2026/3/22 受難節第5主日  「万民の僕イエス」

マルコ10:32-45、ロマ3:21-25、創世記18:20-28
讃美歌 216


一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしてことを話し始められた。「……人の子は祭司長たちや律法学者に引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。」(10:32−33)

Ⅰ. 反キリスト的願い

きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言はマルコ福音書10章32節以下、エルサレムに上る途上、イエスが十二弟子に語られた三度目の受難告知と、イエスに対する弟子たちの無理解が描かれています。第一回の受難告知では、ペトロが「サタン、引き下がれ」と叱責されたように、ここでイエスへの無理解をあらわにしたのはゼベダイの子ヤコブとヨハネです。彼らは進み出て、イエスに、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と反キリスト教的権勢欲をむき出しにしたのです。教会史家レーヴェニヒは、この反キリスト教的権勢欲は迫害下にあった教会にも存在したと語語りました。「教会は(迫害を)耐え抜いた。われわれはこのことについて神の導きの奇跡を崇めるのが当然である。教会の内部の状態に目を向けると、そこでは多くのものが腐っていた。……聖職者の間では、聖職者にあるまじき……反キリスト教的権勢欲がはびこっていた。」

迫害下にあった教会が腐っていただけではありません。パウロの手紙を見ると、イエスが世を去って十年余、反キリスト教的権勢欲はすでに教会に蔓延っていたことが分かります。事柄に即した言い方をすれば、「善悪を知る木の実」を取って食べ、神のようになった人間(創世記3:22)にとって、反キリスト教的権勢欲は、豹がその斑点を消すことができないように(エレミヤ13:23)、宿命なのです。この宿命から逃れることができる人間など一人もいないのです。興味深いのは、そのような者に向かってイエスは、第一回の受難告知では、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と語りかけ、ここ第三回の受難告知では、「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と語られたことです。聖霊の照明を祈り求めつつ、イエスの招きに応えるために、御言葉に聞きたいと思います。
マルコはこの出来事を次のように導入します。「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」と。マルコは、このときの弟子たちの驚きと恐れを、イエスが葬られた墓から逃げ出す婦人たちでも使っています。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。……恐ろしかったからである」(16:8)と。つまりマルコはこの導入句で、イエスから逃げ出したくなるほどの弟子たちの恐れを描いたのです。この驚きと恐れが、イエスに従う者には不可欠であると言わんばかりに……。

Ⅱ.イエスの本質の頂点

エルサレムへの道を先頭に立って進むイエスに驚き、そして恐れる弟子たちに、イエスはご自分の受難と死と復活についてあからさまに語られます。十字架のキリスト以外に、神のようになった人間を、反キリスト的権勢欲から自由にすることはできないのです。マルコはそれを次のように描きます。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願い出たヤコブとヨハネに、イエスは言われます。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」イエスが飲む杯とは、言うまでもなく十字架の死です。この問いに、ヤコブとヨハネは「できます」と答えます。そう答えることで彼らは自分が何を願っているかの分かっていないことを曝け出したのです。

「できます」と答えたヤコブとヨハネに、イエスは言われます。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」使徒言行録12章に、ヤコブの殉教が記されています(12:2)。つまり、ヤコブは確かにイエスの杯を飲んだのです。「しかし」とイエスは言われるのです。自己犠牲の極みである殉教の死が、わたしの右、左に座る条件ではない、と。誰がわたしの右に、また左に座るかは、定められた人々に許される、と。いったい、イエスの右と左に座るよう定められている人々とはどのような人か?

イエスのこの言葉を思い巡らしていた時、イエスが十字架に上げられたときの光景が思い浮かびました。ヨハネ福音書によれば、イエスが「栄光を受ける」のは、十字架に上げられる時(12:31−32)です。四つの福音書は、イエスが十字架に上げられた時、つまり栄光を受けられた時、イエスの右と左にいたのは「強盗」であったとしています。ここに〈イエスの本質〉の頂点があるのです。イエスは言われます。「わたしが来たのは、正しい者を招くためではなく、罪人を招くためである」(2:17)と。ルカはそれを、イエスが一緒に十字架に上げられた強盗に語った言葉、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23:43)で表現しました。

このイエスの本質の真骨頂をさらに展開したのが42節以下です。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者とみなされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(42−44)。 一見すると、イエスのこの言葉は弟子たちに偉くなるための方法、つまり謙譲の美徳を説いているかのように見えます。しかしイエスが言われたことは謙譲の美徳でないことは、この後に語られた「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(45)から明らかです。イエスが弟子たちに求められた「仕える」とは、「多くの人の身代金として自分の命を献げる」ことであり、それは謙譲の美徳とは天と地ほども違うのです。
ある研究者は、イエスが弟子たちに求めた「仕える者」になりなさいという発言を理解する上で基本的なことは、この言葉が一言一句に至るまでイザヤ53:10以下、それもヘブライ語テキストを引き合いとしていることである、と言います。そこには次のように語られています。

10……彼は自らを償いの献げ物とした。……
11…… わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために。
彼らの罪を自ら負った。

イエスは、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た!」と語られることで、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負い」、「自らを償いの献げ物とした」主の僕の預言が成就したと宣言されたのです。 しかも、この言葉はアブラハムがソドムのために執り成した記事と密接に関連していると言うのです。「アブラハムがソドムのために執り成しをしたこの単元は多くの世代をこえて、『多くのもののために』救いをもたらす主の僕についての預言者の言葉と関連する」と。

アブラハムがソドムのために執り成しをした物語に注目したいと思います。主は言われます。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、……わたしに届いた叫びのとおりか見て確かめよう。」まるでバベルの塔の物語を彷彿とさせるような神の言葉を聞くと、アブラハムは進み出て神にこう訴えたのです。_あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされることはあなたの正義ではない_と。

このアブラハムの訴えを聞くと、神は、「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」と言われたのです。このあとアブラハムは、正しい人の数を十人にまで減らしますが、神はその十人のために町全部を赦すと言われたのです。たとえ義人の数が罪人の数ともはや釣り合わないとしても、神は義人のゆえに町を赦すといわれたのです。

Ⅲ.滅びの中の救い

このアブラハムがソドムのために執り成す対話は際立っています。伝統的には、罪を犯した者の存在が無罪の構成員全員を裁くのに対し、この対話では、逆に義人の存在が罪ある人を守護するという最高に革命的な仕方で投げかけられたのです。このアブラハムの執り成しがいかに際立ったものであるかは、エゼキエルが語った言葉、「たとえ、その中に、かの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブがたとしても、彼らはその正しさによって自分自身の命を救いうるだけ」(15:14)であると比較する時、より鮮明になります。ノア、ダニエル、ヨブという伝説上の義人でさえ、かろうじて自分自身の命を救いうるだけである! この伝統的な考え方にアブラハムは真っ向から立ち向かったのです。そして十人の正しい人のために町全部を赦すという最高に革命的な言葉を神から引き出したのです。

聖書学者は、この単元は聖書の中で全く孤立していると言います。神学史的に整理するのはほとんど困難である、と。罪を犯した者によって無罪の構成員が裁かれるという古い思考に代わって、義人の存在が罪ある人を守護するという新しい思考が突如として、私たちの前に現前したのです。聖書の中で孤立したこの孤独な思想が、「人の子は……多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」という主の僕によって孤独から解き放たれたのです。否、本来あるべき場所に辿り着いたのです。神は、人間の罪により何も生み出し得ない、呪われた死の世界を、命溢れる祝福された世界に再創造するためにアブラハムを「すべての民の祝福の源」として選ばれたのです(創世記12:1−3)。このアブラハムから始まる神の救いの歴史が、十字架のキリストにおいて完成するのです。そしてイエスは、十字架で完成する奉仕を弟子たちにも求められたのです。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者とみなされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。

どうしたら、私たちは、このイエスの要請に応えることができるのか? それについてパウロがロマ書3章で語った言葉が一つの示唆となります。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業(十字架の死)を通して、神の恵みによって無償で義とされるのです」(ロマ3:23−24)。つまり、イエス・キリストによる罪の贖いの業(十字架)を信じ、神に義とされた者は、すべての人に仕える僕なのです。それがどれほどの恵みであるかを、ソドムのために執り成したアブラハム物語はその結びで描いています。ソドムは十人の正しい人が存在しなかったことで滅ぼされるのですが、その滅びの町ソドムから救い出された人がいると聖書は語ります。アブラハムの甥ロトとその家族です。ロトとその家族が滅びの町ソドムから救い出されたのは彼らが正しい人だったからではありません。御言葉はその理由を、「神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中なら救い出された」(19:29)と語ります。言い換えれば、神は、十字架のキリストを信じるキリスト者によって破滅のただ中にある世の人をすべて救い出されるのです。人の子の受難と死と復活により、赦しを受け、神の支配のリアリティを受け入れることが、キリスト者を滅びのただ中にある人々に仕える奉仕者とするのです! すべての人に仕えるキリスト者は、破滅のただ中にある世の人々を救う祝福の源、アブラハムの子孫なのです。

このキリスト者の奉仕を最も象徴的に表現するのが、十字架に上げられたイエス・キリストを目の前に描き出す主の晩餐であり、その祭儀で祈られる〈主の祈り〉です。ルターは、宗教改革の狼煙を上げた『95ヶ条の提題』の第一条で、「キリスト者の全生涯が悔い改めである」と語りました。このルターの言葉は、ソドムのための執り成したアブラハムに通じます。アブラハムは自分を「塵芥」(18:27)と言い表し、ソドムのために執り成したのです! そしてマルコはアブラハム、そしてルターに通じるキリスト者のあり方を、この記事の冒頭で次のように描きました。「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き(怪しみ)、従う者たちは恐れた。」

十字架への道を行くイエスに、驚き、恐れるキリスト者がいる限り、神は滅びのただ中にいるすべての人を救われるのです。イエスは言われます。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」(ヨハネ14:12)。もし信仰に悔い改めと愛の業が伴わなければ、それは死せる信仰です。

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