2026/3/15 受難節第4主日   「光り輝くイエス」

マルコ9:2-10、フィリピ1:21-26、出エジプト24:12-18
讃美歌 214

六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。(9:2−3)

Ⅰ. 開かれる新しい未来

きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言は、ペトロとヤコブとヨハネだけを連れて高い山に登られたとき、イエスの姿が弟子たちの目の前で変わり、「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マタイ17:2)という、いわゆる山上の変貌です。先ほど読まれた出エジプト記24章には、モーセが高い山に登ったとき、燃える火のように輝く「主(ヤハウェ)の栄光」を見たとあります。三人の弟子たちはモーセのように、光り輝くイエスの栄光を見たのです。

マルコが描くこの記事は、まるで霧に閉ざされているかのようです。イエスの服が白く輝いたとか、エリヤがモーセと共に現れたとか、雲の中から声がしたとか、まるで霧に閉ざされたかのような語り口です。このあからさまでない語り口こそ、ここで起こった出来事の奥義の存在を示しているのです。マルコはこの語り口で、知性によっては直接的に知りえない事柄を、それを連想させる具体的な事物や感覚的形によって間接的に表現したのです。いったい、何が起こったというのか。聖霊の照明を祈り求めつつ、御言葉に聞きたいと思います。

マルコはこの象徴的な出来事を「六日の後」という言葉で書き出します。つまりマルコはこの出来事を六日前の出来事と密接に結びつけたのです。六日前、イエスはご自分の受難と死と復活について弟子たちに語られたのです。そのことがあってから六日後、イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネが見ている前で光り輝いたのです。なぜマルコは十字架への道を行くイエスと光り輝くイエスを結びつけたのか? ケーゼマンは『イエスの最後の意志』でこんなことを言っています。「地上のイエスの卑賤と崇高との間の真の逆説は、世と受難と死とにさらされて、攻撃を受けているイエスの人間性について本気で語られねばならない場合にのみ主張され得る。神的存在が卑しさに蔽い隠されている……その隠蔽は最深の意味では、同等でないもの、…互いに引き離されているものの間の交わりを可能にする」と。マルコは十字架への道を行くイエスと光り輝くイエスを結びつけることで、人間の罪によって遮断された神と人間との交わりが回復したことを描いたのではないか(Ⅰヨハネ1:3)。三人の弟子たちは、生ける神との交わりという天にも昇る喜びを味わったのです。

その弟子たちを、さらに驚かせることが起こります。エリヤがモーセと共に現れたのです。エリヤは生きたまま天に上げられた預言者です(列下2:11)。モーセは、約束の地の手前、ピスガの頂で死にますが、「今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない」(申命記34:6)と報告されています。つまり〈生ける神の言葉〉聖書は、モーセとエリヤ、この二人の偉大な人物の死をまるで霧に閉ざされたかのように語るのです。しかも、人々が待ち望む〈主の日〉には、エリヤを(マラキ3:23)、またモーセのような預言者が遣わされると語るのです(申命記18:18)。

そのモーセとエリヤが現れたのです! ここで問いかけられているのは、旧約の民が待望した〈主の日〉、神の国のメシア的待望です。つまり言葉と徴を伴って現れたイエスこそ、「来たるべき方(メシア)」であるということです。ここにマルコが山上の変貌の記事を、イエスの受難と死と復活に密接に結びつけた意図があるのです。ルカはそれを次のように描きます。「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話し合った」と(9:31)。イエスがエルサレムで成し遂げる最期とは、十字架の死です。然り、十字架のキリストこそ、神の栄光なのです!

Ⅱ.ただ一つの情熱

イエスが太陽のように輝き、そこにエリヤとモーセが現れ、エルサレムで成し遂げる最期について話し合うという、まことに厳粛な場にペトロが割って入ります。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」マルコはこのペトロの発言を、「ペトロは、どう言えばよいのか、わからなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである」と解説しました。このとき弟子たちは、神殿で祈っていたパウロが我を忘れた状態になり、「第三の天にまで引き上げられる」という(使徒22:17、Ⅱコリント12:4)、言葉を失うほどの恐れに満たされたのです。

こうして畏敬の念に満たされた弟子たちは、彼らを覆う雲の中から語りかける声を聞くのです。余談ですが、私たちが礼拝で神の言葉を聞くために「聖霊の照明を祈り求める」のは、この故事に倣ってなのです。彼らは雲の中から、つまり神の臨在に包まれて、「これはわたしの愛する子。これに聞け」という言葉を聞くのです。

この雲の中からの声は、イエスがヨハネから洗礼を受けた時に聞いた声、「あなたはわたしの愛する子」(1:11)と同じです。その意味は、イエスは〈主の僕〉(イザヤ42:1)としての使命を授かったということです。マルコは山上の変貌の記事で再度、イエスの〈主の僕〉としての使命を取り上げたのです。主の僕イエスの使命とは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」のこと、つまり、六日前に語られた人の子の受難と死と復活のことです。イエスは十字架で死ぬことで、神と人間と世界の新しい未来を開くのです!

この喜びの使信を聞いた弟子たちは、「急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」とマルコは記します。「ただイエスだけが彼らと一緒におられた。」マルコが描くこの光景を黙想していた時、聖書を中心とする内的な敬虔と実践を重んじたツィンツェンドルフの言葉が思い起こされました。彼は、「私にはただ一つの情熱しかない。それは彼であり、彼だけである」と言いました。ツィンツェンドルフの言う「彼」とは、イエス・キリストのことです! 歴史家ハルナックは同じことを別の視点から次のように語りました。彼は『キリスト教の本質』についての講義を次のような言葉で始めます。「ジョン・スチュアート・ミルは、ソクラテスという名の人がかつてこの世にいたことを、人類はいくら想い起こしても足りないであろう、と言ったことがある。彼がかく言ったのはもっともである。しかしさらに大切なのは、イエス・キリストという名の人がかつて人類の中心に立っていたことを、人類がつねに新たに思い起こすことである。」

ハルハックがこう語ったのは20世紀が幕を開ける1900年でした。残念ながら戦争の世紀20世紀は、イエス・キリストという名の人がかつて人類の中心に立っていたことを、思い起こすことはありませんでした。20世紀末、東西冷戦は終結しますが、資本主義の闇を糾弾した社会主義の崩壊により、富を神とする人々によって、イエスの名は歴史の舞台から完全に消え去ります。そうした時代の風潮にあってキリスト者だけが、イエス・キリストの名をつねに新たに思い起こしたのです。パウロはロマ書8章で、キリスト者がイエス・キリストの名をつねに新たに思い起こすのは、虚無に服した被造物が、神の子たちの出現を切に待ち望んでいるからであると語りました(ロマ8:18以下)。虚無に服した被造物にも、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかる希望があるのです(ロマ8:21)。

Ⅲ. 世にある教会

この希望のためにキリスト者は人々が生きるこの世で生きるのです。マルコはそれを、山を下りるイエスと三人の弟子たちで表現しました。弟子たちは、太陽のように光り輝くイエスと、栄光に包まれて現れたモーセとエリヤを見たのです! 「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と歓喜の声を上げたのです。彼らは、いつまでもここに留まっていたいと願ったのではないか。詩篇27篇の詩人は歌います。「一つの事をわたしは主に願った、わたしはそれを求める。いのちの限り主の家に住み、主の麗しさを見、その宮で尋ねきわめること」(4)、それがわたしのただ一つの情熱であると! 三人の弟子たちは主の麗しさを見たのです。イエスの本質の奥義を極めたのです。しかし、弟子たちはイエスと共に山を下りるのです。私たちが礼拝から人々が生きる日常の場へ出ていくようにです。

その途中イエスは弟子たちに、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と命じられます。弟子たちはこの言葉を心に留めますが、「死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った」とマルコは記します。言い換えれば、イエスの姿が光り輝いたというこの逸話が語られたのは、イエスが死者の中から復活されたからなのです。私たちはイエスの本質の奥義、つまりメシアは十字架に上げられねばならないを、イエスの復活によって初めて理解するようになるのです。ヨハネはそれを宮清めの結びで次のように語りました。「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(2:22)と。イエスの本質の奥義・十字架は、イエスの復活によって初めて理解されるのです。

光り輝くイエスに十字架を見た弟子たちは、イエスと共に山を下りるのです。人々が生きる日常の場で生きるのです。先ほど読まれたフィリピ書に、山を下りる弟子たちの気持ちを代弁するようなパウロの言葉があります。「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」(フィリピ1:23)。詩編84編の詩人は歌います。「いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら。……あなたの庭で過ごす一日は千日にもまさる恵みです」(5、11)と。

こう語ったパウロが、「だが」と言葉を続けるのです。「だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」キリスト者は「はるかに望ましい」キリストと共にいることに固執せず、人々が生きる日常の場で生きるのです。言い換えれば、キリスト者は、主の庭で過ごす一日の恵みを携えて、人々が生きる日常の場で生きるのです。それが、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」キリストに従うということなのです。

さらにパウロは言葉を続けます。「こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。」「いつもあなたがた一同と共にいる」とは、いわゆる精神論ではありません。このことに一つの示唆を与えてくれるのは、主の晩餐で祈られる、「世界の救いのための執り成しの祈り」です。主の晩餐の祭儀で私たちは、「一つのパンを分かち合うすべての人を、聖霊によってひとつのからだに集めて下さい」と祈るのです。つまりキリスト者は、主の晩餐の聖礼典において、時間と空間を超えて、いつも共にいるのです!

この天にも昇る喜びを主の弟子たちは、「わたしを記念するためにこのように行いなさい」との主の晩餐で味わうのです。万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。キリスト者は十字架のキリストをいま、ここでのこととして現在化する主の晩餐ですべての人を救う神の栄光を目の当たりにするのです。キリストの肉を食べ、血を飲むことで、極めてリアルに、「イエス・キリストという名の人がかつて人類の中心に立っていた」ことを、つねに新たに思い起こすのです。それだけではない。キリスト者は、イエスが十字架で完成された世の終わりのける神の救いを、つまり、人の子が雲に乗って再びおいでになる日をも常に新たに思い越すのです。

こうしてキリスト者は、主の晩餐による世界宣教の使命を遂行するために、キリストが光り輝く主の日の礼拝から人々が生きる日常の場へと踏み出すのです。ベン・マイヤーの言葉が心に迫ります。「世界宣教に乗り出した時ほどキリスト教がキリスト教らしく、また、あったことはなかった!」このイエスと一体化し、未来への途上にあるキリスト者について語られたパウロの美しい言葉を聞いて結びとしたいと思います。「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」(Ⅱコリント2:14)。

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