2026/2/1 降誕節第6主日 「種を蒔く人」  

マルコ4:1-12、ロマ8:26-30、エレミヤ30:18-22
讃美歌 225

イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちが、たとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」(4:10−11)

Ⅰ.厚いヴェールに覆われた譬え
 イエスは、時が満ち、神の国(王的支配)は近づいた!ことを、〈力ある業〉と〈権威ある新しい教え〉で宣べ伝えられた。獄中でそれを伝え聞いた洗礼者ヨハネは、二人の弟子をイエスのもとに遣わし、「来るべき方(受膏者・メシア)は、あなたでしょうか。それとも、他に誰かを待たなければなりませんか」(マタイ11:3)と問わせた。するとイエスは預言者イザヤの言葉を引用してこう答えられた。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死人は生き返り、貧しい人は福音を告げられている」(11:5)。
 イエスがここで取り上げ五つの力ある業と貧しい人への福音は、世界が完成する時の溢れんばかりの恵みのうちの幾つかを数え上げたもので、それはどこまでも先に続けることができる。注意したいのは、イエスがイザヤの三つのリスト(35:5以下、29:18以下、61:1以下)から自由に数え上げた力ある業には、らい病人の清めと死人の生き返りは言及されていない点である。イエスが彼らの名をあげたのは、旧約のすべての約束、希望、期待をはるかに超える充足が与えられるということである。そしてイエスは、旧約の約束、希望、期待を遥かに凌駕する世界の完成は、ご自分の十字架の死にあると締めくくられたのである。それが「わたしに躓かない者は幸いである」という一句である。イエスへの躓き、それは〈十字架〉の言い換えに他ならない。
 きょう、私たちに開かれた〈生ける神の言葉〉は、イエスの〈力ある業〉と共に神の国の秘義を教え諭すものに、〈権威ある新しい教え〉がある。イエスの権威ある新しい教えには際立った二つの様式がある。一つは、マタイが山上の説教にまとめた、人間が決して到達できない神の国の〈倫理〉であり、一つは、イエスに固有な〈譬え〉である。イエスの譬えのような文学形態は、ユダヤ教はもとより、周辺諸国、ヘレニズム世界にも見出せないのである。
 イエスは「神の国の秘密」(11)を多くの譬えを用いて語る。その譬えは「特に確かな歴史的基盤の上に立っている」と言われる。ということは、私たちはイエスの譬えを読む時、主の晩餐はそうであるように、限りなくイエスの側近くにいる、と結論することができるのである。しかもイエスは譬えの題材を人々が生きた日常から取られたことで、聴衆を身近な世界に導き入れたのである。すべての譬えが簡単明瞭で、子供にも理解できるほどである。聴衆はいつでも、全くその通りですと答えうるのである。にもかかわらず、イエスの譬えは、その原意を探索するという困難な課題に私たちを直面させる。神の国(王的支配)は私たちの日常とは全く次元を異にするからである。パウロはそれを第三の天に引き上げられた幻の中でこう語った。「人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を聞いた」(Ⅱコリント12:4)と。イエスはそれを譬えで語られたのである。
 そのイエスの譬えは、イエスの死後わずか十年のうちに、寓喩として取り扱われ始める。寓喩とは、譬えの個々の部分に特別な深い意味を付与するもので、最初は、イエスの単純な言葉の中に、より深い意味を見出そうとする素朴な願望が無意識に働いたのかもしれない。種を蒔く人の譬えは14節以下で、寓喩的な解釈が施されている。種を蒔く人は、神の言葉を蒔く、つまり教会の宣教のことであり、道端に蒔かれた種とは、御言を聞くがすぐにサタンに奪われてしまう人、また、石地に蒔かれた種とは、御言を喜んで受け入れるが、根がないので困難や迫害に会うと躓いてしまう人、茨の中に蒔かれた種とは、世の心遣いと富の惑わし、その他いろいろな欲望のゆえに実を結ばない人、そして、良い土地にまかれた種とは、御言を聞いて受け入れ、豊かな実を結ぶ人である、と解釈される。この寓喩的解釈は、実際の教会の実情に沿っている。しかしエレミアスは、イエスの譬えが寓喩的に解釈されたことは「痛恨に堪えない」と言う。寓喩的解釈によって「イエスの譬えは幾世紀にもわたり、曲解と虐待を受けて来た」と。イエスの側近くにいる至福を取り戻すために、聖霊の照明を祈り求めつつ、「種を蒔く人の譬え」の原意を探索する困難な課題に取り組みたいと思う。
Ⅱ.種を蒔く人の譬え
 マルコは11節で、イエスが譬えを用いて語る意味を次のように描く。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえ(謎)で示される。」これは譬えだけではなく、イエスのすべての説教に妥当する。今すでに出現している神の国について語るイエスの教えは、信仰者には理解されるが、不信仰者には謎のままだからである。つまりイエスの譬えは寓喩的解釈とは無縁なのである。信じない限り、譬えは神秘としての神の知恵を開示しないのである。それを象徴的に語った言葉がマタイ福音書に収められている。「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(11:25)。
 イエスの譬えの原意を探るために、まず注目したいのは、パレスチナにおける種蒔きの様子である。エレミアスは、イエスが種を蒔く人の譬えで描いた種蒔きの様子は、パレスチナにおける通常の種蒔きの仕方であると解説する。パレスチナでは耕作の前に!種が蒔かれる。つまり種を蒔く人は刈り取ったあと、まだ耕されていない畑へ出かけて行き、路上に種を蒔く。なぜならその路は、村人たちが刈り取った畑を踏みつけて作ったもので、やがて一緒に耕されるはずのものだからであると。また、種を蒔く人はわざと、休閑地で、種を枯らす茨の間に種を蒔く。茨も一緒に耕されてしまうことになっているからであると。そして種が石地に落ちることも、もはや驚くことはない。石灰岩は薄い沃土に覆われているので、鋤の刃がそれに当たって粉砕するまでは、刈り取られたあとの畑とほとんど見分けがつかないか、全く区別がつかないのであると。このパレスチナの農作業は私たち日本のそれとは全く趣を異にしている。
 パレスチナの農作業はエレミアスが語ったようなものであるとすれば、聴衆は、イエスが語った種を蒔く人の譬えに違和感を覚えたに違いない。パレスチナで行われる種まきとは異なる視点があったからである。道端に落ちた種も土の薄い石地に落ちた種も茨の中に落ちた種も、パレスチナの農作業によれば、一緒に耕されて実を結ぶのであるが、イエスの譬えでは、いずれの種も実を結ばずに、土に返るのである。実を結ぶのは良い土地に落ちた種だけである。しかも三十倍、六十倍、百倍という溢れんばかりの実を結ぶのである。こうしてイエスは、人々がよく知る日常の一コマを取り出して、人々が全く知らない非日常、神の国の秘密を語られたのである。言い換えれば、種を蒔く人の譬えでイエスは、あなた方は世界が完成する時の溢れんばかりの恵みを信じるか、と決断を迫られたのである。
 私たちに決断を迫る、溢れんばかりの実り、恵みとは何か? それを黙想していた時、心に浮かんだ聖句がある。それは禁断の木の実を取って食べて、罪に落ちた男について語られた神の言葉である(創世記3:17−19)。
  神はアダムに向かって言われた。
  「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。
  お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
  お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
  お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。
  お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。
  お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」
Ⅲ.イエスの側近くにいる至福
 イエスが種を蒔く人の譬えで描いた、実を結ばない種、つまり道端、土の薄い石地、茨の中に落ちた種とはこれではないのか? 良い土地に落ちれば溢れんばかりの実を結ぶ種が、道端、土の薄い石地、茨に落ちたことで、土に返るしかない呪われた罪の現実である。言い換えれば、イエスはこの死で終わるしかない者に永遠の命の実りを与えるために天を引き裂いて地に下り、十字架に上げられたのである! 三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ〈良い土地〉とはイエス・キリスト、しかも十字架に上げられたイエス・キリストを他にしてはあり得ない!
 イエスは「種を蒔く人の譬え」で、溢れんばかりの実りもたらす十字架に永遠の命という希望があると語られたのである。この幸いを心底歌い上げたのがパウロである。パウロはロマ書8章で、神の子とされたことの溢れんばかりの恵みを語る。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光と比べると、取るに足りない」と。「現在の苦しみ」とは、収穫のために額に汗を流して働くこと、より事柄に即した言い方をすれば、罪と戦うことである。この現在に対峙する「将来わたしたちに現されるはずの栄光」とは、三十倍、六十倍、百倍の溢れんばかりの実りが約束されていることである。そしてパウロはこの約束が確かであることの根拠を次のように語る。26節、「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」聖霊が言葉に表せない切なる呻きでもって、苦に満ちた現在を生きる私のために執り成してくださる!
 イスラエルと共なる神の歴史を記した旧約聖書全巻を貫いているのは、“霊”自らが、言葉に表せない切なる呻きである。そうであるのに、多くの教会から聞こえて来るのはソプラノで歌う神は愛なりである。キルケゴールはそれを次のように語った。「枝の鳥、野の百合花、森の鹿、海の魚、そして無数の楽しげなる人間が『神は愛なり!』と歌っている。然しこれらのソプラノの下に恰も潜められたバスの如く、犠牲とせられ給いし人の『深き淵より』の声が響く、曰く、『神は愛なり!』」
 旧新約聖書全巻はバスの如く響く、犠牲とせられ給いし人の『深き淵より』の声、「神は愛なり」を歌うのである。その一つに、頑なに神に背くイスラエルに語られたホセアの言葉がある。
  「わが民はかたくなにわたしに背いている。
  たとえ彼らが天に向かって叫んでも
  助け起こされることは決してない。
  ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。
  イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。……
  わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」(11:7−8)。
 頑ななイスラエルを助け起こす者などいない、という言葉と、「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか」との間には無限の隔たり、深淵が横たわっている。ホセアは、この無限の隔たり、深淵を超える神の、腑がよじれるほどの痛み、神の慟哭を語ったのである。「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」と。
 きょう、読まれたエレミヤ書30:21には、この救うに値しないイスラエルを救う神の慟哭が描かれる。神は言われる。「ひとりの指導者(受膏者)が彼らの間から、治める者が彼らの中から出る。わたしが彼を近づけるので、彼はわたしのもとに来る。彼のほか、誰が命をかけてわたしに近づくであろうか。」この預言の特殊性は、神への接近の比類なさを考え抜いたことにある。神は言う。「自分の心(全存在)を担保に入れて、わたしに近づく者は誰か。」フォン・ラートは、「これはおそらくかつて古代イスラエルにおいて提出された最も難しい問いの一つである」と解説する。神は心頑ななために廃墟と化したヤコブの天幕の繁栄を回復するためにひとりの指導者(受膏者)をご自分に「近づけさせる」のである。そして受膏者は「自分の心(全存在)を担保に入れて」神に近づくのである。
 皆さんはすでに、自分の命、全存在を担保に入れて神に近づく者とは誰か、この最も難しい問いの答えを知っている。イエス・キリストである! イエスは、神に対する不従順ゆえに廃墟と化したヤコブの繁栄を回復するために(エレミヤ30:18)、つまり塵に返るしかない者を救うために、父なる神の裁きの座に命を賭して踏み入った!のである。
 道端に、土の薄い石地に、茨の中に落ちて実を結ぶことのない種、ゆえに土に返るしかない種が、三十倍、六十倍、百倍という溢れんばかりの実を結ぶのは、父なる神が子なる神を私たちの罪の贖いとして十字架で裁かれる壮絶な神の愛ゆえなのである。これが、イエスが「種を蒔く人の譬え」で語られた神の国の秘義であり、イエスの側近くにいる至福である。私たちはイエスの譬えに、恰も潜められたバスの如く、犠牲とせられ給いし人の『深き淵より』の声、『神は愛なり!』」を聞くのである。
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