讃美歌 271下
ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「……わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(9:11−13)
Ⅰ.福音の躓き
私たちが命と見立てた〈生ける神の言葉〉聖書は、神は〈言葉〉と〈行為〉によって世界を救うことを主題とする。きょう、私たちに開かれた御言葉、特に「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」は、世界を救う神の〈言葉〉と〈行為〉の最頂点である。神の愛は、義人ではなく、罪人に向けられる、という主イエスの言葉は、一見するとあらゆる倫理の解体である。主イエスが登場するまで、人は神との関係を倫理的行動の上に置いていた。バチが当たるという言葉が象徴する、いわゆる応報思想である。主イエスがこれをしなかったのは、人類がその歴史を費やして獲得した貴重なもの、宗教も哲学も、その他もろもろの価値も、壊してしまったのである。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」主イエスのこの言葉は激烈な抗議をファリサイ派の人々の間に呼び起こした。きょう、私たちに開かれた御言葉がそれである。主イエスが大勢の徴税人や罪人と食事をしていると、それを見たファリサイ派の人々は弟子たちに抗議する。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と。当時、徴税人は罪人の代名詞であり、家族も村八分にされた。この差別と抑圧はこの世のこの世性であると語ったがキルケゴールである。つまり、私たちが生きているこの世界から差別と抑圧はなくならないのである。そうであるのに「完全な平等を強行しようという(者がいる)、……、これはいかにも憑きものがついたようなものではないか。……ただ宗教的なもののみが永遠性の助けをかりて、〈人間−平等〉を、最後の最後まで徹底的に遂行できるのであり、それゆえに……宗教的なものが真の〈人間性〉なのである」と彼は言う(「単独者」まえがき)。
律法を規範とするユダヤ社会は、差別と抑圧に汚染しつくされていた。その社会にあって、罪人に向けられた主イエスの眼差しは慈愛に充ち、差別と抑圧で固く閉ざされていたマタイの心の闇に光が差し込んだのである。私たちがそうしたように、主イエスに光を見たマタイは立ち上がり、従う。すると主イエスは彼を自分の家に招き入れ、食事を共にしたのである。それを聞きつけて大勢の徴税人や罪人がやって来て一緒に食事をしたのである。それを見たファリサイ派の人々は激しく抗議したのである。
その抗議を受けて主イエスはお答えになる。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためであ。」それにしても聖書を命の糧としていたファリサイ派の人々は、なぜ、神の愛は、侮辱され、滅びたとされている罪人に向けられ、義人ではないという主イエスの言葉に抗議したのか。その理由は一言で言い表すことができる。ファリサイ派の人々は罪の認識を欠いていたのである。
「わたしが来たのは、……罪人を招くためである。」主イエスのこの言葉がどれほど恵みに富むものであるかは、パウロがロマ書3章9節以下で語った言葉から明らかである。パウロは「ユダヤ人もギリシア人も皆(つまり、すべての人が)罪の下にある」と言って旧約聖書を引用する。
「正しい者はいない、一人もいない。
悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。ただの一人もいない。云々」
(10b-12)と。
「正しい者はいない、一人もいない。」そうであるならば、わたしは罪人を招くために来た、という主イエスの言葉はまさに福音、良き知らせではないのか。その福音がファリサイ派の人々の躓きになったのは、彼らが罪の認識を欠いていたからである。
Ⅱ.罪を赦す権威とは?
これとの関連で注目したいのは、この直前に記された、床に寝かされたまま主イエスのもとに運ばれてきた「中風の人の癒し」の記事である(9:1−8)。主イエスは、中風の人を床に寝かせたまま連れて来た人々の信仰を見ると、中風の人に、「子よ、……あなたの罪は赦される」と言われる。するとそこにいた律法学者の一人が、主イエスを「神を冒涜する者」と心の中で断じたのである。この律法学者の心の思いを見抜かれた主イエスは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言って、中風の人を癒やされたのである。主イエスが言われる罪を赦す権威とは、十字架の権威である。主イエスはすべての人の罪を赦す使命を身に帯びて、天を引き裂いて地に降り、十字架に上げられることで、「天と地の一切の権能を授かった」(28:18)のである! この十字架の権能は罪の認識を欠いては躓きであり愚かさなのである。
言い換えれば、主イエスが十字架に上げられることで、すべてが新しくなったのである。この新しさを実感するために注目したいのは、言葉と行為で世界を救う神の歴史計画の起点である、神が土の塵から人間を形づくり、その鼻に命の息(霊)を吹き込むと、人間は生きる者になった(創世記3:7)という奇跡である。人間の肉体は神の霊(息、ルーアハ)によって生きる。それが、「人はパンだけでいきるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)ということである。ヨハネはそれを次のように語る。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない」(6:63)。この「何の役にも立たない」肉(罪)によって、神が創造したままの肉体が破壊されたのである。「取って食べてはならない、死んではいけない」という神の配慮を無視し、禁断の木の実を取って食べ、神のようになった人間は神と共にある楽園の生活を棒に振り、エデンの東で、額に汗を流して糧を得、ついには、人間がそこから取られた土、塵に帰るのである(創世記3:19)。
これが、罪の支払う報酬としての〈死を前にした人間〉の現実である。この死の世界に神は、死で終わらない生命を吹き込むために、御子イエス・キリストを世に遣わし、十字架に上げたのである。被造物において神が創造したままの肉体が破壊された後、神はイエス・キリストにおいて再び肉体の中に入られたのである。キリストは、神であることに固執せず、己をむなしうして人間の姿になり、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで低きに降られたのである。その結果、神賛美とは無縁の「地下のもの」までがイエス・キリストは主であると告白して、神に栄光を帰する人間本来の姿、「賛美する存在(ホモ・アドランス)」を取り戻したのである(フィリピ2:6−10)。
この神に栄光を帰する人間本来のあり方は、十字架のキリストを〈いま、ここで〉のこととして現在化する主の晩餐で、世の終わりまで継承されるのである(ヘブライ13:14−15)。イエス・キリストという肉体が引き裂かれた時、今度は、神は、聖礼典において「からだ」と「血」という〈型〉の中に入られたのである。聖餐式のからだと血とは、堕落した人間アダムのために新しい約束をもたらし、新しい現実を創造するのである(ボンヘッファー)。
Ⅲ.新しい世の糧
この新しい約束、新しい現実に美しい表現を与えたのが詩編23編の詩人である。詩人はこう歌い出す。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることはない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い、
魂を生き返らせてくださる。」
詩人が歌う緑の牧場に伏し、憩いの汀にたたずむ光景は、かつて神と共にあったエデンの園のそれではない。詩人はこれに続けて、「死の陰の谷を行く」と歌うのである。
詩人はいま、「死の陰の谷」にいるのである。「死の陰の谷」、陰府とは、神不在の場所である。詩人はその陰府で、「わたしと共にいる」神を見るのである。それは、いったい、どういうことか。そのことについて一つの示唆を与えているのが詩編139編の詩人である。
「どこに行けばあなたの霊を離れることができましょうか。
どこに逃れれば、御顔を避けることができるでしょうか。……
陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます」
(7―8)。
罪を犯したアダムとエバが神を避けて隠れたように(創世記3:10)、詩人は、陰府に隠れたのである。ところがそこにも神をおられたというのである。
詩編23編の詩人も、「死の陰の谷を行く」が暗示しているように、罪を知り、神の御顔を避けようとしたのである。言い換えれば、深き淵より、声の限り神に向かって叫んだのである。そしてこの人は139編の詩人のように、そこで神を見たのである! いったい、この人たちが見た陰府にもいる神とは何ものか? それは十字架のキリストをおいて他にない。モーセの律法、預言者の書がそうであるように、詩編の詩人たちも主イエスについて語ったのである(ルカ24:44)。犯した罪の重荷に苦しみ、死の陰の谷を生きる詩人を、「緑の牧場に伏させ、憩いのみぎわに伴われる」神は十字架のキリストをおいて他にない。
詩人はそれを次のように言い表した。
「わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。……
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う」と。
マタイが、ファリサイ派の激烈な抗議を前にして、徴税人や罪人と食事を共にする主イエスで描いのはまさにこれではないか。
「わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。……
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う」のである。
それが「わたしが来たのは……罪人を招くためである」の真意である。差別と抑圧の支配する世界、すなわち死を前にした詩人を緑の牧場に伏させ、憩いの汀にたたずませる牧者は、十字架のキリストなのである。
この罪人たちの祝宴を私たちは、主イエスが十字架に上げられる前夜、「わたしを記念してこのように行いなさい」と定められた聖晩餐で世の終わりまで祝うのである。イエス・キリストという肉体が引き裂かれた時、今度は神は聖礼典において「からだ」と「血」という〈かたち〉の中に入って行く。聖餐式のからだと血とは、堕落した人間アダムのために新しい約束をもたらし、新しい現実を創造するのである。主イエスが徴税人や罪人たちと共にした食事こそ、新しい現実なのである。
この新しい現実をマタイは、この後に置かれた「断食をめぐる問答」で描く。ヨハネの弟子たちが主イエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食をしているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と問うと、主イエスは婚礼の譬えで_婚礼は新しい世の象徴である_答えられる。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができようか」と。花婿なるわたしが今、ここにいる。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである! 主イエスが徴税人や罪人と食事を共にする「今は、恵みの時、今こそ、救いの日」(Ⅱコリント6:2)なのである。
キリストの肉を食べ、血を飲む終末的な食事、すなわち新しいぶどう酒は、古い皮袋を破壊するのである! 食卓を共にする形で罪人が救いの共同体に迎え入れられたのである! 十字架のキリストと共に、古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなったのである! キリスト者はこの新しい現実を世の終わりまで、主の晩餐で生きるのである。ハレルヤ!