2026/4/19 復活節第3主日 「愛の危機の時代」

ヨハネ10:7-18、Ⅰヨハネ4:7-12、創世記11:1-9
讃美歌 511

わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。(ヨハネ10:14−15)

Ⅰ愛の危機の時代

1972年、キリスト者として歩み始めてまもない頃、現代は愛の危機の時代であるとの問題意識から書かれた、今道友信氏の『愛について』という新書版を手にしました。今道氏は言われます。_愛には、愛しく思うとか、大切に思うというように、思うという要素が入っているが、今の世の中は立ち止まって思うことの難しい時代である。機械技術の世の中では、信号の点滅に応じてためらわずに反応できる行動的態度が大事に考えられ、人間らしさの原点である「思う」ことが行われにくい時代である_と。

今道氏のこの問題意識は、ヤスパースが『歴史の起源と目標』で語った言葉に通じます。彼は言います。_現在は精神にせよ、人間性にせよ、愛や創造力にせよ、貧困を目ざしての破滅的な下降であ……る、と。現代人は歴史を費やして獲得した貴重なものを、宗教も哲学も、その他もろもろの価値も、あらかた壊してしまったのです。言い換えれば、科学技術のめざましい発展は、それに見合う人間精神の発展をもたらさなかったのです。経済が、経済的利益が、その他のあらゆる価値に対して優位をもとめ、また獲得して、そのため経済のもつ特性が他のすべての社会、文化を特質づけ、それに変わる新しい価値を生み出していないのです。

オルテガはこの技術の時代を、「歴史上もっとも不幸な時代」と語りました。「われわれの時代は、信じがたいほどの実現能力があるのを感じながら、何を実現すべきかがわからないのである。つまり、あらゆる事象を征服しながらも、自分自身の主人になれず、自分自身の豊かさのなかで自己を見失っているのだ。われわれの時代はかつてないほど多くの手段、より多くの知識、より多くの技術をもちながら、結果的には、歴史上もっとも不幸な時代として波間を漂っているのである。」私たちが今、謳歌している技術の時代は歴史上もっとも不幸な時代、言い換えますと、〈愛の危機の時代〉なのです。

興味深いのは、聖書は、この愛の危機を深く見つめることから書き出されていることです。創世記2章4節後半から11章の原初史がそれです。人間は、取って食べてはならない「善悪を知る木の実」を取って食べたことで、神のようになり(3:22)、結果、神と共なるエデンの園の生活を棒に振ります。旧新約聖書を貫く主旋律は「神は愛である!」です。愛である神と共に生きることを失って以来、人間は愛の危機の中を生きてきたと聖書は語るのです。それは雪だるま式に拡大する人間の罪として描かれます。エデンの園を追放されたアダムとエバから生まれた最初の子カインは弟アベルを殺害したのです。そしてカインの末裔レメクは、「七十七倍の復讐」を誓います。さらに天に届く塔を建て始めた人間を見て、神はこう語ります。「これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない!」(11:6)。ここには、神のようになった人間の恐るべき可能性に直面した古代人の恐怖が描かれているのです(フォン・ラート)。

「あらゆる技術革新は集団の死の危険をはらんでいた」と語ったアンドレ・ヴァラニャックの言葉が心に迫ります。科学・技術の目覚ましい進歩を遂げている現代は、「集団の死の危険をはらんでいる」のです。古人類が生き残ったのは技術的停滞のゆえなのです。天に届く塔を建てる知識を手にした人間は、大空の下ではなく、何も生み出し得ない死の相の下に横たわったのです(創世記11:27−32)。神のようになろうとしてエデンの園を追放されて以来人間は、「歴史上もっとも不幸な時代」、愛の危機の時代を生きてきたのです。

Ⅱ. 罪を贖う愛

原爆に象徴される集団の死の危険をはらんだ技術の時代を生きる人間に 未来・希望はあるのか? あるとればそれは神の愛のうちに生きるあり方を回復することによってです。きょう、私たちに開かれた御言葉、ヨハネ10章7節以下が語っているのはまさにそのことです。イエスはここでご自分を譬えて、「わたしは羊の門である」(7、9)、「わたしは良い羊飼いである」(11、14)と言われます。このほかにもヨハネによればイエスはご自分のことを、〈わたしはパン、光、道、真理、命である〉に言われます。これらはすべて人間として生きる上で欠かせないものです。この「わたしは〈パン、光、道、真理、命〉である」と、「わたしは良い羊飼いである」との間には微妙な違いがあります。「良い」とは、「まことのぶどうの木」の「まこと」と同じ内容の言葉です。つまり、独自性と排他性が言い表わされているのです。排他性とは、羊飼いはいろいろいるが、〈良い(まことの)〉羊飼いは〈わたしだけ〉であるということ。そして独自性とは、わたしは羊のために命を捨てるということです。しかもイエスはこの独自性を三度繰り返すのです。それはあたかも共観福音書が三度繰り返すイエスの受難告知のようです。11節、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」、14−15節、「わたしは羊のために命を捨てる」、そして17−18節、「わたしは自分でそれを捨てる」と! この「命を捨てる」という定型句でイエスは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という愛のもっとも際立った行為を言い表されたのです(15:13)。

羊のために命を捨てるイエスの愛を、自己犠牲の最たるものと解釈したのが社会福音派です。イエスが羊のために命を捨てるのは自己犠牲なのか? そのことを黙想していた時、曾野綾子が『奇跡』で描いたコルベ神父のことが思い出されました。神父は長崎で伝道し、修道院を創設したポーランド人です。第二次世界大戦下、コルベ神父はアウシュビッツに収監され、ガイオニチェックの身代わりを申し出て死にます。曽野はその場面を次のように描いています。「『私はこの中の一人と代りたいと思います』。そこにいた人々は驚きで魔術にかけられたように動けなくなった。『誰のために死ぬつもりだ。』『彼のためです。妻子があると言った人の。』それは生涯、結婚することを自ら放棄した司祭でなければ言えない独特の表現であった。……その日以来、地下の餓死室からは毎日、祈りの声が聞こえるようになった。……」

コルベ神父が身代わりを申し出る、これが自己犠牲です。三浦綾子も『塩狩峠』で長野青年の自己犠牲を描きます。羊のために命を捨てるイエスの愛は、人に道徳的な影響をもたらす自己犠牲の最たるものなのか?
ここで繰り返される「命を捨てる」(11、15、17)という句は、イザヤ53:10から取られていると解するのが一般的です。そこには次のようにあります。「彼は自らを償いの献げ物とした。」これによれば、イエスが羊のために命を捨てるのは、いわゆる自己犠牲ではなく、人類の罪を贖う犠牲としての死なのです。イザヤ書53章はそれを次のように語ります。「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた」(6)と。

イエスは良い羊飼いの譬えで、ご自分の死、すなわち十字架を語られたのです。これとの関連で注目したいのが7節以下の、「わたしは羊の門である」です。この表現は、聖所に入るために許可を求める定式から取られていると言われます。詩編24編はそれを次のように歌います。
1 地とそこに満ちるもの
世界とそこに住むものは、主のもの。
2 主は、大海の上に地の基を置き
潮の流れの上に世界を築かれた。
こう歌った後、さらにこう続けます。
3 どのような人が、主の山に上り
聖所に立つことができるのか。
4 それは、潔白な手と清い心をもつ人。
むなしいものに魂を奪われることなく、
欺くものによって誓うことをしない人。

Ⅲ.神の愛の復権

旧新約聖書全巻を貫いているのは、神の山、つまり、聖所に立つ入ることができる者など一人もいない、ということです。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」(ロマ3:23)のです。その人々に向かってイエスは「わたしは羊の門である。……わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(7、10)と言われたのです。イエスは、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている人間、つまり神の御前に立つことができない人間に豊かな命を与えるために、ご自分の命を捨てるのです! 言い換えれば、イエスは、「わたしは羊の門である」と言われることで神の御前に立ちえない者を、神の愛に生きるよう招かれたのです。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。

悔い改めて福音を信じるとは、罪を悔やむこと以上のものです。それは罪から立ち戻ること、罪と決別し、ひとりの新しい主に全霊を上げて献身することを意味します。しかし、それでも回心の核心にはまだ到達しません。悔い改めの中枢にはなお別のものがあるのです。究極のところ、悔い改めとは、神の恩恵に自分をゆだねること以外のものではないのです。神の恩恵・十字架のキリストに自分を委ねることが究極の悔い改めなのです。

黒田平治は遺稿集『キリストの足音』でそれを次のように語りました。「わたしたちは罪を是認すべきではない。罪と戦わねばならぬ。そして勝たねばならぬ。だが人は罪を犯してはならぬのにしばしばこれを犯す。ゆえにわたしたちは罪を犯さないことによって罪に勝つことは不可能である。すでに犯した罪が心を責めても、いつまでも責め続けないように神に心をおゆだねして安んじていよう。そして勝利をいただこう。これ以外に罪に勝つ方法はないからである。」

黒田さんの言う、「犯した罪が心を責めても、いつまでも責め続けないように神に心をおゆだねして安んじていよう」を文字通り体現したのが徴税人や罪人、遊女たちです。新約、特に共観福音書において、十字架のキリストという羊の門を通り、豊かな命にあずかった者たちは、徴税人や罪人です。イエスは徴税人や罪人たちと食事を共にされたのです。それは単に社会的次元の出来事ではなく、またイエスのひときわすぐれた人間性、人を差別しない心のゆたかさ、踏みつけられている人々への深い同情といったものが表現されているだけではありません。その意味は一層深い次元に及んでいます。イエスの会食はその使命と使信の表現であり(マルコ2:17)、終末的な食事、終りの時の救いの宴の先取り(マタ8:11)であり、そこではすでに今聖なる人々の共同体が目の当たりに表されているのです(マルコ2:19)。食卓を共にする形で罪人が救いの共同体に迎え入れられているのです。これは人を救う神の愛を誰の目にも最も印象的な仕方で表現しているのです。

結びに、この神の愛を高らかに歌い上げた第一ヨハネの言葉を聞いて終わりたいと思います。_愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出たもので、愛する者は、神から生まれ、神を知っています。神は、独り子を世にお遣わしなりました。 その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります!」

ここに愛がある! 「わたしたちの罪を償ういけにえ」十字架のキリストに神の愛がある! 神は、エデンの園を追われ、愛の危機の中を生きてきた人間に、御子イエス・キリストを十字架に上げることで、神の御前で、神と共に生きる命の道を開かれたのです。それを象徴的に示したのが主の晩餐です。私たちは十字架のキリストが今、ここでのこととして目の前に描き出される主の晩餐で、キリストの肉を食べ、血を飲むとき、神の愛、永遠の命を注がれるのです。キリストの肉を食べ、血を飲む者は「互いに愛し合う」者として生きるのです。精神にせよ、人間性にせよ、愛や創造力にせよ、貧困を目ざしての破滅的な下降にある現代人の魂の渇きを癒すことができるのは、ただ十字架のキリスト、神の愛だけなのです。神はイエス・キリストは十字架に上げることで、神から離れた人間の失われた愛を復権されたのです。

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