
イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人に痙攣させて、大声をあげて出て行く。それを目の当たりにした人々は皆驚いて、互いに論じ合う。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」マルコは悪霊を追放するイエスの言葉を「権威ある新しい教え」と総括する。言い換えれば、イエスがユダヤ社会に登場するまで、「権威ある教え」は律法学者たちが担っていたのである。しかし、イエスが安息日に会堂に入って教え始められたとき、「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」
私たちは、道を極めた人に「権威」を認める。それを端的に示すのがノーベル賞である。それは万人が認める権威である。イエスの教えが「〈新しい〉権威ある教え」であるとは、イエスの権威は万民が認める権威とは異なるということである。なぜイエスの〈新しい〉権威は万民が認める権威と異なるのか。パウロはそれを次のように語った。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力(デュナミス)です!」イエスの〈新しい〉権威は、十字架の言葉であると言う! ギリシア語釈義事典によれば、「神の力(デュナミス)」は「権威(エクーシア)」に近接しているとある。権威とは、制限なき神の主権の意味で、人間に対する終末論的な決定を下す神の力である。イエスの公生涯はこの新しい権威、神の力によって特徴づけられている。イエスの教えは神の力によるがゆえに!律法学者の教えとは異なるのである。律法学者は「言うだけで、実行しないからである」(マタイ23:3)。ただ一人イエスの言葉だけが力を持つ。イエスは肉となった永遠の言である。「イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、汚れた霊は大声をあげて出て行った」のである。
Ⅲ.権威ある新しい教え
パウロはイエスの言葉の権威、その新しさの秘訣を〈十字架の言葉〉と言い表した。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力(権威)!」である。パウロがここで言う、「わたしたち救われる者」とは、「無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者」のことである(26以下)。パウロは、十字架の言葉は、知恵ある者や能力のある者、家柄の良い者ではなく、「無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者」によって聞かれるというのである。それを哲学的に表現したのが「弁証法的認識原理」である。私たちに馴染みのある言葉で表現すれば、「貧しい人々は、幸いである。……今飢えている人々は幸いである。……今泣いている人々は、幸いである」ということである(ルカ6:20−21)。
旧新約聖書は一貫して「弁証法的認識原理」によって記されている。それを端的に示しているものの一つに申命記7章がある。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではなない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」(7:6−7)。神は地の面のすべての民の中から、弱小国民、無価値なものをご自分の聖なる民、宝の民として選んだと言われる。しかも神がイスラエルを選ばれたのは、イスラエルが正しいからでも、心がまっすぐだからでもない(9:5)。それどころかイスラエルは頑なな民であった(9:6)。
聖書の神はその初めから、「義人ではなく、罪人を招く」神なのである。申命記がこの民の選びという思想を概念化したのは、北王国イスラエルがアッシリアによって滅ぼされる国家的滅危機と深く関連している。超大国アッシリアの侵略の前に敗戦国民が生き残る条件は皆無に近いそのイスラエルを神は「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに!」(8)選ばれたのである。この「無価値なものの選び」という強烈な神の愛の論理は、国家的滅亡というどこにも逃れる術のない暗黒の真只中で生まれ、ホセア書、申命記、エレミヤ書、第二イザヤを経て、新約に至る。ここには聖書的価値観の革命的性格がある。その最頂点に十字架のキリストが立っているのである!
十字架のキリスト、すなわち神は、神を喪失し、神に見捨てられた状態貧しい人々、今飢えている人々、今泣いている人々においてのみ「神」として露わになるのである。そのとき、イエスの道もまた一層理解できるものとなる。「いかなる本質もその反対物においてのみ、愛は憎しみにおいて、統一は争闘においてのみ、露となりうる」という弁証法的認識は、「同じものは同じものによってのみ認識される」という類比による認識をはじめて可能にするのである。第一ヨハネはそれをこう語った。「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人のうちにとどまってくださいます。……この世でわたしたちもイエスのようである」(4:17)と。なんという祝福か! イエスはこの希望の証人として、この世で無力な者、無価値な者を選ばれたのである。
イエスの力ある言葉、権威ある新しい言葉を集約したのが、人の子の受難と死と復活である(8:31)。この言葉が語られた時、私たちはカファルナウムの会堂で聞いた「サタン、退け」という言葉を聞くのである。しかもそれは教会の柱ペトロに対して語られた。ペトロは、イエスが語れた人の子の受難と死と復活の言葉を聞くと、イエスを傍へ連れ出し、諫め始める(8:32)。そのペトロに向かってイエスは言う。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(33)と。この激烈な言葉の後に、「わたしに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34)が語られるのである。キリストに従う者は、サタンと戦うのである。キリスト者は、十字架のキリストを、いま、ここに現在化する主の晩餐に与るとき、「病気治し」と救済の最頂点、十字架のキリストに出逢うのである。出逢って、「この世でわたしたちもイエスのようである」ために悪霊と戦い、神の国のために不断に変革を準備するのである。