マタイ6:24-33、フィリピ3:5-10、ヨブ42:1-6
讃美歌 529
だれも、二人の主人に仕えることはできなない。……あなたがたは、神と富に仕えることはできない。……あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(6:24、32―33)
Ⅰ.ヨブへの答え
マタイが「山上の説教(垂訓)」(5−7章)としてまとめた主イエスの言葉集は、私たちキリスト者だけではなく、すべての人にとって〈命の糧〉である。しかもその言葉はどれ一つをとっても、聞く者を圧倒する。ナポレオンはギザのピラミッドを前にして圧倒され、「四千年が見おろしている!」と語ったと伝えられている。天上から降り注いだような主イエスの言葉を前にするとき、私たちは未踏峰の山を見上げるように圧倒される。きょう、私たちを圧倒する主イエスの言葉は、「だれも、二人の主人、神と富とに兼ね仕えることはできない」である。主イエスのこの言葉は、〈真の神〉から遠く離れた人間の姿を浮き彫にする。人間は古より、富や名声、地位といった人生の成功、幸福を求めて神に祈ってきたのである。そうであるのに主イエスは、「だれも、二人の主人、神と富とに兼ね仕えることはできない」と言われるのである。
このことを真正面から取り上げたのが「ヨブ記」である。ノアやダニエルと共に伝説上の義人に名を連ねるヨブ(エゼキエル14:14)は、七人の息子と三人の娘、七千匹の羊、三千頭のラクダ、五百くびきの牛、五百頭の雌ロバをもつ、「東の国一番の富豪であった」(ヨブ1:1−3)。誰もが羨む人生の成功者、それがヨブであり、しかもヨブは、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」と紹介される。このヨブの信仰を〈御利益宗教〉ではないのかと問題提起したのが、地上を巡回し、ほうぼう歩き回っていたサタンである。神がサタンに、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けていきている」と語りかけると、サタンはこう反論する。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。……ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」(1:9−11)と。
神がサタンに同意したことで、ヨブは一夜にして十人の子供と全財産を失う。その壮絶な苦しみの中で、ヨブは思いがけない言葉を口にする。
「わたしは裸で母の胎を出た。
裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられよう。」(1:21)。
わたしはこのヨブの言葉に少し違和感を感じる。ヤコブは十二人の息子の一人ヨセフが獣に食い殺されたとの報告を聞いた時、慰められることを拒み、「わたしは嘆きながら陰府に下って、わが子のもとへ行こう」(創世記37:35)と語っているからである。ヨブは十人の子供を全て失い、全財産を失う壮絶な苦しみの中で、ヤコブのように、あるいは「全詩編中最も悲しい歌」88編の詩人のように、「今、わたしに親しいのは暗闇だけです」とは言わず、
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよう。」(1:21)と言ってのけたのである。
語り手はこのヨブの言葉で、ヨブの信仰は御利益信仰ではないとしたのか。そうでないことはヨブ記本体(3章―42章6節)から明らかである。ヨブ記本体の初めに置かれた「ヨブの独白」で私たちは、サタンの思惑通り、ヨブが神への呪いを口にするのを聞くのである。
「ヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って」(3:1)言う。「わたしの生まれた日は消え失せよ。……その日は闇となれ!……暗黒と死の闇がその日を贖って取り戻すがよい」(3:3−5)と。神が「光あれ」と言って開始された創造の業を、ヨブは否定したのである。ヨブもまたヤコブのように、光のない暗闇を親しいとしたのである。
このヨブ記の主題が何であるかについては、さまざまな解釈がある。わたしは、神の義と人間の義の対決であるとの解釈に同意する。ヨブ記は、義人ヨブの義を完膚なきまでに打ち砕くのである。「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」ヨブの義が完膚なきまでに打ち砕かれて、ヨブに慰めはあるのか。心理学者ユングは、十字架のキリスト、すなわち、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」がヨブへの答えであるとした。聖霊の照明を祈り求めつつ、十字架のキリストによってヨブに答えた神に仕える術を知りたいと思う。
Ⅱ.ヤハウェか、バアルか
「ヨブは、利益もないのに神を敬うでしょうか。」このサタンの問いを聞きつつ、これは私たち日本人の信仰のあり様ではないか、との思いに捉えられた。日本語学者大野晋は『日本語をさかのぼる』でこの点を掘り下げた。日本人は何を喜びとし、何を苦しみとし、何を幸福と考えて生きていたのか、「幸福」にあたる語、サチとサキハヒの使用例を検証し、こう語る。「サキハヒとは、……植物の生産の豊穣をいう語である。……サチは、狩猟、釣魚による多収穫の幸福である。……、古代の日本人は、収穫が豊かでありさえすればそれをもって幸福と考え、それ以上の心の苦しみの救済などは考えていなかったのではないか……。」言い換えれば、日本人の大部分は、古代以来、御利益を求めて神の名を呼んできたのである。
大野氏が日本人の「信仰」について語ったことばを読みつつ、聖書の民も同じではないか、との思いに捉えられた。恩師船水衛司先生は、「旧約聖書は、宗教混淆をくり返した古代イスラエル宗教に対する一種の批判の書である」と言われた。この宗教混淆の根は、遠くイスラエルがカナンに移住した時に始まる。半遊牧民として牧草地を求めて荒れ野を生きていた人々にとって、豊穣神バアルは禁断の木の実のように魅力的であり(創世記3:6)、そして脅威となったのである。しかし、これを脅威と見るものはいなかった。カナン定着後も、ヤハウェ祭儀は、ほとんど全てが古いままであった。祭壇では香が焚かれ、祈りは唱えられた。しかし、人々が礼拝していたのはそもそもまだヤハウェだったのか。神の民イスラエルがこのような鋭い脅威を受けた時期に、エリヤが登場する。
エリヤはイスラエルの民をカルメル山に集め、「あなたがたは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるならば、主に従え。もしバアルが神であるならば、バアルに従え」(18:21)と、二者択一を迫ったのである。この問いかけは当時の人々にとっては全く驚くべきことであった。当時エリヤのように、バアル祭儀とヤハウェ信仰の不一致を見たものは誰もいなかったのである。このエリヤの問いに「民はひと言も答えなかった」(18:21)とある。それは罪責感からではなく、質問の意味が分からなかったのである。列王記はこの後、死を願うエリヤを描く(19:4)。語り手は、預言者に命を断つことを願わせることで、この世の富を求めて神の名を呼ぶ人間の闇の深さを浮き彫りにしたのである。
マタイが「山上の説教」で取り上げた主イエスの言葉、「だれも、二人の主人、神と富とに兼ね仕えることはできない」は、「ヤハウェが神か、バアルが神か」、つまり宗教混淆をくり返した古代イスラエル宗教に最終的な決着をつけるのである。
Ⅲ.神の国と神の義
ところで、宗教の世界において神の名を知ることは、第一に、力ある神との交わりのためである。第二に、それは人間に対して神の力を自分のものとし、それを自分の安全と利益のために利用するという可能性をひらく。宗教学では、宗教と呪術との区別は難しいとされる。呪術とは、「超自然的な存在にはたらきかけて、種々の現象を起こそうとする行為、それに関連する信仰の体系」である。この呪術と宗教との区別は難しいのであるが、確かなことは、宗教が呪術と化すのは神との限界意識が希薄になる時である。カルメル山上でバアルの預言者千人と対決したエリヤ物語はまさに、神との距離感・限界意識の希薄さを浮き彫りにする。バアルの預言者たちは、築いた祭壇の周りで、「大声を張り上げ、彼らのならわしに従って剣や槍で体を傷つけ、血を流すまで」(18:28)、「狂ったように叫び続けた」(29)のであるが、献げ物には何の変化もなかった。これが呪術の典型である。
神との距離感・限界意識で注目したいのが、ヨブ記本体の結びである。ヨブは嵐の中に現れた神(シナイにおける神の顕現)を見てこう叫ぶ。
「あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、
自分を退け、悔い改めます。」
この「塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」という伝統的な訳は、このときのヨブを的確に表現していない、と言った人がいる(中沢洽樹)。「塵と灰」という訳は、悲しみや懺悔を表現する語であるが、ここは「塵芥」と解すべきであると。つまり、悲しみや懺悔はこの時のヨブを的確に表現していないと。「塵芥」という語で語り手はこのときのヨブをどのように描いたのか。「塵芥」という熟語は旧約に3回しか使われない。一つは、ソドム・ゴモラのために執り成しをするアブラハムが、「塵あくたにすぎないわたしですが」(18:27)と語る場面である。
塵芥とは、人間は土の塵から造られた(創世記2:7)ものであると同時に、「汝は塵なれば塵に帰るべし」(創世記3:19)という罪に落ちた人間の存在の無意味性を意味する典型的な熟語である。「塵芥」の残る二つがヨブ記にある。一つは30:19、「汝は塵なれば塵に帰るべし」と関連した表現で、「わたしは泥の中に投げ込まれ、塵芥に等しくなってしまった」とある。
そしてもう一つが、ここ42:6である。ヨブは嵐の中に顕現された神を見て、自分を「塵芥」と認めたのである。ヨブは神との間に無限の距離があることを知ったのである。
このヨブの経験と呼応するのが、ヨブのように「律法の義については非の打ち所がない」と語ったパウロである。パウロはキリスト、しかも十字架につけられたキリストを知る前の肉の誇りを次のように語る。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころない者でした」(フィリピ3:5-6)と。これから明らかなように、主イエスを知る前のパウロは、神に仕えることを肉の誇りとして生きていたのである。
そのパウロが、「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失とみなすようになったのです。そればかりか、わたしの主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみなしています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです!」と語ったのである(3:7−9a)。
主イエスを知ったパウロのこの生き様に私たちは、主イエスが言われた「思い煩うな」を見るのである。イエス・キリストを知ったパウロの生き様には、自分の命のことで何を食べようか、何を飲もうか、また自分の体のことで何を着ようか、との思い患いは一切ない。パウロは「神の国と神の義」を求める者に大変身したのである。パウロの中にこの大転換を引き起こしたのが十字架のキリストである。
ユングは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という十字架上のキリストの叫びが、ヨブへの答えであると言った。ヨブ記の主題は、神の義と人間の義の対決である。「神の義」は十字架のキリスト(ロマ3:25)であり、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」ヨブの義は「塵芥」(30:19、42:6)である。この神の義と人間の義の間には無限の隔たりがある。この隔たりを神は、御子イエス・キリストを十字架に上げることで超えてくださったのである。
十字架のキリストが私を見下ろしている! 富に仕える幸いしか知らない塵芥の私を、十字架のキリストが見下ろし、自分の命のことで何を食べようか、何を飲もうか、また自分の体のことで何を着ようか、との思い煩う私に、「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義(すなわち十字架のキリスト)を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と言って、塵芥であるわたしを神にのみ仕える者としてくださったのである。塵に帰るしかない塵芥(わたし)に永遠の命を与えてくださったのである。永遠の命の糧、それが主の晩餐である。自分が塵芥であることを知る者は徴税人や罪人のように、「キリストの内にいる者と認められる」(フィリピ3:9)のである。十字架のキリストが私を見下ろしている! ハレルヤ!