讃美歌 348
そこでは、……何も奇跡を行うことがおできにならなかった。……そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほかに何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。(マルコ6:5、7−9)
Ⅰ.肉に従う人
きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言葉はマルコ福音書6章1節以下、イエスが郷里ナザレで、力あるわざを一つも行うことができなかったという〈無力なイエス〉と、十二弟子の派遣に関する記事です。この二つの記事はマタイにもルカにもありますが、このように配置したのはマルコだけです。イエスに関する資料をどう配置するかは福音書記者の信仰と神学によります。マルコがこの二つの記事をこのように配置することで表現した信仰とは、どのような信仰なのか?
まず注目したいのは、郷里ナザレでの出来事です。イエスはガリラヤ湖畔の町カファルナウムを拠点として、力ある業と権威ある新しい教えで神の国の福音を宣べ伝えると、その「イエスの評判は、……ガリラヤ地方の隅々にまで広まった」とマルコは記します(1:28)。当然、ナザレにもイエスの評判は伝わっていたのです。ところが、イエスが弟子たちを連れて郷里ナザレに帰り、安息日に、いつものように会堂で教え始めると、それを聞いた人々は驚き、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。……この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか」と言って、「イエスにつまずいた」(3)のです。
郷里ナザレの人々がつまずいたという記事は四つの福音書が取り上げています。マタイは〈天の国の七つの譬え〉の結びで(13:53−58)、ルカは、イエスの公生涯の初めに(4:22b)、そしてヨハネは_ナザレの人々ではなくユダヤ人ですが_、パンの奇跡の講話で取り上げています(6:42)。四つの福音書はそれぞれ異なる文脈で取り上げていますが、視点は同じです。パウロの言葉で言えば、ナザレの人々は「肉に従って」イエスを知っているという視点です。肉に従ってイエスを知っているとは、イエスのこと全く知らないということです。言い換えれば、ナザレの人々は「十字架のキリスト」につまずいたのです。モルトマンが『十字架につけられ神』で語った言葉が心に迫ります。_「キリスト者の神」は必ずしも常に「十字架につけられた神」ではないし、むしろそうであるのは極めてまれである。歴史上のキリスト教にとってもまた、十字架は躓きであり、愚かである!_聖霊の照明を祈り求めつつ、十字架のキリストに躓かないために、御言葉に聞きたいと思います。
Ⅱ.聖戦
マルコは、肉に従ってしかイエスを知ろうとしない郷里の人々のゆえに、イエスは「力あるわざを一つもすることができなかった」と記した後に、十二弟子の派遣の記事を置きました。
「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた」(6b−7a)。マルコはこのように配置することで、どのような信仰を表明したのか?
十二弟子の派遣記事で目を引くのは、弟子たちは生活に必要なものを何一つ持たずに派遣されるということです。「旅には杖一本のほかに何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた。」いったい、イエスは、このような言葉で弟子たちに何を求められたのか? そのことについて一つの示唆を与えてくれるのは、ルカが最後の晩餐を締め括った記事_ルカだけが伝える記事_です。_イエスは、十二弟子を財布も袋も履物も持たずに遣わされたとき、何か不足したものがあった、と言うと、弟子たちは、何も不足しなかったと答えます。それを聞くとイエスは、「しかし今は」と言って、「財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」_と、かつて弟子たちを派遣した時とは正反対のことを言われたのです。
いったい、どうしたというのか? ルカは「しかし今」という言葉が語られた背景を次のように描きます。「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられる』と書いていることは、わたしの身に必ず実現する。』」つまりルカは、イエスが「犯罪人の一人に数えられて」(イザヤ53:12)、十字架で殺されることが、弟子たちの状況を一変するとしたのです。イエスの受難が時の転換、剣の季節の開始を告げるのです(マタイ10:34)。
これを聞くと弟子たちは、イエスが「犯罪人の一人に数えられる」ことに心を痛めるのではなく、「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」に反応し、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と答えます。これを聞くとイエスは、弟子たちとの会話を希望がないとして打ち切ります。「もう十分、これ以上は無用」であると、とりつくしまもない厳しい調子で、弟子たちとの対話を打ち切ったのです。こうしてルカは十字架のキリストに対する弟子たちの無理解を、あからさまにさらけだしたのです。
「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい!」いったい、だれが、イエスからこのような言葉を聞くなどと想像し得たか。私たちが「主」と仰ぐイエスは、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことのない」(イザヤ42:3)方です。その方が、「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」と言われたのです。いったい、イエスは、このような言葉で弟子たちに何を求められたのか? わたしは、聖書の古い伝承である「聖戦思想」ではないかと考えます。「聖戦思想」とは、危機にある者たちのために神が戦われるという信仰です。エジプトを脱出したとき、葦の海でイスラエルの民が体験したことです。前には海、後ろからはエジプト軍が迫る、「行くも死、帰るも死、止まるも死」という危機的状況の中で、モーセはイスラエルの民はこう語りかけたのです。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたがたのために行われる主の戦いを見なさい!……主があなたたちのために戦われる」(出エジプト14:13−14)と。神がわたしたちのために戦われるとは、あなたの手にある「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」ということです(イザヤ2:4)。
ルカが最後の晩餐を締めくくる「しかし今は」で語ったのは、この「聖戦」ではないのか。主は言われます。「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられる』と書いていることは、わたしの身に必ず実現する。」神は御子イエスを十字架につけることで、この世の権力と戦われるのです!(ヨハネ12:31)。だから、あなたがたは落ち着いて、静かにしていない、と主は言われるのです。「神がわたしたちの味方であるならば、わたしたちに敵対できるものなど何もない」(ロマ8:31)のです。艱難も、苦しみも、迫害も、飢えも、裸も、剣も、死も、生も、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです!
マルコは、「財布も袋も履物ももたずに遣わされた」というイエスの言葉でこの聖戦を描いたのではないか。つまり、一切を神の戦いに委ねる信仰です。言い換えれば、マルコは、弟子(教会)の派遣を、ナザレの人々がつまずいた〈十字架のキリスト〉に基礎づけたのです!
Ⅲ.イエスの名の権能
それを象徴的に描いのが、イエスは「十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わす」にあたり、「汚れた霊に対する権能を授けられた」ことです。イエスは、剣の季節を生きる弟子たちに、剣ではなく、「汚れた霊を制する権能」を授けられたのです。汚れた霊を制する権能とは何か? それは〈イエス〉という「名」です。マルコは、イエスの名が悪霊を制することを、二回目の受難告知に続けて次のように描きす。「ヨハネがイエスに言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。』」(9:38)。マルコは、イエスの弟子集団に加わらない者の中に、「イエスの名によって」悪霊を追い出す者がいた!と記すことでイエスの名に秘められた測り知れない権能を描いたのです。
この〈イエスの名の権能〉を再三再四取り上げたのがルカです。ルカは宣教に遣わされた七十二人の報告で、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえわたしたちに屈服します」(ルカ10:17)と記し、また午後三時の祈りの時、ペトロは神殿に上る途上、物乞いにこう語ります。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」というと、この人は躍り上がって立ち、歩き出したのです(使徒3:6、8)。また、パウロがフィリピで伝道していた時、うるさくつきまとう霊媒師に「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出ていけ」と語ると、「即座に、霊が彼女から出て行った」(使徒16:18)のです。
いったい、〈イエスの名〉に秘められた、神秘としての神の知恵とは何か? そのことを黙想していたとき、神が初めてご自分の名を啓示された出エジプト記3章の記事に導かれました。かつて神は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」としてご自分を啓示されたのですが、イスラエルをエジプトから導き出すにあたり、モーセに「ヤハウェ」という「名」を啓示されたのです。ヤハウェの名が啓示されたことには、計りしれない意味があります。神の名を知らなければ祭儀、すなわち人間と神との交わりは不可能なのです。神は言われます。「あなたはわたしのために土の祭壇を造り(なさい)。わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する」(出20:24)。
モーセは神に尋ねます。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」このモーセの問いに神は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われたのです。
この「わたしはある」という語は古くから、特にギリシア思想との関係で神学者たちの最高の関心をひいてきました。「わたしはある」とは、どういう意味か。この物語全体からみれば、いわゆるギリシア的神、すなわち絶対的存在という意味でなく、12節にあるように、「わたしはあなたと共にいる(インマヌエルである)」という、慰めのない人間に語られた励ましの言葉なのです。
興味深いのは、マタイがイエスの誕生物語を神の名の啓示と密接に結びつけて書いていることです。「マリアは男の子を産む。その名をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである!」(1:21)。マタイはアブラハムから始まる神の民イスラエルの歴史を俯瞰することで、人間の罪により何も生み出し得ない呪われた世界を描き、その呪われた世界が、イエスによって命溢れる祝福された世界に再創造されるとしたのです。マタイはイエスという名を、出エジプトに始まる神の救いの成就として、ヤハウェ、「インマヌエル、神、我らと共にいます」(1:23)と解釈したのです。
すべての肉の希望が失望に終わるキリストの十字架において、罪に汚れた何も生み出しえない呪われた世界が、命溢れる祝福された世界に再創造されるのです。その喜びを全身で歌い上げたのが、パウロが「ピリピ人への手紙」に引用した初代教会の讃美歌です。
「キリストは、神のかたちであられたが、……おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を賜った! それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主(ヤハウェ=インマヌエル)である』と告白して、栄光を父である神に帰するためである!」
イエスは地上的なものを聖化して天にまで引き揚げるために、十字架の死に至るまで低きに降られたのです。それゆえ神は御子に、すべての名にまさる名「イエス」を賜ったのです。イエスという名には、人間の罪よって堕落した世界が再創造される力があるのです! 「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。」この「新しい人」を端的に描いのが、キリストの肉と血で生きる聖餐共同体です。主の晩餐において私たちは、「イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父である神に帰する」のです。