2026/2/22 受難節第1主日  「十字架への道」 

マルコ1:12-15、ヘブライ5:7-10、申命記8:2-5
讃美歌 511

それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。(1:12−13)

Ⅰ. 荒れ野の両義性

キリストの苦しみを霊肉に刻む受難節第1主日、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高くあげて聞きたい御言葉は、マルコ福音書1章12節から15節です。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)は荒野の誘惑物語を、イエスがヨハネから洗礼を受けた記事の後に続けていますが、マルコが伝えるこの記事は、マタイ・ルカの記事と内容が大きく異なります。イエスに関する諸伝承を同じような視点で扱うのが共観福音書ですが、荒れ野の誘惑の記事ほど違いが際立っている箇所は他にありません。後で、マタイとルカが伝える三つの誘惑物語にも触れますが、まずマルコが伝える記事に注目したいと思います。

マルコの記事は、「まるで霧に閉ざされているかのようである」と言った人がいます。この霧に閉ざされたかのようなあからさまでない語り口こそ、奥義の存在を示しているのです。この語り口を〈象徴言語〉と言います。知性によっては直接的に知りえない事柄を、それを連想させる具体的な事物や感覚的形によって間接的に表現するものです。

まず注目したいのは、イエスが洗礼を受けた時に注がれた“霊”が、イエスを荒野に「追い出す(送り出す)」という表現です。マルコがこのような表現で伝えようとした知性によっては直接的に知りえない事柄とは何か? 聖書の民にとって荒野(砂漠)は、人間の罪によって 神に呪われた荒涼地帯(創世記2:17、11章)です。そこは神も、人間も存在しない、悪霊の住処とみなされていました(マタイ12:43)。マルコはそのような場所に、神はイエスを追いやったと記したのです。換言すれば、イエスは今、呪われた大地、すなわち人間の罪の現実の真只中に踏み入ったのです。

ところで「荒れ野」には、もう一つの意味があります。聖書の世界で荒れ野は、終末的な意味を持つ場所、つまりメシアは荒野から現れるのです。バビロン捕囚末期の預言者・第二イザヤはそれを次のように語りました。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のようにこの人は主の前に育った」(53:1−2)と。「この人」とは、わたしたちの罪、咎、過ちのすべてを身に負って、神の裁きの座の前に進み出たメシア、主の僕です。預言者は、そのメシアは乾いた地に埋もれた根から生え出る、つまり荒れ野から出現する、と言ったのです。マルコは「“霊”はイエスを荒れ野に追い出した」という象徴言語で、イエスを終末における神の救いを完成するメシアとして描いたのです。

今や前途の希望もなく打ちひしがれている人々に助けの手が伸べられ、死人に等しかった人々に新しい生命が与えられるのです。生命の水が流れ、呪われた時は終わり、楽園の門が開かれるのです。世界の完成が今すでに始まったのです。それを象徴的に描いのが、「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」という一文です。四十という数は、苦難とか試練の時を示す象徴的な数字です。それを最も印象的に表現したのが、苦しみの地エジプトを脱出したイスラエルの民が乳と蜜の流れる約束の地に入るまで荒れ野を旅した「四十年」です。

Ⅱ.試練と訓練

先ほど朗読された申命記8章は、その荒れ野の四十年を、きわめて率直に、冷静に〈試練と訓練の時〉として振り返ります。この箇所で特に印象的なのは、神が「あなたを苦しめ」という動詞が2回(2、3)もくり返されていることです。2節では「あなたを苦しめて試し、あなたのこころにあること……を知ろうとされた」と記し、3節では、それを受ける形で、直訳すると、「それで、彼はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたにマナを食べさせた」と記したのです。つまり、ここでは荒野でマナを食べるとは、神の恵みの奇跡(詩編78:24、ネヘミヤ9:20)としてではなく、〈苦しみ〉〈飢えさせる〉の文脈に置かれているのです。

なぜ神は、御自分の民イスラエルを苦しめ、飢えさせ、マナを食べさせられたのか? これに続く3節後半、イエスが荒野の誘惑で引用された有名な言葉、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」(マタイ4:4並行)がそれを読み解く鍵です。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」ことを知らせるために神は、イスラエルを荒れ野で苦しめ、飢えさせ、マナを食べさせたのです。
これと似た言葉が申命記29:5−6にあります。そこでは、「パンも食べず、ぶどう酒も濃い酒も飲まなかった。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知るに至った」(協会訳)とあります。これによれば、イスラエルはヤハウェを真の神として知るために、荒野でマナを食べさせられたのです。人は、神が真の神であることを知るために、荒れ野でマナを食べるのです。

申命記の教え(トーラー、戒め)の中心がこれです。イスラエルをエジプトから導き出したヤハウェが真の神であると知ることです。換言すれば、どのような状況においても、神ヤハウェの意志をイスラエルに服従せしめるという努力が、申命記の中心を占めているのです。しかも申命記が要求する服従は、選びの前提ではなく、その帰結です。それを明瞭に表現したのが27:9以下、「イスラエルよ、静かにして聞きなさい。あなたは、きょう、あなたの神、主の民となった。それゆえ、あなたの神、主の声に従い、わたしが、きょう、命じる戒めと定めとを行わなければならない」(協会訳)です。 申命記の戒めはすべて、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(6:4以下)という戒めの解釈以外の何ものでもないのです。しかも この神への愛は、イスラエルに向けられた神の愛への応答なのです。

問題は、イスラエルはこの励ましを聞き流し、救いを失ってしまうのではないかとの心配が申命記全体を貫いていることです。申命記は、イスラエルが不服従のうちに浪費してしまったおよそ7世紀間を棒引きにして、今一度イスラエルを荒れ野に連れ戻し、そこでモーセに語らしめるのです。私たちは、イスラエルが荒野の旅の間、水に渇き、食べ物に飢え、神を見捨てて子牛像に熱狂し、また指導者モーセに逆らい、総反乱を起こしたのを出エジプト記や民数記から知っています。その結果、出エジプトを経験した世代は一人として約束の地に入ることはできないとの神の決定を読むのです(民数記14:26以下)。

しかし申命記はここ8章で、四十年の荒れ野の旅を振り返りながら、イスラエルの不従順には一切触れず、それを覆い包む神の恵みを語るのです。荒野の四十年の間、「あなたの着物はすり切れず、あなたの足ははれなかった」と。南王国ユダが滅亡するという大破局のいわば直前に、今一度イスラエルに「生命」を提供したのです。それは感動的でさえあります。
荒野の四十年の間、「あなたの着物はすり切れず、あなたの足ははれなかった。」このすばらしい言葉は旧約では3回しか現れません。ここと申命記29:15、そしてネヘミヤ記9:21です。聖書を読んでいてその凄さを実感するのは、このような箇所に出会う時です。申命記は南王国ユダが滅亡する直前にまとめられたものであり(列下22章)、ネヘミヤ記は捕囚後に活動した預言者ネヘミヤの言葉をまとめたものです。つまり、神と共なる千年の歴史を「正典」としてまとめた人々は、捕囚期という、すべての希望が失われた時代、もはや神にさえ望み得ない死の時代を、このすばらしい言葉で囲い込んだのです。聖書の民は、荒れ野を行くような厳しい現実の背後に神の愛の御手を見て、生き抜いたのです。

Ⅲ.十字架への道

荒野の四十年の間、「あなたの着物はすり切れず、あなたの足ははれなかった」というこのすばらしい言葉は、マルコが荒野の誘惑で描いた、「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」を彷彿とさせます。マルコはこの象徴言語で、いかなる奥義を描いのでしょうか。「野獣と一緒にいた」とは、パラダイスを描く動機の一つに関係している、と言った人がいます。

創世記2:19によれば、エデンの園(パラダイス)においてアダムは獣たちと一緒にいたのです。しかし、取って食べてはならない禁断の木の実を取って食べたことで、人は、神と共なる生活を棒に振ってしまったのです。神は、神のようになった人間をパラダイスから追放すると、「命の木に至る道を守るために、エデンの東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」のです(創世記3:24)。

その閉ざれたエデンの園(パラダイス)が今、イエスが荒れ野でサタンの誘惑を受けられたことで再び開かれたのです。マルコはそれを、「天使たちが仕えていた」で表現しました。人間の罪ゆえに断絶していた神と人間との交わりが回復したのです! マルコはこの象徴言語で、十字架への道を行くイエスを描き切ったのです。

イエスは十字架への道を行く! それはマタイとルカが描いた荒れ野の誘惑物語を分析すると、さらに一歩前進することができます。エレミアスは、マタイとルカが描く三つの誘惑を詳細に分析し、「これら三つの誘惑物語……の場合、ただ一つの同じ誘惑、政治的メシアとしての登場が問題となっている」と解説しました。私たちはイエスの全活動期間を通じて、十字架への道からの逃避を意味した政治的活動への誘惑が影のようについて廻っていたことを知っています。イエスがサタンの誘惑を退けた、とは、政治的メシアへの要請を拒絶した、つまり十字架への道を行くことを表明されたということです。それを象徴的に描いのが15節、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です。時が満ちたとは、イエスが十字架への道を行く時が来た、ということです。神の国が近づいたとは、イエスが歩む十字架への道の終点に「神の国」があるということです。

イエスが生きた十字架への道の先に神の国がある! 神の愛の御国があるのです! そしてイエスは、この神の愛の御国にすべての人を招かれるのです。「悔い改めて福音を信じなさい」と。イエスの言う「悔い改め」とは、聖なる残りの民を集めた律法学者やファリサイ派はもとより、メシアの先駆者・洗礼者ヨハネとも異なります。聖なる残りの民を集める運動の中でヨハネの姿は際立っています。ヨハネは律法学者やファリサイ派から排除された罪人を受け入れたのです。しかしそのヨハネともイエスは違ったのです。ヨハネは、罪ある者が新しい生活に入る決意を示した〈後〉に、つまり悔い改めた後に彼らを受け入れたのですが、イエスは、罪人が悔い改める前に救いを提供したのです。罪人をあるがままに受け入れたのです。イエスを洗礼者からさえ隔てていたものは、恵みには限りがなく、そこにはいかなる条件もついていないという使信です。黒田平治が遺稿集『キリストの足音』に記した言葉が心に迫ります。「わたしたちは罪を是認すべきではない。罪と戦わねばならぬ。そして勝たねばならぬ。だが人は罪を犯してはならぬのにしばしばこれを犯す。ゆえにわたしたちは罪を犯さないことによって罪に勝つことは不可能である。」

神は、御子イエス・キリストを十字架に上げることで、罪に打ち勝つことのできない私たちをあるがままに受け入れて下さったのです。ヘブライ書の著者はそれを次のように証言しました。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。_キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ_永遠の救いの源」となられたと(5:7−9)。
私たちが主の晩餐で聞くのは、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら祈られたイエスの深き淵よりの声、「神は愛なり」です。歳を重ねるごとに深まる確信があります。犠牲とされ給いし御子の深き淵よりの声、「神は愛なり」は〈象徴言語〉の極みではないのか、という思いです。この神の愛は、知性によっては直接的に知り得ないのです。私たちは口籠もりながら、「神は、その独り子をお与えになるほど世を愛された」と間接的に言い表すことができるだけなのです。イエスは、人間が知りうる最大の愛という間接的な事柄で神の愛を語られたのです。私たちは今、鏡を見るようにおぼろげに「神の愛」を見ているのです。しかし、やがて顔と顔とを合わせて神を見るとき、そのとき始めた私たちは、キリストの十字架に啓示された「神の愛」の広さ、高さ、深さの全てを知るのです。

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