讃美歌 502
「……人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」……「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。(4:10−12)
Ⅰ. 祝祭の意義
聖書の民は、癒しと救済の力を聖所と祭儀から得たと言われる。詩編63編の詩人はそれを、「今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄えを見ています。あなたの慈しみは命にまさる恵み」と歌った。神の臨在についてのさまざまな約束が神殿に集中しており、そこで癒しと救済の約束が成就されると考えられていたのである。七日ごとに巡り来る祝祭は人々の生活の最高頂であっただけでなく、祝祭を通して人々の生活は時間的なリズムを獲得したのである。祝祭が生と死、祝福と呪いの両極の間にある日常の均衡を保つのである。きょう、私たちに開かれた〈生ける神の言葉〉は、旧約の民が聖所と祭儀から得た癒しと救済の力は、イエス・キリストにあると語る。四人の男たちによってイエスの所に運ばれて来た「中風」の人が罪赦されて(救済)、つまり病を癒されて(癒し)、人々の見ている前で床を担ぎ、家に帰ったのである。
ところでマルコは、この出来事は、「数日後、イエスが再びカファルナウムに帰られた」時にあったと記す(2:1)。「再び」とあるように、この中風の人の癒しの記事は直接的には1章39節に続いている。そこには、イエスはカファルナウムの会堂で悪霊を追放して以来、「ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」とある。そして「再び」カファルナウムに帰られたイエスは、中風で苦しむ人を癒やされたのである。マルコはこのガリラヤ伝道と中風の人の癒しの間に、当時の表現で言えば「らい病人の癒し」を置いた(1:40以下)。古代ユダヤ社会において「病気なおし」と救済がその最頂点で出会うのは、狂気(悪霊付き)と癩においてであると言われる。マルコはこのように資料を配置することで、イエスは病気なおしと救済の最頂点に立つとしたのである。そしてマルコは、中風の人の癒しで、なにゆえイエスは病気なおしと救済の最頂点に立つのかを読者に説き明かすのである。その意味で中風は、狂気や癩と共に病気治しと救済が最頂点で出会う病である。
「中風」という病は、聖書に出てくる多くの病同様、「正確な医学的判断をくだすことは不可能」である。「萎えた」とも訳され、身体の麻痺を特徴とする病で、狂気と関連する。狂気は人間の霊魂が萎えて活動不能に陥った状態を表わすのに対して、中風は人間の肉体が麻痺して活動不能に陥った状態を表わす。この肉体の麻痺、荒廃を〈罪〉という言葉に置き換えると、中風が表示するのは、人間の罪の現実である。だからイエスは中風の人に向かって「子よ、あなたの罪は赦される」(5)と語ったのである。罪の赦しと癒しがここほど明瞭に語られている箇所は他にない。
当時、あらゆる病気は、罪に対する神の刑罰と考えられていた。狂気と中風、そして癩はその最頂点に位置していたのであり、こういう人々は、当時の考え方に従えば死んだも同然であった。ところが今や、前途に何の希望もなく、打ちひしがれている人々に助けの手が伸べられたのである。死人に等しかった人々に新しい生命が与えられたのである。中風の人は罪赦されて起き上がり、床を担いで出て行ったのである。それを目の当りにした人々は「驚き」、「このようなことは、今まで見たことがない!」と言って、神を賛美する。死人に等しかった人が、人々を神への賛美に導いたのである! 私たちが礼拝の場で見るのは、この癒しと救済である。聖霊の照明を祈り求めつつ、神の救いの全く新しい地平が開かれたという感情の昂揚をこの礼拝で味わい、共に神を賛美したいと思う。
Ⅱ. 力ある業と信仰
イエスは〈力ある業〉と〈権威ある新しい教え〉で神の国の福音を宣べ伝えたのであるが、聖書の学問的な研究によれば、〈力ある業〉と〈権威ある新しい教え〉に対する評価は全く異なる。イエスの〈権威ある新しい教え〉の一つ「譬え」は、「確かな歴史的基盤の上に立っている」ことから、私たちは限りなくイエスの側近くにいる、と結論することができる。それに対して、イエスの力ある業(奇跡)は、その大半が周辺諸国に流布していた奇跡物語から取られたもので、原始教会はそれをもとに創作したと結論せざるをえないのである。奇跡物語を詳細に検証したエレミアスはこのことに関して次のように言う。「……原始教会が奇跡物語をイエスの回りに積み上げたのも、何ら驚くにあたらない。なぜかと言うと、教会は主キリストの栄光と全能を表現し、このことを当時の人に適した言葉で宣べ伝える恰好の手段を奇跡のうちに見出したからである」と。
原始教会はイエスの栄光と全能を表現し、それを当時の人々に適した言葉で宣べ伝える格好の手段を奇跡に見出したのであるが、実は、それを取り入れる際、ある決定的な要素を付け加えました。それは「信じる」、つまり信仰の要素である。古代イスラエルおよび周辺諸国に流布していた奇跡物語には「信じる」という信仰の要素はない。例えばエリシャは、水の悪い不毛の大地を生き返らせたり、敵軍の眼をくらましたり、らい病人を癒し、死人を生き返らせ、またパンの奇跡や、その他多くの奇跡を行いました(列下2:19−25、4−7章、8:7−15、13:14−21)。旧約で、素朴に奇跡を喜び、預言者的カリスマを常に新たな驚きをもって示す純朴な愉しみがこれ以上示される所はありません。しかしエリシャの奇跡のどこにも「信仰」の要素は語られません。
ユダヤ教にせよ、ヘレニズム世界にせよ、奇跡において信仰は何の役割も果たしていないのである。それに対し共観福音書に着目すると、信仰に関する語の半数以上が奇跡物語ないし奇跡に関する文脈において用いられている。イエスの所に助けを求めて来る人々にとって信仰は不可欠なのである。例えば、らい病人は、イエスのところに来て跪き、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願い出た(1:40)。また、道端で物乞いをしていた盲人は、目の前をイエスが通りと聞くと、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(10:47)と声をかぎりに叫んだのである。
イエスの力ある業において信仰は不可欠である! しかも中風の人の癒しで語られる信仰には、ある独特の視点がある。それは本人の信仰には一切触れず、彼をイエスのところに運んで来た四人の男の信仰に焦点が置かれていることである。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦された』と言われた」(5)のです。
ここと同じく、他者の信仰によって病人が癒される奇跡物語が二つある。一つは、ローマの百人隊長の僕の癒し(マタイ8:5以下、並行)、もう一つは、ギリシア人シリア・フェニキの女の娘の癒やしである(7:24以下)。百人隊長の僕の癒しでは、「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言って、イエスは百人隊長の信仰を絶賛されるのである。シリア・フェニキアの女の娘の癒しには「信仰」は明言されていないが、娘の癒しを願う母の言葉には、その行間にさえ信仰が滲み出ている。
福音書記者たちはイエスの回りに力ある業を積み上げることで、信じる者はイエスの側近くにいるとの確信を言い表したのである。聖書の学問的研究により最も鋭い批判的方法を適用したとしても、イエスの活動に分かち難く結びついた力ある業の中核が現れて来るのである。つまりイエスの奇跡物語には歴史的に捕捉可能な中核が残るのである。第一に悪霊追放、それから、当時の言葉でらい病人の癒し、そして障害者の癒し、盲人の開眼がそれである。これらの癒しは、伝承が初めて重要なものとしたのではなく、イエスご自身にとって特に重要な意味を持ってたのです。その重要性は、イエスが「三日目に」という古い句で自分の全活動を「悪霊を追い出し、病を癒し、こうして業を終えるであろう」(ルカ13:32)と総括することができたほどである。確かにイエスは同時代の人々にとって驚きとなった癒しを行ったのである。私たちはイエスの力ある業においても譬え同様、イエスの側近くにいると結論することができるのである。
Ⅲ. 賛美する存在
マルコが中風の人の癒しで描いたイエスの側近くにいる幸いとは何か? イエスは、中風の人を連れて来た四人の男の信仰を見て、中風の人に、「あなたの罪は赦される」と言われる。すると、そこに居合わせた律法学者たちは心の中でイエスを非難する。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と。イエスは律法学者たちの思いを見抜き、こう言われる。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう!」こう言って、中風の人に、「起きて、床を担いで歩け」と言われたのである。マルコは、このイエスと律法学者たちとのこの一連のやり取りで、人の子イエスは、地上で罪を赦す権威を持つ神である、と宣言したのである。言い換えれば、病気なおしと救済の最頂点に立つイエスとは、十字架のキリストなのである!
しかもマルコは、本人の信仰ではなく、四人の男の信仰により中風の人の罪が赦され、病が癒やされたとしたのである。マルコは中風の人の癒しをこのように物語ることで、読者に何を伝えようとしたのか? そのことを黙想していたとき、「幼児洗礼」について語られたボンヘッファーの言葉が思い起こされた。「教会の本質が何であるかということは、幼児洗礼から最も明確に見て取ることができる」とボンヘッファーは言う。30余の教派が合同した日本基督教団は幼児洗礼を受けた者を「未陪餐会員」と称する。ボンヘッファーの言葉に則れば、日本基督教団には教会の本質が欠如していることになる。キリスト教の最も古い伝統を今に伝えるギリシア正教会では、幼児洗礼を受けた者は十二歳まで無条件で聖餐に与かるという。成人になるほど聖餐に与る条件、つまり悔い改めが求められるのである。余談ですが、私たちの教会では、聖餐の「奉納祈願」のとき、「神よ、悔い改めるわたしたちを、きょう、御心に適う生贄として受け入れてください」と祈る。
教会の本質は幼児洗礼から最も明確に見てとることができる。ここにおいて私たちは冒頭で触れた、聖書の民イスラエルは、癒しと救済の力を聖所と祭儀から得たことに立ち帰るのである。創世記劈頭の天地創造物語が語っているように、創造の目的は第七の日の神礼拝にある(創世記2:1−3)。これは人間とは何かをも示している。「主を賛美するために民は創造された」(詩102:19)のである。人間は神を賛美する存在であるとき、他者と共に生きることができる。創世記4章の「アベルとカイン」の物語は、この点で意味深い。礼拝に失敗したカインは、兄弟アベルと共に生きることにも失敗する。今、世界を覆い尽くす国と国、民族と民族、人と人とを隔てる敵意は、礼拝に失敗した人間の姿に他ならない。
賛美する存在、礼拝する人間は、世界との関係をも示している。詩編148編は、天地万物が神をほめたたえる大合唱を歌い上げる。天よ、御使よ、日よ、月よ、地に住むものよ、海の生き物よ、雹よ、雪よ、霧よ、山々よ、実を結ぶ木よ、野の獣よ、全ての家畜よ、地を這うものよ、翼ある鳥よ、若者よ、おとめよ、老人よ、幼子よ、「主を賛美せよ」と歌うのである。世界もまた神をほめたたえるのである。神の像に造られた人間の存在理由がそこにある。人間は、他の被造物を神賛美へと導かねばならないのである。それが「海の魚、空の鳥、地の上の這う生き物をすべて支配する(治める)」(1:26、28)ということなのである。
人間は、神の憐れみにより、聖霊に導かれつて神を礼拝し、他の被造物を礼拝へと導くのである。これに対して、他の被造物は、人間に導かれて、礼拝に至るのである。それゆえパウロはこう語った。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、……同時に希望も持っています。つまり、被造物も、滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです!」(ロマ8:19−21)。
死に定められた被造物は、体の贖われることを呻きながら待ち望む神の子たちの出現を待ち望んでいる! つまり十字架のキリストによって神を賛美する私たちは、被造物が虚無から解放されて、栄光の自由にあずかる希望なのである! この虚無に服した被造物の希望、それが、マルコが中風の人の癒しで描いた、イエスの側近くにいる幸いなのである! この幸いを深く噛み締めるゆえに、私たちは〈主の晩餐〉で、イエスが十字架で完成された世界の救いのために祈るのである。