2026/3/1 受難節第2主日  「サタン支配の超克」

マルコ3:20-27、ロマ3:19-25、民数記21:4-9
讃美歌 238

同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」(マルコ3:26−27)

Ⅰ. 存在の無意味性

きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言はマルコ福音書3章20節以下、「ベルゼブル論争」と言われる記事です。マルコが描くこの記事は、マタイやルカとは際立った違いがあります。イエスの肉親がイエスは気が狂っていると思い、取り押さえようとしたとか、エルサレムからやって来た律法学者たちが、イエスを「悪霊の頭」、ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると非難したとしていることす。マルコはベルゼブル論争に、イエスの肉親とユダヤ社会の頂点に立つ律法学者を登場させたのです。これによってベルゼブル論争で描かれるイエスの姿は一層際立つのです。

四つの福音書は、イエスがあらゆる種類の病気を癒されたこと、また三つの死者復活と七つの自然を題材とした奇跡について報告しています。福音書が伝えるこうした多くの奇跡物語は学問的に研究すると、その数は大幅に減少すると言われます。周辺諸国に流布していた奇跡物語に手を加えて作られたものというのです。しかし、たとえどれほど厳しい批判的基準を適用しても、イエスの奇跡物語には歴史的に捉えることができる中核が残るのです。悪霊の頭ベルゼブルの力でイエスは悪霊を追い出している、と言う律法学者の批判は、実際にイエスが悪霊を追い出したことを裏付けているのです。確かにイエスは、同時代の人々にとって驚きとなる癒しを行ったのです。

そうした癒しが、伝承を初めて重要なものとしたのではなく、イエスご自身にとって特に重要な意味を持っていました。その重要性は、イエスが「三日目に」という古い句でご自分の全活動を総括することができたほどです。イエスは、「ヘロデがあなたを殺そうとしている」との知らせを受けると、「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気を癒し、三日目にすべてを終える』」と言われたのです(ルカ13:32)。イエスのこの言葉を伝えたルカはその意味を次のように解説します。「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえない」(33)と。つまりルカは、悪霊を追放するイエスに、十字架のキリストを見たのです。聖霊の照明を祈り求めつつ、私たちもルカのように悪霊を追放するイエスに、キリストの十字架の栄光と全能を見たいと思と思います。

まず注目したいのは、「イエスが家に帰られると、群衆が集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」という導入句です。押し寄せる群衆のために「一同は食事をする暇もないほどであった!」その光景を思い巡らしていたとき、詩篇42篇の詩人の言葉が過りました。「神よ、鹿が谷川を慕い喘ぐように、わが魂もあなたを慕い喘ぐ。わが魂は渇いているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神の御顔を見ることができるだろうか」(42:1−2)。マルコは、「食事をする暇もないほどであった」というこの表現で、「いつ、わたしは神の御顔を見ることができるだろうか」という群衆の魂の渇きを描いたのではないでしょうか。

この渇きを私たち現代人も共有している、と言ったのはP・ティリッヒです。「存在の無意味性がおそらく、後期資本主義のもっとも特徴的な現象である。……全体の内的諸矛盾が個人の生活において明らかになり、そして自己向上の可能性が消失しはじめるや、個人生活の崩壊がはじまりだす。」二千年前、すでにイエスは資本主義の闇、つまり富が人間の内的崩壊をもたらすと語っていました。「あなたがたは神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ6:24)と。私たちが今、現に生きている荒れ果てた荒涼世界は、パンのみで生きる者たちが輩出する糞土が積み重なった結果なのです。

マルコは、この存在の渇きをもってイエスのもとに押しせる群衆の後に、血を分けたイエスの肉親がイエスを取り押さえに来たと記します。イエスは「気が狂ったと思ったからである」(協会訳)。そしてマルコはこれに続けて、ユダヤ社会の政治・経済の頂点に立つエルサレムから下って来た律法学者たちに言及するのです。彼らはイエスに熱狂する群衆の目を醒まそうとして、イエスを、「ベルゼブルに取り憑かれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と断罪したのです。

Ⅱ. 癒す神、殺す神

イエスは身内の者たちが言うように「気が狂った」のか? 律法学者たちが言うように「悪霊の頭ベルゼブル」なのか? それと対極する見方を示したのがルカです。ルカは使徒言行録10章で、「神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者(メシア)となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪霊に苦しめられている人たちをすべて癒されたのですが、それは、神が御一緒だったからです」(10:38)と記します。イエスが悪霊に苦しめられている人たちを癒されたのは、「神が御一緒だったから」か、それとも「悪霊の頭ベルゼブルの力」なのか?

イエスに対するこの両極端の評価を黙想していた時、旧約には、悪魔やサタンに関する記事が少ないことに捉えられました。聖書の民を取り巻く異邦の世界では、おそるべき病気は、悪霊やサタンの仕業と同一視されていました。イランのゾロアスター教が説いた、善と悪の闘争という挑戦的な世界観です。しかし旧約聖書では、恐るべき病をもたらすのは悪魔やサタンではなく、神なのです。民数記12章9節に、モーセに反旗を翻したミリアムとアロンに向けられた神の怒りの恐るべきありようが見事に写し出されています。「主は、彼らに対して憤り、去って行かれ、雲は幕屋を離れた。そのとき、見よ、ミリアムは重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。」こうした例は、枚挙にいとまはありません。確かにヨブは、サタンによって全身ひどい皮膚病に侵されます。しかしそれは神の許可があってのことなのです(2:6)。それはルカが最後の晩餐の結びで語った言葉に通じます。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のように篩にかけることを神に願って聞き入れられた!」(22:31)と。

生ける神ヤハウェは、万病を癒す神です! そうであればあるほど、この癒す神が、なぜ殺す神となるのか、その不可解な側面が、否応なしに浮き彫りになるのです。そしてこの問題が無視できないのは、この問題を突き詰めていくと、神ヤハウェの背後から、治癒神イエスが浮き彫りになってくるように思われるからです。

旧約聖書によれば、神ヤハウェに癒すことができない病は一つもありません。らい病も、毒蛇も、ペストも流産も、不妊も神は癒されるのです(出23:25−26)。その神が殺す神となるのです。神が敵となる、というのは、まことに激烈な思想です。旧約で「神が敵(のよう)になる」と語る箇所は多くありません。イザヤ63:10に、「彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた。主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた」とあります。またエレミヤ30:14には、「お前の悪が甚だしく、罪がおびただしいのでわたしが敵の攻撃をもってお前を撃ち、過酷に苦しめた」とあります。哀歌の詩人も、敵となる神について語ります。神は「敵となって弓を引き絞り」(2:4)、「主は誠に敵となられた」(2:5)、と。敵になる神に関する哀歌の言葉は、ヨブ記と預言者の中間にあるように見えます。抑えがたい感情の高まりはあるが、反抗的ではなく、受容と承認があるのです。つまり神が敵となってわたしを苦しめるのは、わたしが神に対して罪を犯したからであると。イザヤもエレミヤも、そして哀歌の詩人も、癒す神がなにゆえ殺す神になるのか、それはイスラエルが神に対し行った罪のゆえである、と語るのです。

旧約聖書が、癒す神が敵となるという激しい思想で浮き彫りにするのは、人間の罪なのです。言い換えれば、旧約聖書が、人間に降りかかる不幸、おそるべき病気を、悪霊やサタンの仕業と同一視せず、神の業として語るのは、人間に罪を深く認識させるためなのです。痛恨に耐えないのは、イスラエルは何度神に懲らしめられても、悔い改めて神に立ち帰らなかったということです。この現実から浮かび上がってくるのが治癒神イエスなのです。

そのことを黙想していた時、佐藤繁彦が『ルッターの根本思想』に記した言葉が思い起こされました。「神は、活かそうとするときは、殺す神であり、神がわれらを義とするときには、われらのうちにある一切の善きものを破壊するのである。」佐藤は、ルターは〈殺す神〉ということを語ったと言う。しかもそれはロマ書で義認を説く所で語られたと。いわば福音の真髄を語る所でこの激しい言葉も語られたのです。パウロの言葉で言えば、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業(十字架)を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです!」(23−24)。

神はまことに神のものを、つまり神の義を打ち建てるために、「われわれのうちにある一切の好きもの」さえ破壊する敵となるのです。律法の義については非の打ちどころのないと言ったパウロを「わたしは、なんという惨めな人間なのか。誰がこの死の体から救ってくれるだろうか」と叫ぶまでに、神はパウロを打ち砕かれたのです。こうしてパウロは、「ただキリスト・イエスによる贖いの業(十字架)を通して、神の恵みにより無償で義とされる」のです。

Ⅲ. 十字架の栄光

十字架のキリストが人間存在の根源的渇きを癒す! イエスはそれを譬えで説き明かされます。イエスは、悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているという律法学者たちの批判に譬えで答えます。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」こう言って譬えを次のように結びます。「強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」

この言葉の背景にはイザヤ53:12の句があると言われます。イザヤ書53章は、主の僕が、私たちの罪、咎、過ちをすべて身に負い、神の裁きの座に進み出て行き、裁かれることを語ります。そしてその結びで、「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける」が語られるのです。つまりイエスがサタンを追放する力は十字架にあるのです。「彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられた」のです。

このキリストの十字架に秘められた力を示すエピソードがあります。民数記21章4節以下の青銅の蛇の記事です。それは、殺す神が瞬時にして癒す神になる様子を描いていきます。約束の地を目前にしながら神への不信心からイスラエルの民は、四十年もの間荒れ野を彷徨うことになるのです。ホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通ったとき、彼らは耐えきれず、神とモーセに逆らいます。すると神は炎の蛇を送り、蛇は民をかみ、多くの者が死んだのです。死という存在の無意味性に直面した民はモーセのところに来て、「主とあなたとを非難して、罪を犯しましたと懺悔すると、神はモーセに、「火の蛇を造って、それをさおの上に掛けなさい。すべての噛まれた者が仰いで、それを見るならば、生きるであろう」(民21:8)と言われたのです。神の言葉通りに旗竿の先に青銅の蛇を掲げると、「蛇が人を噛んでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」のです。

ヨハネはこの故事をニコデモとの対話の結びに引用し、この青銅の蛇は、十字架のキリストの予型であると語りました(3:15)。そしてヨハネはこの出来事を、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と結ぶのです。イエスはサタンに虐げられた世に、つまり人間の罪により存在の無意味性に苦しむこの世界に、神の全権・十字架愛を身に帯びて歩み入ったのです。イエスは「罪の支払う報酬は死である」(ロマ6:23)人類最後の敵、死に戦いを挑む戦士として十字架に上げられるのです。

ここに至って私たちは、なぜマルコがこの段落を、群衆が押し寄せたのでイエスと弟子たちは食事を取る間もないほどであったと導入したのか、その理由を知るのです。すでに触れたように、マルコは押し寄せる群衆で、「いつ、わたしは神の御顔を見ることができるだろうか」という群衆の渇きを描きました。

この「いつ」は、イエスが十字架に上げられるときなのです。イエスは十字架に上げられることで人間存在の根源的な〈死の渇き〉を癒やされるのです。ヨハネはそれを次のように表現しました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、……その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7:37−38)と。この生きた水は、ヨハネの信仰、神学によれば、イエスが栄光を受けるときに与られるのです(39)。つまり十字架のキリストにおいて、「いつ、わたしは神の御顔を見ることができるだろうか」の「いつ」に答えが与えられるのです。永遠の生命の水は十字架のキリストが槍で刺された傷から流れ出るのです! だから私たちも、主の晩餐で、あのサマリアの女のように、「主よ、その水をください」と声をかぎりに叫ぶのです。

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