2025/11/23 降誕前第5主日  「最後の審判」

マタイ25:31-46、Ⅰテサロニケ4:15-18、創世記22:1-14
讃美歌 363

人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められ、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らを分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。(25:31−34)

Ⅰ.反キリスト的譬え
きょう、私たちに開かれた〈生ける神の言葉〉は、世の終わりに行われる「最後の審判」を主題としています。主の到来を待つアドベントから始まる神の救いの歴史は、きょう、この礼拝で完成するのです。そのとき、どのような光景が私たちの目の前に繰り広げられるのか? 主イエスはそれを譬えでお示しになりました。栄光に輝く人の子が天使たちを従えて玉座に着き、その前で、すべての国 民が生前の業に従って、一人は右に、一人は左に分けられ、右の者たちには「永遠の命」が、左の者たちには「永遠の罰」が宣告されるというのです。
ミケランジェロは主イエスのこの譬えを題材にして、システィナ礼拝堂の祭壇画として『最後の審判』を描きました。つまり、礼拝者は終わりの日の裁きを目の前に見ながら神を礼拝したのです。それは私たちが主の晩餐で、目の前に描き出される十字架のキリストを見ながら神を礼拝するのと同じです。また、トルストイはこの譬えを題材にして、『靴屋のマルチン―愛あるところに神もおられる』という短編を創作しました。それはクリスマスシーズンによく取り上げられる心温まる作品です。
主イエスは世の終わりに裁きがあることを、いくつかの譬えで語っています。例えば、「百人隊長の僕の癒し」では、その結びで、東や西から大勢の人が来て、天国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着くが、御国の子らは、外の暗闇に追い出され、そこで泣きわめき、歯軋りをすると語り(8:11−12)、また「毒麦の譬え」(13:24−30) では刈り入れの時、つまり世の終わりに麦と毒麦が選分けられると語りました。この譬えに影響されて、マタイは「魚網の譬え」(13:49−50)の結びで世の終わりには、正しい人々の中から悪い者が選り分けられるとしました。そしてマタイが23章から25章にまとめた終末に関する主イエスの言葉集では、忠実な僕と悪い僕のが選分けがあると語られるのです(24:51)。きょう、私たちに開かれた羊と山羊に分けられる譬えは、こうした最後の審判の集大成の観があります。
ところで、世の終わりに裁きがあるという終末論、しかも最後の審判の基準は、人の業であるとするこの譬えは、一見すると、それがどれほど心温まる物語に仕上げられたとしても、神の御子イエス・キリストが十字架で死んだこと、つまり罪の贖いが無意味であるとする、きわめて反キリスト的内容です。いったい、マタイはこの譬えにどのような「隠されている、神秘としての神の知恵」を読み取ったのでしょうか。ちなみに、新約聖書に記録された主の再臨に関する最も古い記述であるテサロニケ第一の手紙には、最後の審判については一言も語られていません。パウロは「主の言葉に基づいて次のことを伝えます」と言って、まるで聖餐制定句を導入した、「わたしは主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである」(Ⅰコリント11:23)を彷彿とさせる言葉で、キリストの再臨において起こる奇跡を次のように語ります。「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」(4:15−17b)と。
すでに見たように、確かに主イエスは多くの譬えで、終わりの日の審きについて語っています。問題は、その集大成とも言える譬えが、最後の審判の基準が人間の業にあるという、一見、神の御子イエス・キリストが十字架で死んだことを無意味とする、きわめて反キリスト的内容であることですいったい、マタイはこのような譬えで読者に何を伝えようとしたのでしょうか。聖霊の照明を祈り求めつつ、御言葉に聞き、死人の甦り、永遠の命に与る希望を確かにしたいと思います。

Ⅱ.ただ恵みによって
私は、マタイがこの譬えから聞き取った、「隠されていた、神秘としての神の知恵」を知る一つの手がかりは、福音書の構造にあると考えます。婦人会では今年度、「マタイによる福音書」を学んでいますが、その学びの初めに、マタイ福音書の構成を取り上げました。マタイ福音書は、13章の「神の国の秘義」に関する垂訓を中心に、モーセ五書に準えた主イエスの五つの言葉集(垂訓)を主イエスの業と交互に配置する囲い込みの構造になっています。
・1−4章 出来事の話   誕生、避難、公現
・5−7章 第一垂訓   幸い、神の国の義
・8−9章 出来事の話   奇跡―権威のしるし
・10章 第二垂訓   神の国の宣教者
・11−12章 出来事の話   「この時代」の不信仰
▶️13章 第三垂訓   神の国の秘義
・14−17章 出来事の話   弟子の信仰
・18章 第四垂訓   神の国の共同体
・19−20章 出来事の話   質問―権威についての論争
・23−25章 第五垂訓   不幸、神の国の裁き
・26−28章 出来事の話   受難、死、復活
それによりますと、23−25章にまとめられた第五の垂訓は、第一の垂訓、5−7章の山上の説教と対をなしています。5−7章の山上の説教は、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」という慰めに満ちた言葉で始まるのですが、23−25章の言葉集は、律法学者やファリサイ派への「災い」から始まります。この対応関係は、山上の説教の結びの言葉と 最後の審判について語られた譬えにも見られます。マタイは山上の説教の結びに次のような主イエスの言葉を置いています。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るはわけではない。わたしの父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡をいろいろ行ったではありませんか』というであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」(27:21−23)と。主イエスは、御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行った者と「天の父の御心を行う者」を峻別されたのです。
主イエスは十二弟子を遣わすに当たり、「病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病人を清め、悪霊を追い出す」権能を授けられました(10:8)。それなのに、それは「天の父の御心を行う」ことではないと言われるのです。主イエスの言われる「天の父の御心を行う」とは、どういうことか? マタイは最後の審判の譬えでそれに答えているのです。「永遠の命」に与る「正しい人たち」で際立っているのは、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し裸の時に着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」という王の言葉に対して、「いつ、そのようなことをしたでしょうか」という答えです。この正しい人たちの応答には、「主よ、わたしは御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行った」という「わたし」は一切ないのです。一見すると、キリストの贖いを無意味にするような人間の業が最後の審判の基準であるかに見えるこの譬えは、実は、人間の業による救いを根底から否定しているのです。それは主イエスが山上の説教で、施しについて語られた、右の手がしていることを左の手に知らせるな(6:3)と同じです。右の手がしていることを左の手に知らせるなとは、祈りや断食も含めて、人間がなしする最高の業、宗教的行為に報いはない!ということです。主の御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡をいろいろ行うことに、報いはないのです。それを端的に言い表したのが、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(10:8)です。私たちが主の御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行うのは、ただ神の恵み、恩寵によるのであり、わたしの業ではないのです。もしわたしに愛の業があるとしたら、それはただ神の憐れみによるのです。

Ⅲ.神の試み
一見、人間の業が最後の審判の基準であるという、反キリスト的内容を持つこの譬えについて黙想していた時、創世記22章、神がアブラハムに、あなたの愛する子、イサクを燔祭としてささげなさい、と命じられた記事が思い浮かびました。それは深い眠りに落ちたアブラハムを襲った「恐ろしい大いなる暗黒」でした。 神は、アブラハムの夢に現れ、「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを……焼き尽くす献げ物としてささげない」と命じられたのです。
アブラハムが「信仰の父」と言われたのは、その一生が平穏無事であり、なんの悩みも不幸もなかったというのではありません。アブラハムが、「すべての民の祝福の源」にするとの神の召しに答えて「行き先も知らないで」旅だったのは75歳の時でした(創世記12:4)。しかし、子孫を星の数ほどに増やすという神の約束は実現せず、3年が過ぎ、5年が過ぎ、10年が過ぎた時、アブラハムは神の約束を自らの手で実現しようと、エジプトの女奴隷ハガルとの間に息子イシュマエルをもうけます。しかし、アブラハムのこの行為は約束を果たす神への不信であり、以後神は13年の間アブラハムに沈黙します。
神が再びアブラハムに語りかけたのは、アブラハム99歳の時でした。来年の今頃、妻サラとの間に男の子が生まれると神は言われたのです。それを聞いたとき、アブラハムは「笑った」(17:17)とあります。北森嘉蔵先生は、「およそ人間がもたらした笑いでこのときのアブラハムの笑いほどものすごいものはないであろう」と言われました(『聖書百話』)。イサク(彼は笑う)(17:19)の名は、このアブラハムの笑いから取られたのです。このものすごい笑い、不信を越えて、神の祝福は現実となったのです。それなのに今、神は、その「あなたの子、あなたの愛する独り子」を「燔祭」、つまり焼き尽くす供物として捧げよと言われたのです。それはアブラハムを通して、すべての民を祝福するという神の救いの計画を、神が自らの手で破棄するということです。それは人間の業が最後の審判の基準であるとしてキリストの十字架の死を無意味なものとするのと同じです。
いったい、語り手はこのような壮絶な物語で何を描いたのか。語り手はこの物語を、「神はアブラハムを試された」という言葉で導入します。しかし、これが神の試みであると知らないアブラハムは淡々と神の命令に従い、神が示された山でイサクを燔祭として献げるために刃物を振り上げたまさにその瞬間、御使いが現れ、「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」(12)と言って、イサクに代わる雄羊を示したのです(13)。アブラハムは神の試みに合格したのです。このときのアブラハムを最もよく表現したのが、「死人を生かし、無から有を呼び出され神を信じた」(ロマ4:17)というパウロの言葉です。
語り手はこの神の試みが行われた山を、「ヤーウェ・イルエ(主は答えてくださる)」と名付け、そこは「主の山に、備えあり(イエラレ)」と呼ばれている、と結びまし。わたしは、最後の審判について語られた主イエスの譬えを読み解く鍵がこのイサク奉献に関する「神の試み」であると考えます。つまり、「主の山に、備えあり(イエラレ)」です。なぜそう考えるかといえば、主イエスは最後の審判の譬えを、世の終わりに裁きがあるという当時の人々の考えを題材にしていることです。主イエスは譬えを用いて語られることについて、「あなたがたには天の国の秘密を悟ることは許されているが、あの人たち(外の人たち)には許されていない」(13:11)と言われました。外の人たちは最後の審判の譬えを聞いて、天の国に入る基準はトルストイが「靴屋のマルチン」で描いように、人間の行為によると受け取るかもしれない。しかし主の弟子たちは、人が救われるのは、人間の業によるのではなく、神の独り子イエス・キリストが十字架の死なれた!ことによる以外にないと知っているのです。ナザレのイエスが十字架に上げられたゴルゴダの丘こそ、文字通り「主の山に、備え」なのです。マタイはこのあと26−28章でこの神の備え、つまりキリストの受難と死と復活の出来事を描くのです。
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。」
十字架に上げられた神、イエス・キリストは、死人を生かし、無から有を呼び出される神なのです!

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