讃美歌 326
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。(20:19−20)
Ⅰアウシュヴィッツの再来
敗戦後の混乱の中、わたしたちの教会は宣教の拠点を小石川から小岩に移し、この地で幼稚園を開設、地域の子供たちが多く集まりました。しかし時代の流れの中で幼稚園は廃園、園庭から子どもたちの姿が消えました。その園庭が江戸川区の公園として、地域の人々の憩いの場に生まれ変わりました。この公園の特色の一つに災害への備えがあります。防災をうたった公園を朝に夕に見ながら、30年前、1995年1月17日、阪神淡路大震災により瓦礫の山と化した国際都市(メガロポリス)神戸を、「被爆地ヒロシマの再来」と報じたイギリス人ジャーナリストの言葉が思い起こされました。それは、科学・技術文明が無力と化した日でした。現代人の生活が文字通り脆い基盤の上にあることを見せつけたのです。電気、水道、ガス、交通、通信といった近代都市のライフラインが破壊され、無防備となった街は至るところで炎に包まれました。
それから5年後、2001年9月11日、アメリカの貿易センタービルにハイジャックされた旅客機が突っ込むという衝撃的なテロが起きました。それ以来、テロに対する「新しい戦争」が始まり、四半世紀を経て、戦場はイラクからイランに移りました。自分に不都合な存在を圧倒的な武力で征圧するという新しい戦争がもたらした世界の崩壊は、国際都市神戸の崩壊の比ではありません。ここですべてを破壊し尽くすのは地下のプレートにたまったエネルギーではなく、人間の〈心の闇〉です。それは「アウシュヴィッツの再来」ではないのか。この「新しい戦争」で破壊されたのは電気、水道、ガス……といったライフラインだけではありません。人間性であり、愛や創造力です。正義、信頼、愛は人間が社会生活を営む上での基盤です。人間であることのすべてが根こそぎ破壊されたのです。武器を持たない女や子供が無惨に殺される世界に、未来・希望はあるのか。
阪神淡路大震災の時、京大大学院教授佐伯啓思はこんな一文を寄せました。「震災後、仏教、キリスト教を問わず、いかなる宗派による目立った宗教的救済活動もみられなかった……。今日では、もはや宗教が、この六千数百名にのぼる理不尽な死を納得させるような、いかなる力も持ち合わせていないことを誰もが知っているからである。宗教者の大半は、ボランティアとして援助活動をしただけであり、そのことはそれで有意義ではあっても、魂の救済という本職とはあまり関係がない。この不安感は、ボランティアという程度では相殺されるものではとてもない。」(『現代日本のリベラリズム』 講談社)。
私たちは聖書を糧としている教会です。その教会に、「六千数百名にのぼる理不尽な死を納得させる、いかなる力も持ち合わせていない」と佐伯氏は言われるのです。教会は塩気を失ってしまったのか。なんの役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるしかないのか。今日、教会の宣教の主要なテーマは共感と連帯です。「さあ、共に生きよう」という耳触りの良いかけ声が教会に溢れています。キリスト者の関心は、人類の罪を贖うキリストではなく、貧しい者、抑圧された者の友イエスに逸れてしまったのです。私たちは「魂の救いという本職」に立ち帰れるでしょうか。「神よ、鹿が谷川を慕い喘ぐように、わが魂もあなたを慕い喘ぐ」と語った詩篇42篇の詩人の言葉が心に迫ります。
きょう、私たちに開かれた御言葉、ヨハネ20:19以下に描かれているのはまさに神への渇き、神を慕い喘ぐ渇きです。ヨハネはそれを、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と語ったトマスで描きました。聖霊の照明を祈り求めつつ、御言葉に聞き、トマスのように十字架の御傷が刻まれた復活者イエスを喘ぎ求めたいと思います。
Ⅱ.キリスト者の希望
十字架で殺されたイエスが甦り、弟子たちにご自分を顕されたのです。この復活顕現物語で際立っているのは、怖れと焦り、不安と疑惑が、歓喜と帰依の感情とせめぎ合っていることです。こうした特徴のうちに、復活の出来事の圧倒的な力、つまり最古の伝承の形態、その謎と秘密への記憶が保たれているのです。ヨハネはそれをトマスで描いたのです。トマスはイエスが弟子たちに顕れた時、その場にいませんでした。弟子たちがトマスに、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言い放ったのです(参 マタイ28:16−17)。疑惑が、歓喜と帰依の感情とせめぎ合っているのです。
あの日何があったのでしょうか「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。」(19a)。「その日」とは、イエスが死から甦られた日です。その日の朝、マグダラのマリアは弟子たちに、「わたしは主を見ました」(18)と告げたのです。そうであるのに弟子たちはユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけていたのです。弟子たちのこの〈恐れ〉は、「わたしたちは主を見た」と語った弟子たちに対して、わたしはこの目でイエスを見、この手で十字架の御傷に触れなければ決して信じない、と言ったトマスの〈疑惑〉と同じではないのか。
いったい、ヨハネは、ユダヤ人に対する弟子たちの恐れで何を描いのか。それは希望のない世界の現実ではないのか。ヨハネはそれをパンの奇跡で掘り下げました。五つのパンと二匹の魚で満腹した人々は、「この人こそ、世に来られる預言者である」と言って、イエスを王にしようとしたのです (6:14−15)。その人々にイエスは、「わたしは天から降って来たパンである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(6:41、54−55)と言われたのです。するとこれを聞いた多くの弟子たちは、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(60)と言ってイエスから離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった、というのです(66)。イエスと共に歩まないとは、弟子たちに未来、希望はないということです。キリストの肉を食べ、血を飲む者に永遠の命、すなわち世の終わりに肉体の復活という希望があるのです。
イエスと共に歩まない、とは、未来を失うことに他なりません。未来を失うとはどういうことか? アウシュヴィッツを生き残ったランクルは『夜と霧』 で次のように語ります。「一つの未来を、彼自身の未来を信ずることのできなかった人間は収容所で滅亡して行った。未来を失うと共に彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも倫理的にも転落した……」ユダヤ人を恐れる弟子たちは、私たち現代人がそうであるように、内的崩壊の瀬戸際にいたのです。
きょう、私たちに開かれた御言葉は、内的崩壊の瀬戸際にいた弟子たちが、喜びに包まれて立ち上がる姿を描いています。「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」弟子たちは十字架の御傷が生々しく刻まれた復活者イエスを見て、言葉では言い尽くせない輝きに満ちた喜びに満たされたのです。八日の後、弟子たちが一堂に会したとき、ヨハネはユダヤ人への恐れについて何も語っていません(26)。イエスを見た喜びが、恐れに取って代わったのです。弟子たちを取り巻く情況が変わったのでしょうか。そうではありません。ユダヤ人は弟子たちにとって脅威であり続けたのです。ユダヤ人たちは、イエスを公に主と告白する者は会堂から追放すると決めていたのです(9:22)。会堂から追放するとは、ユダヤ社会では生きる術を失うということです。弟子たちを取り囲む情況は何も変わっていないのです。しかし、復活の主を見たことで弟子たちは一変したのです。パウロの言葉で表現すれば、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(Ⅱコリント4:8−9)者に生まれ変わったのです。弟子たちは苦痛の後の喜び、つまり肉の喜びではなく、苦痛を遥か下にして舞う復活節のよろこびを生きる者になったのです。
Ⅲ.魂の救い
パウロは、弟子たちに起こったこの大転換を、「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」を与えてくださったからであると語ります。イエス・キリストの御顔に輝く栄光、光とは十字架です! 神は、闇の中を歩み者に、死の影の地に住む者に、十字架のキリストという光に向かって歩め!と言われるのです。
ヨハネは、この光に向かって歩む弟子たちの姿を次のように描きました。イエスが葬られた墓の前で泣いていたマグダラのマリアはイエスを見て、涙を拭われたと。ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけ、息を潜めていた弟子たちは、イエスを見て、喜んだと。その手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、決して信じないと言ったトマスは、イエスを見て、「わが主よ、わが神よ」と告白したと。
しかし、と、人は言うかもしれません。イエスはトマスに、「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」と言われたではないか、と。マグダラのマリアも、十二人の弟子たちも、そしてトマスもイエスを見て!死の渇きを癒やされたのです。そうであるのに、「見ないで信じる人は、幸いである」と主は言われたのです。このような言葉でイエスは何を言われたのでしょうか。
そのことを黙想していたとき、パウロがロマ書8章で語った言葉に導かれました。「“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。」(ロマ8:23−24)。パウロが語る、見ないで信じる信仰とは、「体が贖われる希望」のことです。ヨハネはそれを、キリストの肉を食べ、血を飲む者に約束された希望!として語りました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と。
「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださった」のです。ユダヤ教では、栄光への復活は常に例外なしに、神の新しい創造の始まりを意味しました。この新しい創造を象徴的に描いたのが22節、「(イエスは)彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」です。イエスが息を吹きかけたとは創世記2:7、土の塵から造られた人間に、神が息を吹きかけると人間は生きる者になった、に対応しています。復活者イエスは弟子たちに「聖霊を受けよ」と言って息を吹きかけることで、朽ちず、汚れず、しぼむことのない新しい命を賦与したのです。希望に満ちた新しい命とは、ヨハネによれば「罪の赦し」を生きることです。十字架のキリストという光に向かって歩む者は、罪の赦しを生きるのです。
罪の赦しのために弟子たちは聖霊を受けてこの世に遣わされるのです! 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けよ!』」精神にせよ、人間性にせよ、愛や創造力にせよ、貧困を目ざしての破滅的な下降にある世界は、聖霊を受けた教会の言葉によって、イエスと出会い、神と出会うのです! 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」(マタイ10:40)。
私たちが今、現に生きている世界は、精神にせよ、人間性にせよ、愛や創造力にせよ、貧困を目ざしての破滅的な下降にある世界です。すなわちアウシュヴィッツと化した世界、何も生み出し得ない死の世界です。その世界に神は聖霊の器、聖晩餐を守る共同体を遣わし、闇の中を歩む者、死の影の地に住む者の光とされたのです。私たちは主の晩餐で、十字架の御傷が生々しく刻まれた復活されたイエスを見るのです。見て、光に向かって生きる者となったのです。小石川で伝道を開始して以来、車の両輪として行ってきた幼児教育は時代の趨勢の中でその使命を終えました。しかし、十字架のキリストという光に向かって歩む教会の使命は、すなわち、主の晩餐による世界宣教の使命は、主が来たり給う日まで、決して終わることはないのです!