2026/5/3 復活節第5主日  「満ち溢れる愛の喜び」

ヨハネ15:1-11、Ⅰコリント11:23-26、エゼキエル36:22-27
讃美歌 249

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。……わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもそのひとにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。(15:1、5)

Ⅰ. 神の隠微生

きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言は、ヨハネ福音書15章1節以下、イエスは真のぶどうの木、父は農夫、そして私たちは枝であるという譬えです。イエスは、ぶどう園で働く農夫たちが収穫のために枝の手入れをしているのをご覧になり、神の国に譬えられたのです。イエスは譬えの題材を人々の日常から取られたました。イエスの譬えは単純明快で、子供にも理解できるものです。にもかかわらず、その意味を探索するという困難な問題に私たちを直面させます。研究者によれば、イエスの死後十年のうちに、イエスが語られた単純な譬えの言葉の中に、より深い意味を見出そうとする素朴な願いから、譬えは寓喩として取り扱われ始めたのです。ぶどうの木とその枝の譬えは、譬えの部分がなく、わたしはまことのぶどうの木、あなたがたは枝、わたしの父は農夫である、と、直ちに寓喩的に解釈された珍しいテキストです。これはヨハネが寓喩的解釈をどれほど重く見ていたかをよく示しています。ヨハネはこの寓喩的解釈で、譬えの部分を完全に吸収してしまったのです。聖霊の照明を祈り求めつつ、ヨハネが真のぶどうの木の寓喩で開示した譬え本来の意味を知りたいと思います。

まず注目したいのは、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」です。ヨハネは、ぶどうの木につながっていながら、実を結ばない枝は父が取り除かれるという真の厳しい言葉から語り出す。この言葉を黙想していたとき、イザヤが語る「ぶどう畑の歌」に導かれました。「わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑をもっていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」

イザヤはこのぶどう畑の歌で、神がイスラエルに行った救いの計画的は、比類のない失敗であったと語ったのです。その失敗の原因をイザヤは1:21で次のように語ります。「どうして、遊女になってしまったのか。忠実であった町が。そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに」(Ⅰ:21)。イザヤは法の荒廃に、イスラエルに対する神の歴史計画の失敗を見たのです。「ぶどう畑の歌」は神の失敗をそのままに写しだしたのです。7節に「主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫喚(ツェアカ)」とあります。イスラエルに対する神の歴史行為は、神の言葉に対するイスラエルの不従順、つまり法の荒廃ゆえに失敗したのです。

イスラエルに対する神の歴史計画、それは神がイスラエルをご自分の民として選び、イスラエルによって栄光を受けるということです。イスラエルが行う業において、救いもしくや審きが下るということ、これは神が御自分を世界から隠すという使信に他なりません。神が御自分を世界から隠すことは、預言者によってより謎を深めて表現されます。例えばイザヤは「ぶどう畑の歌」で、まるで聖なる神の威厳を嘲るような比喩、つまり成功することのない愛人(5:1−7)として神を描いたのです。神の歴史計画は完全に失敗した!と、敬虔な感情を傷つけながら、神について語りえたということ、否、本来の神を明らかにしようとするならば、そうせざるをえなかったこと、それが、神がイスラエルのために深く下りてきたということなのです。

Ⅱ.言による聖化

新約の救済の出来事も、神が低きに降られたことにあります。新約における神の隠微性は、旧約を遥かに凌駕しています。神はイエスにおいてその力と栄光をかなぐり捨てたのです。律法学者やファリサイ派から「徴税人や罪人の仲間」と揶揄されるほど、イエスは人々の中で、無力と辱めという覆いをかけてその業を行われたのです。それは、イエスがこの譬えで繰り返す、「わたしにつながっていなさい」を読み解く鍵です。寄らば大樹の陰と言われます。イエスはご自分をその対極、ぶどうの木に譬えられたのです。無力と辱めのヴェールに覆われたイエスに「つながる」とはどういうことか? イエスは盲人の目を開き、足の不自由な人を歩かせ、らい病人を清め、耳の聞こえない人に聴力を与え、死人を生かし、貧しい人に福音を語られました。(マタイ11:5)。これらはすべて古代オリエント世界において、悩みも嘆きも痛苦も存在しない救いの時を示す最古からの言い廻しです。イエスはこの素晴らしい力ある業、権威ある言葉を、「わたしに躓かない者は幸いである」(11:6)と結ばれたのです。イエスに躓くとは、エマオ途上の二人の弟子が端的に示したように、十字架に対する躓きです。つまり、イエスに「つながる」とは、人間の望みがすべて尽きる十字架のキリストに望みを置くことなのです。

肉の目には神の歴史計画の完全な失敗、十字架のキリストに希望がある! イエスはそれを次のように語ります。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」イエスの言葉を内に宿し、十字架のキリストにつながる者は何を願うのか? それはただ一つ、キリストの愛を生きることです。イエスは私たちを極みまで愛されたのです(13:1)。このキリストの愛を生きるエネルギーが、私たちの内に宿るイエスの言葉です。イエスは言われます。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」(3)と。

イエスが語った言葉で既に清くなっている、とは、どういうことか? そのことについて一つの示唆を与えているのがエゼキエル書36章です。エゼキエル以上に、神に対するイスラエルの不誠実、神の愛に対する鈍感さ、ほんの僅かの服従の可能性さえないと語った預言者いないといわれます。36章は、そのイスラエルに対する神の救いを語るのです。バビロニアによって「町は陥落した」(33:21)という知らせを耳にした時からエゼキエルは語り口を変えた、といわれます。国家の滅亡という破局の訪れの日に、エゼキエルは、新しい〈民〉の形成(24−28)と新しい国土の形成(29−32)を語り出すのです。しかもその神学的根拠として、神の「聖なる名」(22−23)を挙げるのです。エゼキエルはイスラエルの回復の根拠として、神の慈しみ、憐れみ、真実、救い、愛といった神学用語を用いないのです。「わが聖なる名のために」、つまり〈神の神たることのゆえに〉というのです。

神はただ神たることのゆえに「行動する。」(22)。それを端的にいたのが24−27節に出る11個の動詞です。24節、神は諸国民の間に追いやられたイスラエルを「取り出し」「集め」、約束の地に「導き入れる」のです。25節、神は偶像に汚れたイスラエルに清い水を「振りかけて」、「清める」のです。この「振りかける」という動詞の原語の意味は出エジプト24:8、つまりシナイ契約が結ばれるとき、犠牲の雄牛の血を祭壇と民に振りかける、です。そして26節、神は頑なな石の心を「除き」、新しい心、新しい霊、肉の心を「与える、与える、与える」のです。

註解者はここには三重の形成があると説明します。25節は外的、肉体的清め、26節は内側の更新、そして27節の神の霊の贈与です。真に新しいとはここまで徹底すべきものであり、それゆえ創造となるのです。この神の烈しい独占的な熱心さ(39:25)により、神の戒めに不従順なイスラエルは、神の戒めを守ることのできる状態へと再創造されるのです。

Ⅲ.実を結ぶ枝

ヨハネは、ぶどうの木につながる枝の譬えに、真に新しいことを創造する神の独占的熱心さ、〈神の神たること〉を読み取ったのではないか。イエスはそれを次のよう言われます。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている!」(3、9)。イエスが語った言葉が私たちの罪、咎、汚れを清める。それはエゼキエルが語った、清い水を振りかけて汚れを清める行為を遥かに超えています。それとの関連で注目したいのはパンの奇跡物語です。五つのパンと二匹の魚で満腹した人々は、イエスを「世に来られる預言者」(6:14)と信じ、王にしようとします(15)。その人々にイエスは、「わたしは天から下ってきたパンである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る」(41、54)と語ります。これを聞くと多くの弟子たちは、「実にひどい話だ。誰が、こんな話をきいていられようか」と言って離れ去り、イエスと共に歩まなくなったのです。離れ去る弟子たちを見つめながらイエスは十二人に言われます。「あなたがたも離れて行きたいか」と。するとペトロが答えます。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者です!」イエスは〈永遠の命の言葉〉を持つ〈神の聖者〉である! これを聞くとイエスは、ユダの裏切りを暗示する言葉を語るのです。つまりイエスが語った永遠の命の言葉とは〈十字架の言葉〉であり、それが私たちを清くするのです!

イエスはそれを次のように言われました。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」なんという幸い、なんという喜びか。父がイエスを愛されたとは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(3:16)ということ、そして「わたしもあなたがたを愛した」とは、わたしたちを「極みまで愛し抜かれた」(13:1)ということです。この神の独占的・圧倒的な愛にとどまる者は、イエスの掟を守るのです。ここでいう愛にとどまるとは、いわゆる神秘的な事柄ではなく、ある範囲または領域にとどまるということです。より事柄に即して言えば、礼拝の場に身を置くことです。「主の日」は、神のために聖別された日であり、神の安息にとどまる日です。礼拝者は現実に存在する領域に入るように、神の安息の中へ自覚をもって入るのです。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者です!」

ヨハネは、ぶどう木につながる枝の譬えを次のように結びます。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」この満たされる喜びを印象的に描いのが、ルカが伝える迷い出た羊の譬えです。ルカは迷い出た一匹の羊の譬えを次のように結びます。「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(15:7)。この天の領域を満たす喜びを生きる、それがイエスにつながる枝が結ぶ実です。ヨハネはそれを十二人への復活顕現物語で描きます。ユダヤ人を恐れ、部屋の戸に鍵をかけていた弟子たちの真ん中に、十字架の御傷が刻まれた復活者イエスが現れると、弟子たちは、主を見て喜びます。その喜ぶ弟子たちにイエスは息を吹きかけてこう言われたのです。「聖霊を受けなさい。_わたしはお前たちの中に新しい心を与え、新しい霊を置く。_だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」この言葉の意味は、真のぶどうの木につながる枝であるあなたがたには、赦さない罪があってはならない、ということです。

イエスは十字架に上げられることで、すべての人の罪を赦されたのです。そのイエスにつながる弟子たちは、罪の赦しという実を結ぶのです。際限のない復讐の嵐が吹き荒れる世界にあって、罪の赦しを生きる、互いに愛し合う共同体が存在するということは奇跡です! この奇跡を誰の目にも最も印象的に描いのが聖晩餐を守る群れ、教会です。イエスは言われます。「これは、わたしの体である。これは、わたしの血である。」聖晩餐において差し出されるキリストの肉と血によって私たちはイエスの命を頂くのです。聖霊を注がれて、キリスト肉を食べ、血を飲む私たちは、主が来られる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのです! 「世界宣教に乗り出した時ほどキリスト教がキリスト教らしく、また、イエスと一体化しており、未来への途上にあったことはなかった」(ベン・マイヤー)。

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