2026/3/8 受難節第3主日 「十字架への信従」

マルコ8:27-34、ロマ7:22-25a、ホセア11:7-9
讃美歌 331

イエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」……それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。(8:29、31)

Ⅰ. イエスは何者か?

きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言は、イエスと弟子たちがフィリポ・カイサリア地方に行く途中で交わした対話の内容です。フィリポ・カイサリアはイエスのガリラヤ伝道の転換点です。ここを境に、イエスの歩みは文字通りエルサレムに向かうのです。言い換えれば、ここでなされたイエスと弟子たちとの対話はガリラヤ伝道の集大成です。それはイエスが弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と、立て続けに問われた問いに端的に言い表されています。重荷を負う人々はイエスを「ダビデの子」と呼び、獄中のヨハネはイエスに、「あなたは、来るべき方でしょうか」と問い、そしてイエスの敵対者たちはイエスを「徴税人や罪人の仲間」と誹謗したのです。イエスは何者なのか、という問いは、外から提出されただけではありません。イエスご自身の口から弟子たちに向けて発せられたのです。

「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」この問いに弟子たちは答えます。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」と。人々は盲人の目を開き、らい病人を清め、死人を生かし、五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させたイエスを、過去に存在した偉大な人物たちの像に倣って〈再来ノ預言者〉とみなしたのです。

イエスの問いはさらに続きます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えます、「あなたは、メシアです。」「するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」のです。学者たちはこの戒めを「メシアの秘密」と言いますが、この戒めは意外です。なぜならイエスはご自分の証人として弟子たちを召されたのです(ルカ24:48)。そうであるのにイエスは自分のことを誰にも話さないように、弟子たちに沈黙を強いたのです。

なぜ? ルカが、エマオ途上の二人の弟子に対する復活顕現物語で、このなぜに答えています。二人の弟子はイエスに、「業にも言葉にも力ある預言者」を見て、イスラエルの民が待ち望んだローマからの解放者の期待をかけたのです。しかし、そのイエスが十字架で殺されたことで、彼らは、もはや望みは尽きたと、元の生活に戻ろうとしたのです(24:19−21)。その弟子たちに復活者イエスが現れ、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(26)と説き明かされたのです。

「あなたは、メシアです。」イエスがこの答えに沈黙を強いたのは、ペトロがエマオ途上の二人の弟子同様、イエスに、政治的メシアの期待をかけていたのを見たからではないのか。言い換えれば、イエスは弟子たちに「メシアの秘密」を強いることで、自分は政治的メシアではないと宣言されたのです! この見方が間違いでないことは、これに続けてイエスが、人の子の受難と死と復活について弟子たちに教えたことに端的に描かれます。

このイエスの受難告知を聞くとペトロは、イエスをわきへ連れ出し、いさめ始めたとあります。すると、「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱ったのです。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」ペトロは現代の社会福音派がそうであるように、同情的イエスをカルバリーのキリストに取って代えしまうという悪魔の企てに加担する罪を犯したのです。この置換はキリスト教を消滅させるのです。ゆえに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」というこの問いは、現代の教会にとって極めて重い意味をもつのです。聖霊の照明を祈り求めつつ、御言に聞きたいと思います。

Ⅱ.イエスの本質の奥義

「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」弟子たちはこの問いに、救済史に登場する過去の偉大な人物、モーセ、エリヤ、預言者、洗礼者である、と答えます。これを聞くとイエスは、「あなたがたはわたしを誰と言うか」と問います。ペトロが「あなたは、メシアです」と答えます。ペトロはエマオ途上の二人の弟子のように、イエスに、イスラエルのために国が起こす期待をかけたのです(使徒1:6)。

しかし、イエスが力ある業と権威ある新しい言葉で開示された未来、神の国は、救済史に登場する過去の偉大な人物像はもとより未来の人物像にも比較しうるものはないのです。イエスは並外れた新しい者なのです! その並外れたイエスの新しさが(イザヤ53:1)、人々をしてイエスを排斥し、十字架に引き渡すことになるのです。言い換えれば、イエスは比較しうるものがいない人の子として、苦しみを受け、排斥され、殺されることで、神の国を指し示めされたのです。「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」

ケーゼマンは、この苦しみを受けるメシアは「その全存在によって、謎であり、問いであり、成就と応答を必要とする約束である」と言いました。十字架への道を行くイエスの全存在は、謎であり、問いであり、成就と応答を必要とする約束であるとは、このあと詳しく触れますが、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」のことです。私たちはイエスを救い主と信じ、聖書を命と見立てて以来、この言葉に突き動かされるようにして、主の御足の跡に従って来たのです。

ところでイエスは「神の国」と呼ばれる未来に向かって生き、そして語られたのですが、どのような人が神の国に入るのでしょうか? マルコによれば、それは、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と断罪される人です。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」との服従への招きが、「サタン、引き下がれ」に直結しているのです。そのことの意味は大きいのです。ここに歴史上比較しうるものがいない〈イエスの新しさ〉があるのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」というイエスの新しさです。

イエスは罪人を招くゆえに、ペトロの罪を抉り出されたのです。佐藤繁彦が『ルッターの根本思想』で語った言葉が心に迫ります。「神は、活かそうとするときは、殺す神であり、神がわれらを義とするときには、われらのうちにある一切の善きものを破壊するのである。」イエスはペトロを活かそうとして、ペトロを完膚なきまでに打ち砕かれたのです。ペトロは「サタン、引き下がれ」との主の叱責を受けることで、神に義とされ、神の国に生きる者とされたのです。言い換えれば、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」イエスに従う者は全生涯にわたって「サタン、引き下がれ」との主の言葉を聞き続けるのです。ルターの言葉で言えば、「キリスト者の全生涯が悔い改め」なのです。

その生き方を実践したのがパウロです。神は、「律法の義については非の打ち所がない」と言っていたパウロを、打ち砕かれたのです。パウロのなかにサタンの使い、肉体の棘があることを知らしめるためです。パウロは肉体の棘、サタンの使いを取り除いてくださいと、神に三度祈ったと言います。三度祈ったとは、祈り続けた、祈り続けているということです。そしてパウロはその祈りの中であの言葉を聞くのです。「わが恵み、汝に足れり。わたしの力は弱さの中で発揮される」と。
パウロもペトロのように、「サタン、引き下がれ」という言葉を聞いたのです。聞いて、「わたしは、なんという惨めな人間なのだろう。だれが、この死の体から、わたしを救ってくれるだろうか」と叫んだのです。そしてパウロはこの死ぬほどの苦しみの中で、「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな!」と、天にも昇る喜びを味わい知ったのです。わが恵み、汝に足れり。わたしの力は弱さの中で発揮されると。

Ⅲ.イエスへの信従

わたしはこのパウロの言葉に、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とのイエスの言葉を読み解く鍵があると考えます。それとの関連で注目したいのは、ホセア書11章7節、および8−9節です。ホセアは、出エジプト以来、神はイスラエルを「愛の絆」で導き、その手を取って養われたと語ります。しかしイスラエルの民はその神ヤハウェの手を振り払い、カナンの豊穣神バアルにひれ伏したのです。7節は、そのイスラエルに語られた神の激烈な言葉です。「わが民はかたくなにわたしに背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも、助け起こされることは決してない。」

かつてイスラエルの民がエジプトの苦役ゆえに天に向かって叫ぶと、神は彼らの叫び声を聞き、その痛みを知り、降って来て、エジプト人の手から救い出し、広々とした土地、乳と蜜の流れる土地に導き入れたのです。その神の手を振り払い、イスラエルは豊穣神バアルの手を握ったのです。そのイスラエルに、「わが民はかたくなにわたしに背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも、助け起こされることは決してない」が語られたのです。
しかし、もはや助け起こされることはないと語られた後、わたしたちは思いもよらない言葉を聞くのです。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。……わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない」とホセアに語らせたのです。

7節の、イスラエルの頑なさを裁く激烈な言葉に直面したあとで、8−9節でイスラエルを憐れむ神の言葉を聞くのは躊躇を感ずる、と言った人がいます。なぜなら7節の裁きの言葉は、単なる脅しであり、最後的な意味をもたないという印象をおこすからであると。

7節の、頑ななイスラエルを裁く神の烈しい言葉と、8節の、イスラエルを捨てることができないと語る神の憐れみの言葉との間に、何があるのでしょうか。前6世紀の預言者エレミヤは、神の御座に近づく一人の指導者がいると語り(30:21)、捕囚期末期の預言者第二イザヤは、わたしたちの罪をすべて身に負って、神に裁かれる主の僕について語りました(53章)。この命を賭して神に近づく主の僕こそイエス・キリストなのです。つまり、7節の裁きの言葉と、8節の救いの言葉の間には十字架のキリストが立っているのです! 十字架のキリストにおいて神は、殺す神から生かす神へと大転換したのです。

パウロの言葉、「わたしは、なんという惨めな人間なのだろう。だれが、この死の体から、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな!」がそれを見事に描いています。「わたしたちの主イエス・キリストによって」とは、苦しみ、排斥され、十字架で殺されイエスによって、ということです。十字架のキリストにおいて神はわたしたちの罪、咎、過ちを裁き、それによってわたしたち罪人に命が提供されたのです!

この神の痛みの愛を誰の目にも最も印象的な仕方で表現するのが徴税人や罪人との会食です。つまり「徴税人や罪人の仲間」イエスに私たちは、比較を絶する並外れたイエスの新しさを見るのです。イエスが徴税人や罪人たちと食事を共にされたということは、単に社会的次元の出来事ではなく、またイエスのひときわすぐれた人間性、人を差別しない心のゆたかさ、踏みつけられている人々への深い同情といったものが表現されているだけではありません。その意味は一層深い次元に及んでいるのです。

イエスの会食はその使命と使信の表現であり(マルコ2:17)、終末的な食事、終りの時の救いの宴の先取り(マタ8:11)であり、そこではすでに今、聖なる人々の共同体が目の当たりに表されているのです(マルコ2:19)。食卓を共にする形で罪人が救いの共同体に迎え入れられているのです。この食卓は人を救う神の愛を誰の目にも最も印象的な仕方で表現するのです。

十字架のキリストは、罪人を招く神の痛みの愛の眼に見える形である! その十字架のキリストを今、ここでのこととして現在化する主の晩餐を守ること、それが「自分を捨て、自分の十字架を背負って」キリストに従うキリスト者なのです。十字架のキリストが目の前に現れる聖晩餐を守る教会であり続けるために、「サタン、引き下がれ」と言うイエスの声を聞き続けたいと思います。

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