讃美歌 355
「父よ、時が来ました。……わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」(ヨハネ17:1、4−5)
Ⅰ.「既に」と「未だ」
「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」これが、きょう、わたしたちに開かれた〈生ける神の言葉〉です。イエスが父なる神に祈り求めた栄光は、17章のキーワードであるだけではなく、ヨハネ福音書全体の鍵です。ヨハネは1:14で、初めにあった言、神と共にあった言、神であった言が肉となったことを、「わたしたちは栄光を見た」と語り、そして福音書の結び20:29では、「わが主よ、わが神よ」と告白して福音書を閉じたのです。ヨハネは、十字架の聖痕が刻まれた復活者イエスに神の栄光を見たのです。
「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください!」なぜイエスは栄光を求める祈りをされたのか? イエスは栄光をかなぐり捨てて人間になられたのではないか? 考えられるのはただ一つ、イエスは世界を救う力を、つまり、「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された」という、あなたの愛でわたしを満たしてください、と祈ったのではないか。イエスはそれを4節以下で次のように語ります。「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」イエスが求める、世界が造られる前に父のみもとで持っていた栄光とは何か?
ところでヨハネがここで語るイエスの栄光は、一方では、「わたしは、地上であなたの栄光を現しました」とあるように既に実現したものであり、他方では、「御前でわたしに栄光を与えてください」とあるように、まだ実現していないのです。この〈既に〉と〈未だ〉の緊張関係は、新約聖書の広汎な部分からも知られています。神の救いが既に実現しているという意味での〈現在的終末論〉と、やがて実現するであろうという意味での〈未来的終末論〉です。この〈既に〉と〈未だ〉の二つの終末論は、イエスが十字架に上げられる前夜、弟子たちと行われた最後の晩餐で、「わたしを記念するためにこのように行なさい」と言われたパンと杯の秘跡が体現しているものです。イエスが言われた「記念」とは、想起される過去の出来事または人物が、単に過去のものではなく、〈いま、ここ〉に、現実になるということです。この「現在化」が記念(アナムネーシス)の特徴ですが、それは単に過去の出来事が現在化されるだけでなく、過去の出来事が指向する終末のことがらも先取りされて現在化するのです。
ヨハネはここ17章においてイエスの栄光は、聞き逃し得ない仕方で、「現在的」であるとともに「未来的」であると語るのです。「わたしは、……地上であなたの栄光を現しました(現在的終末論)。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください(未来的終末論)。」しかもヨハネは、イエスの本来の栄光は、イエスが十字架に上げられる時であると語るのです。「イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたことを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した」(19:28)。肉となった永遠のロゴスの栄光は十字架で完成するのです! 言い換えれば、ヨハネは、イエスが十字架に上げられた時、世界の救いの完成がすでに今、地上の現在の中へ侵入しつつあるしたのです!
Ⅱ.十字架の栄光
イエスは天を仰いで言われます。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。……世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を!」この既にと未だの終末論を前にしてブルトマンは、「今やわれわれは、聖書本文自体の中へ飛び込んで行くという独特な雰囲気の中に浸される」と語りました。聖霊の照明を祈り求めつつ、私たちも聖書本文自体の中へ飛び込んで行くという独特な雰囲気の中に浸されたいと思います。
まず注目したいのは、イエスが語る「栄光を現す」とは言葉です。栄光を現すとはどういうことか。それとの関連で注目したいのは出エジプト記16章、奴隷の地エジプトから救い出されたイスラエルの民が、荒れ野でパンに飢えた時の記事です。葦の海を渡り、約束の地を目指して旅立って間もないのに、イスラエルの人々はモーセとアロンに不平を述べ立てたのです。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(16:3)と。この不平を聞いて神はモーセに言われます。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。……」夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、朝に、主の栄光を見る」(4、6−7)と。
これから分かるように、神が栄光を現すとは、歴史に働く神の業なのです。聖書の民は、天の玉座に鎮座まします神に栄光を見たのではないのです。民を救うために天を引き裂いて地に降る神に栄光を見たのです。フォン・ラートはそれを次のように語りました。「イスラエルにとって特徴的なことは、神の自己放棄に至るまでの下降にはその美表出(すなわち栄光)を伴うという点にある。」神は歴史のあらゆる時間において、審判もしくは救済の行為において自らを「聖とする」ことができるのです。神は望むときにはいつでも栄光を認めさせる業を始めることができるのです。
そしてイエスは、「今」がそのときであると言われたのです。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」と。イエスは既に見たように、世界を救う力を、即ち、「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された」愛を祈り求めているのです。神はイエスを十字架に上げることで、すべての人を救われるのです!
神がイエスに与える栄光は〈十字架の栄光〉である! それはイエスがロバの子に乗ってエルサレムに入城された時にも語られました。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」と祈ったのです。父である神が御名の栄光を現すとは、イエスを十字架に上げることです。イエスは言われます。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう!」(12:32)と。
問題は、イエスが地上で現された十字架の栄光と、「世界が造られる前に、イエスがみもとで持っていた栄光」との関係です。イエスは天上でどのような栄光を持っていたのでしょうか? そのことについて優れた註解を現したのがエフェソ書の著者です。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めなったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。」エフェソ書の著者は、世界が造られる前に、イエスが神のみもとで持っていた栄光は十字架の栄光であるとしたのです。
天上においても地上においても、イエスの栄光は十字架の栄光である! つまり、世界の中にキリストの十字架が立っているのではない。世界はキリストの十字架のもとに造られたのである! 初めにあった言、神と共にあった言、神であった言によって、つまり十字架の栄光、神の極みまでの愛によって「万物は成った」(ヨハネ1:3)のです。
Ⅲ.一致を求める祈り
「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」このエフェソ書の言葉は、イエスの祈り、「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるため」(11)に通じます。イエスが神から出てきたことを知り、信じる者たちの共同体は、地上にありながらその固有の本質は、父と子とひとつに結ばれているのです。天のあらゆる霊的な祝福で満たされるのです。それを端的に語ったのが、「わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるため」という祈りです。第一ヨハネはこの「一つになる」を次のように語りました。「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです!」と。
この「一つになる」には、まだ信じていない人々をも含まれています。イエスは「良い羊飼いの譬え」で、「わたしには、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かねばならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(10:16)と語られました。この囲いの中にいない人をも一つにするのが、イエスが十字架で成し遂げる神の業なのです。キリストは、御自分の肉において(十字架)敵意という隔ての壁を打ち壊し、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現されたのです。イエスはそれを17:23で少し表現を変えて語ります。「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」と。
この「完全にひとつになる」を体現したのが、イエスが創設した聖晩餐を守る群れです。パウロはそれをコリントの信徒たちに宛てた手紙で次のように語ります。「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(10:16b−17)。十字架のキリストによって創設された聖餐共同体は完全に一つなのです。聖晩餐を守る群れは、地上よりむしろ天に結びつけられているのです。紀元200年頃に書かれた『ディオグネトスへの手紙』にこんな言葉があります。「(キリスト者は、)自分自身の国に住みつつも、その寄留者にすぎない。……彼らは肉において生きているが、肉に従って生きているのではない。彼らの存在は地上にあるが、その市民権は天にある(フィリピ3:20)。」
私たちの国籍は天にあることをイエスは次のように言われました。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。」イエスはこの直前、「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残ります……」と言っていたのです。そのイエスが、「わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください」と祈っているのです。「それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」と。
わたしたちは主の晩餐で、天地創造の前からイエスが神のみもとで持っていた栄光を見るのです! イエスに属する者たちは主の晩餐で、イエスと共に天の場所へ行き、そこでイエスの過ぎ去ることのない栄光を見るのです。バビロン捕囚という、神にさえ望み得ない絶望の中で語られた祭司記者の言葉、「全地がヤハウェの栄光で満たされるであろう」(民数記14:21)が心に迫ります。
私たちは十字架のキリストに、全地を満たす神の栄光を見たのです。だから私たちは十字架のキリストが目の前に現れる主の晩餐で、キリストの肉を食べ、血を飲むごとに、主が来られる日まで、主の死を告げ知らせるのです。主の晩餐において私たちは、御父と御子イエス・キリストとの交わりという独特な雰囲気の中に浸されるのです!