2026/3/29 棕櫚の主日  「十字架に上げられた神」

マルコ15:25-41、ヘブライ4:14-5:10、出エジプト26:31-35
讃美歌 224

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(15:33−34)

Ⅰ. イエスの最期

きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言はマルコ福音書15章25節以下、十字架に上げられた神、イエス・キリストの最期を伝える記事です。旧約学者ヴェスターマンは、『千年と一日』のまえがきで、_旧約聖書が今ある形になるまでには千年もの時があずかっている。この千年は、新約聖書において達せられた目的に至る長い旅であったと語る。新約において達せられた目的とは、人の子が十字架に上げられたことです。四つの福音書が目的としているこの一日は、旧約聖書にとってもまたその目的である。この一日の到来のために、一千年の歴史が欠くことのできない前奏曲となっている。実際のところこの一日は、そこに至るまでの長い道程を離れては理解することはできない。この千年は、その一日を離れては結末も、終着もないのである、と。_

いま私たちが目撃している、世界各地で起こっている正義なき殺戮は、イエスが十字架に上げられた一日を見失っている結果なのです。この一日を離れては、争いが絶えない世界には滅びがあるだけです。

イエスが十字架に上げられた一日を描く聖書で目を引くのは、イエスに対する嘲笑の嵐です。ローマの兵士たちは、イエスに紫の衣を着せ、茨の冠をかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って唾を吐きかけ、ひざまずいて拝むというあらん限りの侮辱を加えました。また、刑場を通りかかった人々は頭を振りながら、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救え」と言ってののしったのです。さらに祭司長や律法学者たちまでが、「他人を救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがよい。それを見たら、信じてやろう」と代わる代わる侮辱したのです。それだけではない。イエスと一緒に十字架につけられた者たちまでが、イエスをののしったのです。これが滅びにある世界の実相です。

これが力ある業と権威ある新しい教えで大勢の病人を癒し、その人生に意味を与えたイエスの最期の一日なのです。ここにはガリラヤ湖畔で、またパレスチナの埃っぽい道端で響き渡ったイエスをたたえる賛美の声は一切ありません。シェイクスピアの戯曲に『終わり良ければすべて良し』があります。マルコが描くイエスの終わりは、これ以上ない悲惨です。生前、どれほど賞賛されようとも、その終わりが最悪であるイエスの生涯は、すべて悪しなのです。そうであるのに私たちは、イエスの最期に最高の祝福を見たのです! 聖霊の照明を祈り求めつつ、御言葉に聞きたいと思う。

人々からあらん限りのののしりを受けたイエスが十字架上で発した、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」は私たちの胸に鋭く突き刺さります。この叫びはゲッセマネの園のイエスの祈りと軌を一にしています。イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を伴い、奥に進むと、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言って、ひどく恐れ、もだえ始めたのです。イエスは地面にひれ伏し、できることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈られたのです。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」この最後の言葉、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」は、イエスが十字架上で叫んだ、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と相入れません。イエスは御心に適うことがおこわれますようにと祈りながら、神の御心はイエスを十字架に上げることであることに抗議しているからです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と。

Ⅱ.死の陰に住む者の光

いったい、マルコは、死を前にしたイエスのこの壮絶な叫びで読者に何を伝えようとしたのか? 先ほど紹介したヴェスターマンの言葉を借りれば、十字架上のイエスの叫びは、過酷な歴史を生きた神の民イスラエルの一千年に及ぶ魂の叫びである、と言えないでしょうか。モーセや預言者と共にイエスを証しする詩編にはこの叫びが溢れています。

イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞きました。つまりイエスは〈主の僕〉として召されたのです。そのイエスが生涯の終わりにもだえ苦しみ、できることなら、この苦しみの時が過ぎ去るようにと祈ったのです。このイエスの苦しみを目撃したのは十二弟子の中でもペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけです。しかもイエスが死の苦しみにあるとき、彼らは眠っていたのです。つまり、苦しむイエスを目撃した者は一人もいないのです。そうであるのに初代教会は、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という護教的な言葉を付け加えてまで、苦しむイエスの姿を後世に伝えたのです。教会は、十字架の死を前にしたイエスの苦しみに沈黙しなかったのです。

なぜ? このなぜに答えたのが「ヘブライ人への手紙」の著者です。「キリストは、肉において生きておられるとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」られたと(5:7)。讃美歌136番2節はそれを次のように歌い上げました。「主の苦しみは、わが為なり、われは死ぬべき、罪人なり。かかるわが身に代わりまして」と。

これによれば、ゲッセマネのイエスの壮絶な苦しみは、私の罪、咎、過ちを身に負い、わたしに代わって裁かれる苦しみなのです。しかしそれはイエスの叫びの反面でしかありません。十字架上のイエスの叫びは、罪に堕ちた人間を新たに生かすための、神の産みの苦しみでもあるのです。イエスは、憐れみに胸を焼かれ(ホセア11:8)、腸が捩れるような神の痛みを生きられたのです(エレミヤ31:20)。イエスは真の人として、また真の神として、十字架上で、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれたのです。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」マルコはイエスがこう叫ばれたのは、全地を覆い尽くす暗闇の中であったと語ります。イエスが十字架に上げられたのは「午前9時」、それから3時間後、12時になると「全地は暗くなり、三時まで続いた」のです。マルコはこの3時間に及ぶ暗闇で読者に何を伝えようとしたのか? イエスが終末の徴について語られた言葉の中に次のようなものがあります。「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」(13:24−25)と。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」(13:26)と。つまりマルコは、全地を覆い尽くす闇で、どこにも逃れる術がない、苦悩の中にいる人々が見る光を、終末における神の救いの完成を間接的に表現したのです。

それは、イエスが息を引き取られたとき、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」ことに象徴されます。この垂れ幕は、神殿の至聖所と聖所とを隔てるものです(出26:31−33)。至聖所には贖いの座としての掟の箱が置かれました。その垂れ幕がイエスの十字架の死によって真っ二つに裂けたとは、罪の贖いの業が完成した!ということです。人間の罪により隔てられていた神と人間との交わりが再開されたのです。Ⅰヨハネはそれを次のように語りました。「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」神の御国が出現したのです!

それを最も象徴的に描いたのがマタイです。マタイはイエスが十字架で死んだとき、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、……聖なる者たちの体が生き返った!」と語ったのです (27:51−52)。シュラッターは、聖徒たちの体が生き返ったという出来事はおそらく後になってからではなく、全く最初から弟子たち自身によって来るべき神の日の始まり、大いなる復活の開始として体験されたものであろうと述べました。つまり、ここには最初の日々の雰囲気がなお何がしか保たれているのです。

Ⅲ.永遠の救いの源

私たちが今、現に見ている世界、それは人間の罪により何も生み出し得ない、呪われた死の世界です(創世記2:4b―11章)。その世界を命溢れる祝福された世界に再創造するために神はアブラハムを「すべての民の祝福の源」として召されたのです(創世記12:1−3)。そのアブラハムに始まる神の救いの歴史、旧約千年の時がイエスが十字架に上げられた一日で完成したのです。神は十字架のキリストを「永遠の救いの源」(ヘブライ5:9)とされたのです!

マルコは十字架に上げられた神、イエスによって始まった新しい世界を、ローマの百人隊長の告白、「まことにこの人は、神の子であった」で描きます。なぜ百人隊長はこのように告白し得たのか? 彼はイエスに投げかけられた人々の嘲笑を聞いたのです。それだけではない。イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死んだのです。そのイエスを彼は、「まことにこの人は、神の子であった」と告白したのです。この告白の重要性はいくら強調しても強調しすぎることはありません。その根拠はイエスの持っていた救済史観です。イエスは譬えで、神の国の祝宴に異邦人が加わる時が歴史の終わりに来ると語られました(マタイ8:11以下)。その異邦人の時が来る前に神の約束が充され、イスラエルに救いが提供され、神の僕が多くの人のために血を流さなければならないと。エフェソの信徒への手紙の著者はそれを次のように語りました。 _イエスは十字架に上げられることで、ユダヤ人と異邦人とを隔てる敵意の壁を取り壊し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされた(エフェソ2:14−16)と。_
このエフェソ書の言葉で注目したい言葉があります。それはイエスが「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させた」という言葉です。これは主の晩餐の秘義を映し出しています。

ボンヘッファーは、聖晩餐を守る集まり(ゲマインデ)という状況において、教会は最も確信をもって現われ出るであろう、と語りました。そこでは自然的な結びつきはほとんど何らの役割をも演じない。軍国主義者と平和主義者、資本家と労働者、その他これに類する人たちの間には、最も深い対立が横たわっている、と。聖晩餐を守る集まり(ゲマインデ)という教会は、わたしと他者との間の交わりは破れていること、しかしキリストがその代理的行為において、私たちを互いに招き寄せ、共に並んで保持したもうことを人が知るところで経験されるのです。

言い換えれば、私たちが今、現に見ている国と国、民族と民族、人と人が際限なく争い続ける世界は、教会にならなければ、存続する価値はないのです! この存在する価値のない世界、滅びの中にある世界を救うために、神は独り子イエス・キリストを十字架に上げられたのです! この十字架に上げられた神、イエス・キリストを目の前に描き出すのが主の晩餐なのです! この世は教会(聖餐共同体)にならなければ、滅びるしかないのです! 神はこの世界を救うために、御子イエス・キリストを世に遣わし、十字架で救いを完成されたのです! その完成された救いを教会は、キリストの体と血にあずかることで、「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」(Ⅰコリント11:26)のです! 国と国、民族と民族、人と人との争いが絶えない、死の陰の地に住む人々の光として、主の晩餐による世界宣教の使命に生きる教会であり続けたいと思います。

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