讃美歌 Ⅱ96
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、また、しばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるは、何のことだろう。」(16:16−17)
Ⅰ.独特の高揚
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」(16)。これが、きょう、私たちに開かれた〈生ける神の言葉〉です。イエスは弟子たちとの別れが目前に迫った最後の晩餐で、世に残る弟子たちに多くのことを話されました。それがここでは弟子たちとの対話になるのです。「それによって独特な高揚が与えられる」と解説した人がいます。イエスはあたかも〈遺言〉を語るように弟子たちに語りかけたのです。死を前にして語る〈遺言〉は残される者にとって特別の重みを持ちます。そのことを黙想していた時、ヤコブが十二人の息子たちに語った遺言が思い起こされました。死を前にしてヤコブは息子たちにこう語りかけたのです。「間もなくわたしは、先祖の列に加えられる。わたしをヘト人エフロンの畑にある洞窟に、先祖たちと共に葬ってほしい。そこに、アブラハムと妻サラが葬られている。そこに、イサクと妻リベカも葬られている。そこに、わたしはレアを葬った」と。アブラハムが妻サラを葬るために買い取ったわずかな土地にあった洞窟が、神の約束の実現を待ち望む希望の根拠となったのです。
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる!」イエスはこの遺言で弟子たちにどのような希望を語られたのでしょうか。ちなみに、ここで語られた「しばらくすると云々」という言葉は、17節と19節にも繰り返されていることから、重要なテーマであることがわかります。その重要なテーマの意味を弟子たちは理解しなかったのです。18節、弟子たちは「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない」と言ったのです。なぜ弟子たちはこの言葉を理解できなかったのか? それは12節に、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(12)とあるように、この時はまだ、真理の霊が遣わされていなかったのです。聖霊によらなければ、誰も、イエスの言葉を理解できないのです。
イエスは言われます。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(ヨハネ6:63)と。この「霊であり、命である」イエスの言葉は、〈十字架の言葉〉です。つまり、「しばらくするとわたしを見なくなる」と、「またしばらくすると、わたしを見るようになる」の間には、キリストの十字架が立っているのです! 十字架の言葉は聖霊によらなければ、愚かであり、躓きなのです。
ところでヨハネは、イエスが十字架に上げられることを「父のもとに行く」(16:5)という言葉で表現しました。それを印象的に描いのが最後の晩餐を導入する13章1節、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく(極みまで)愛しぬかれた」です。イエスは父のもとに行く! ヨハネは、イエスが父のもとから世に遣わされて来たことを、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された!」(3:16)と証言しました。そして今、世を去って父のもとに行くイエスを、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた」と語るのです。これから分かるように、愛は、最後の晩餐の主題であるだけではなく、ヨハネ福音書を貫く主題なのです。しかもヨハネは、この愛を弟子たちは理解しなかったと言うのです。聖霊の照明を祈り求めつつ、独特の高揚を与える十字架のキリストを味わいたいと思います。
Ⅱ.罪の認識の欠如
「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。また、これから起こることをあなたがたに告げる」(13)。ある聖書学者は、イエスのこの言葉は、弟子たちに「未来への覚悟をさせるためのものである」と解説しました。未来への覚悟をさせる、それが〈遺言〉です。つまりイエスは弟子たちに、十字架において明らかになる未来、即ち、「だれでもキリストにあるならば、新しく造られたものである。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてのものが新しくなった」という、圧倒的な自覚を生きるようにと呼びかけたのです。
この呼びかけは、ヨハネが生きた1世紀末の教会にとって緊急の課題であったことが分かります。ナザレのイエスに関する重大な出来事が起こってから、すでに半世紀以上が経過していました。その間に多くのことが起きました。ユダヤ教の中の改革運動として始まったキリスト教会は、どの点から見ても異邦人の教会になっていました。教会はいまや第二世代を迎え、変動の全ての特徴を示していたのです。新しい回心者の情熱や献身的な姿勢は失われつつありました。
パウロがガラテヤの信徒たちに書き送った手紙を見ると、イエスが世を去って十数年のうちに、キリスト者たちの中から十字架の驚きが消えつつあったことが分かります。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」(3:1)。「あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしは呆れ果てています」(1:6)。同じ響きを私たちは社会福音派に聞くのです。彼らは「同情的イエスをカルバリーのキリストに取って代えた」のです。言い換えれば、この世を生きるキリスト者は、十字架のイエスに対する情熱の衰退という危機に常にさらされているのです。
イエスは言われます。「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と。「ことごとく」とは〈真理そのもの〉という意味です。〈真理そのもの〉とは、初めにあった言、神と共にあった言、神であった永遠のロゴスが肉になって、十字架に上げられるということです。ヨハネはそれを、「恵みと真理とに満ちている」と語りました。聖霊はこの真理を私たちに悟らせるのです!
ところで、真理の霊に導かれる者、つまり、霊から生まれ者は風のように捉えどころがありません(ヨハネ3:8)。どのような人が霊から生まれるのでしょうか? 旧新約聖書の一致した証言によれば、罪人です。それを端的に表現したのが、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)というイエスの言葉です。ここに要求されている人間観は、罪ある肉体をもつ人間こそ永遠に継続する受肉の容器として最も適した存在である、ということです。「第二の福音書」、また「中世の最高の信心書」と称される『キリストに倣いて』の第1巻、第1章で、トマス・ア・ケンピスは、「わたしは罪の悔い改めの定義を知るよりも、むしろそれを実感したい」と記しました。罪を実感するにはどうしたらよいのか? それは罪を実感した人が書いた神の言葉、聖書を読む以外にないのです。聖書は古代の文献として読むことができます。人生の指針、格言集、金言集として読むこともできます。しかし私たちは〈生ける神の言葉〉として読むのです。イエスは言われます。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(ヨハネ6:63)と。罪を実感するにはイエスの言葉、すなわち聖書に聞く以外にないのです。
Ⅲ.痛みにおける神
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる!」この二つのしばらくの間には十字架のキリストが立っている! イエスはそれを、出産を控えた女性の産みの苦しみに譬えられました。「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」これは、イエスの受難と死と復活について語ったものです。シモーヌ・ヴェイユは、この喜びに変わる悲しみを次のように語りました。「復活節のよろこびは、苦痛のあとにくるよろこびではない。束縛のあとの自由、飢えのあとの満腹、別れのあとの出会いではない。それは、苦痛をはるか下にして舞うよろこびであり、苦痛を完成するものである」と。
イエスはこの復活節の喜びを、子を産む女性に譬えられたのです。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」この譬えで注目したいのは「自分の時が来た」という一句です。ヨハネはこの言葉を、イエスの公の活動でたびたび取り上げています。まずイエスが宣教を開始されたカナの婚礼で、ぶどう酒が無くなったと告げる母に、イエスは「わたしの時はまだきていません」(2:4)と言われます。また、仮庵の祭りで自分を世にあらわせと語る兄弟たちにイエスは、「わたしの時はまだ来ていない、満ちていない」(7:6、8)と言われました。その時が来た、とイエスが語ったのは、ロバの子に乗ってエルルサレムに入城された時です。「人の子が栄光を受ける時が来た」(12:23)と。人の子が栄光を受けるとは「十字架に上げられる」(12:32)ことです。そしてイエスは13章から始まる最後の晩餐で、「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来た」ことを知り、ユダが一欠片のパンを握りしめて、夜の闇の中に出て行った時、「今や、人の子は栄光を受けた」(13:31)と語り、最後の晩餐を締めくくる17章では、「父よ、時が来ました」という言葉で祈り始めるのです。こうしてイエスは、十字架に上げられることを「自分の時」と語り、それを女性の産みの苦しみに譬えられたのです。言い換えれば、神の御子イエス・キリストが十字架で苦しまれるのは、私たちを新しく生まれ変わらせるためなのです。痛みにおける神は、御自身の痛みを以て我々の痛みを解決し給うのです。
イエスは言われます。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」(16)。ヨハネはこの言葉が現実となったのを十二人に対する復活顕現物語に見ます。ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけて身を潜めていた弟子たちの真ん中に、十字架の御傷が刻まれた復活者イエスが現れると、「弟子たちは、主を見て喜んだ」のです。そしてこの喜ぶ弟子たちにイエスは息を吹きかけ、「聖霊を受けよ」と言われたのです。ある研究者は、ヨハネがここに描いたイエスの復活、栄光を受けた者として彼の顕現(再臨(パルーシア))、そして聖霊の賜物の賦与はすべて、最初期の共同体においては、一つの事柄として経験されたのではないか、と解説します。つまり、聖金曜日と復活日、そして聖霊降臨と再臨は最初期の共同体においては一つのこととして経験されたのです。
マタイはそれをイエスの十字架刑で描きます。イエスが十字架で大声を上げて息を引き取られた時、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、……多くの聖徒たちの体が生き返った」と。ここでは十字架と復活が一つのこととして経験されているのです。ヤコブが、アブラハムとサラ、イサクとリベカ、そして妻レアを葬った墓にわたしを葬って欲しいと遺言した墓が開かれたのです! 神の御子イエス・キリストが十字架で産みの苦しみをされたことで、全く新しい地平が開けたのです。「死は勝利にのみ込まれた」のです(Ⅰコリント15:54)。これが十字架のキリストによって開かれた私たちの未来です!
結びに、十字架のキリストの苦しみによって開かれた未来について語られた言葉を聞いて、終わりたいと思います。それはアウグスチヌスの母モニカが臨終に際して息子たちに語った遺言です。「このからだはどこにでも好きなところに葬っておくれ。(イエスが十字架で死んだことで墓が開き、聖徒たちの体が生き返ったのだ。)そんなことに心をわずらわせないでおくれ。ただ一つ、お願いがある。どこにいようとも、主の祭壇のもとでわたしを思い出しておくれ。」
マタイは主の祭壇で故人を思い出すことを次のように描きました。「言っておくが、いつか、東から西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く」(8:11)。主の晩餐はこの天上の祝宴の先取りです。私たちは十字架のイエスをキリストと告白し、栄光を父なる神に帰する主の晩餐で、天上のもの、地上のもの、地下のものと出会うのです!