讃美歌 537
さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。……あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(13:31、34)
Ⅰ.イエスの愛
きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言は、ヨハネ福音書13章31節以下です。ヨハネはこの段落をまことに印象深い言葉で導入します。「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。『今や、人の子は栄光を受けた……』」と。ヨハネはイエスの栄光に何を見たのでこのように語ったのか?
この言葉の伏線となるのが、過越祭の前に行われた最後の晩餐です。イエスはその席で心を騒がせ、厳かに言われます。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは誰のことか察しかねて、互いに顔を見合わせます。すると愛弟子が、「主よ、それはだれのことですか」と問います。イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と言い、浸したパン切れを取り、「イスカリオテのシモンの子ユダ」に与えたのです。ヨハネは「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った」と記します。こうしてユダは一切れのパンを握り締め、夜の闇の中に出て行ったのです。その時イエスは、「今や、人の子は栄光を受けた」と宣言されたのです。
それにしても、ユダが夜の闇の中で出て行ったとき、「人の子は栄光を受けた」とはどういうことでしょうか? 人の子が栄光を受けるのには、もっとふさわしい時があったのではないか。例えば、五つのパンと二匹の魚で五千人の人を満腹させた時です。満腹した人々はイエスを「世に来られる預言者」と信じ、王にしようとします。その人々にイエスは、「わたしは天から降って来たパンである。……わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と言われます。これを聞くと多くの弟子たちは、「だれが、こんな話を聞いていられようか」と言ってイエスから離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなったのです。離れ去る弟子たちを見つめながらイエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われます。するとシモン・ペトロが、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。永遠の命の言葉を持っておられのはあなたです。あなたこそ神の聖者です」と答えます。
人の子が栄光を受けるとは、まさにこのような時ではないでしょうか。しかし、ペトロのこの言葉を聞いたイエスの口から出たのは、イスカリオテのユダの裏切りを暗示する言葉だったのです。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ!」こうして今、悪魔ユダが一切れのパンを握り締め、夜の闇の中へ出て行ったのです。するとイエスは、「今や、人の子は栄光を受けた」と宣言されたのです。ヨハネが描くこの場面はまこと象徴的です。
この象徴的な出来事の中で、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛しあうならば、それによってあなたがたはわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」という「新しい掟」が語られたのです。このイエスが弟子たちに与えた新しい掟、互いに愛し合う愛は異彩を放ちます。イエスは自分が弟子たちを愛した愛で、弟子たちが愛し合うことを求めたのです。いったい、だれが、イエスの愛で他者を愛することができるでしょうか。この愛は、私たちの実行可能性を超絶しています。ヨハネは弟子たちに対するイエスの愛を次のように語ります。13:1、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた(極みまで愛された)。」この極みまで愛を誰の目にも最も印象的に示したのが十字架のキリストです。
Ⅱ.夢を解くヨセフ
十字架のキリスト、それが、ヨハネが語るイエスの「極みまでの愛」です。イエスはその愛で弟子たちに、互いに愛し合いなさいと言われたのです。ヨハネが伝えるこの新しい掟と軌を一にしているのが、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)が伝える、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」です。この言葉は、ペトロが「サタン、退け」と叱責された後に語られていることから、ヨハネがここで描く光景と構造的に重なります。イエスが弟子たちに求めた自分の十字架を背負ってとは、いわゆる殉教の死でないことは、ルカが「日々、自分の十字架を背負って」としたことから明らかです。わたしは、ルカが表現した「日々、自分の十字架を背負う」とは、イエスが語った新しい掟、「互いに愛し合う」の言い換えであると考えます。つまりキリスト者は、自分の愛で生きるのではなく、イエスが私を愛された愛を生きるのです。パウロはそれを、「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きている」(ガラテヤ2:20)と語りました。
わたしの内に生きるキリスト、その恵みの豊かさを言い表したのが「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛しあうならば、それによってあなたがたはわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」なのです。「互いに愛しあうならば、それによってあなたがたはわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」この約束は、イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入城された時にも語られていました。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる」と。イエスの言う「わたしのいるところ」とは、父なる神のみもと、つまり天の領域です。イエスの愛で互いに愛し合う者たちは、この世にあってすでに天の領域にいるのです。
それはどのような経験なのでしょうか? そのことを黙想していた時、創世記37章以下の「ヨセフ物語」、特に45章、ヨセフが兄弟たちに語った言葉、「わたしはあなたがたがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」に導かれました。
この言葉の意味をより深く味わうために、ヨセフの生涯を俯瞰したいと思います。ヨセフはヤコブの十二人の息子の11番目、つまり歳をとってからの子供であり、ヤコブはヨセフを寵愛しました。兄たちが朝から晩まで忙しく働いていたとき、ヨセフは父ヤコブが用意した裾の長い晴れ着を着て、家に止まっていたのです。父に溺愛されるヨセフを兄たちは憎み、穏やかに話すことができませんでした。そんなある日、ヨセフに対する兄たちの憎しみが殺意に代わる事件が起きます。ヨセフは、兄たちが自分に跪く夢を見と語ったのです。結果、兄たちはヨセフをますます憎み、そして憎しみは殺意に変わるのです。兄たちに殺されそうになったヨセフは、九死に一生を得て、エジプトに奴隷として売られ、囚人の世話をする最底辺の生活を送ります。そんな折、王の給仕役と料理役が過ちを犯し、ヨセフが囚人を世話していた牢獄に送られて来ます。彼らはある夜、これから自分に起こる夢を見ます。ヨセフがその夢を解き明かすと、その通り、料理役の長は断罪され、給仕役の長は職に復帰します。
そんなことがあって数年後、王が夢を見ます。しかし、王の夢を解き明かすことができる者は誰もいませんでした。そのとき、給仕役の長はヨセフのことを思い出し、ヨセフが王の夢を解き明かします。王が見た夢は、7年の大豊作の後に7年の大凶作があるという予知夢で、ヨセフは7年の大豊作の時、凶作に備えて穀物を蓄えるよう王に進言します。結果、ヨセフはエジプトの宰相の上り詰めたのです。兄たちから殺されそうになり、九死に一生を得てエジプトに売られたのが17歳、そしてエジプトの宰相に上り詰めたのが30歳、つまりヨセフは13年もの間、囚人の世話をするという最底辺を生きたのです。
ドストエフスキーは1850年の正月から4年間監獄にいました。その経験を記した『死の家の記録』にこんな一節があります。「ほとんどの囚人たちが堕落しきって、おそろしく卑屈になっていた。……それは地獄というか、まっくらやみの世界……中傷・奸計・陰口・嫉妬・口喧嘩・憎悪がいつも前面にうきだして」いる世界であると。ヨセフはこの地獄を13年、しかも青春の真っ只中を生きたのです。
Ⅲ.悪を善に変える神
ヨセフが解き明かした通り、7年の大豊作の後に大飢饉が起きます。備えのなかった国々からエジプトに穀物を買い付けに来る人々の中に、ヨセフの兄弟たちがいたのです。ヨセフを殺そうとした兄たちが今、目の前にいるのです。ヨセフはそれが兄たちであるとすぐに気づきますが、兄たちは目の前に立つエジプトの宰相がヨセフだとは気づきません。ヨセフは兄たちを、エジプトを探るスパイだと断罪します。言われのない罪を糾弾された兄たちは、このことが起こったのは自分たちがヨセフにしたことの報いであると話し合います。
創世記45章は、兄たちがエジプトに穀物を買いに来た二度目の時です。ここで初めてヨセフは兄たちに正体を明かし、こう語りかけたのです。「わたしはあなたがたがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」同じ言葉がヨセフ物語の結び、つまり創世記の結びでも語られます。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」(50:19b−20)。
自分を殺そうとした兄たちに語られたこのヨセフの言葉は、エジプトでの苦難で練り清められたヨセフの人格から出た言葉ではなく、多くの民の命を救う神のご計画に対するヨセフの信仰から出た言葉です。神は人間の悪の企みを、多くの人の命を救うための善に変えられる! このヨセフの言葉は、夜の闇に消えたユダに対して語られたイエスの言葉、「今や、人の子は栄光を受けた」で頂点に達します。神が人間の悪の企みを善に変えることは、御子イエス・キリストを十字架に上げることで起こるのです! イエスは、ユダの裏切り(悪)によって十字架に上げられることで、すべての人を自分のところ、すなわち天の領域に引き入れる(善)のです。
そしてイエスは、この十字架における極みまでの愛で、弟子たちが互いに愛し合うことを求められたのです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛しあうならば、それによってあなたがたはわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」十字架のキリストへの信仰に生きる弟子たちは、イエスの極みまでの愛を生きるのです!
エフェソ書の著者はこの幸いを次のように語ります。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知恵をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれた豊かさのすべてに預かり、それによって満たされるように(、すなわち天の領域を生きるように)」。
神は、その豊かな栄光に従い、その霊により、信仰によってわたしたちの内にキリストを住まわせ、わたしたちが愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださったのです。そしてキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知恵をはるかに超えるこの愛を知るようになり、ついには、神の満ちあふれた豊かさのすべてに預かる者としてくださったのです。互いに愛し合うイエスの愛を生きるキリスト者は、世にあって天の領域を生きるのです!
この素晴らしい恵みの言葉が、最後の晩餐、つまり主の晩餐で語られた意味は大きい。ルカはそれをペンテコステの結びで次のように描きました。「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた」(2:46−47)と。
結びに、シモーヌ・ヴェイユがナチス・ドイツの迫害を逃れ、アメリカに亡命中にこんな言葉をきいて終わりたいと思います。_神の〈愛〉が内にいきいきと生きている人々がこの世に存在するということを除いては、神は、この世に不在なのである。だからその人々は、憐れみによってこの世にあらしめられているのにちがいない。その人々が抱く憐れみこそは、この世における神の目に見える現存である。_キリストの愛を生きる聖晩餐を守る群れ・教会でありたいと願います。