讃美歌 225
イエスが舟から上られるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。……走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。(5:2、6−8)
Ⅰ.自傷行為
きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言葉はマルコ福音書5章1節以下、イエスと弟子たちがガリラヤ湖の向こう岸、「ゲラサ人の地方」で、汚れた霊につかれた人を癒やされたという奇跡物語です。ゲラサ人の土地はヨルダン川の東に位置し、かつてヨシュアと共にヨルダン川を渡り、約束の地に入植した時、マナセの半部族に分譲された土地です。その後、ダビデが統一王国を築き、ソロモン亡き後南北に分裂、そして北王国イスラエルがBC721年アッシリアによって滅ぼされて以来、異邦人、主にギリシア人が住み着いていたのです。かつてマナセの半部族に譲渡された約束の地に、今は異邦人が住み着いている。その地にイエスは足を踏み入れたのです。イエスは、ご自分の活動と弟子たちの活動を、「イスラエルの家の失われた羊」に限定されました(マタイ10:6、15:24)。イエスはゲラサ人の土地に踏み入ることで、失われた土地を取り戻そうとされたのか?
イエスのこの行動には、どのような象徴的意味があるのか? 同じ記事がマタイにもルカにもあるが、マルコだけがこの記事を、「向こう岸に渡ろう」(4:35)というイエスの呼びかけと密接に関係づけています。私は、マルコは、悪霊を追放するイエスにアブラハムの召命記事で語られた「すべての民の祝福」(創世記12:2)の成就者を見たのではないかと考えます。後ほど詳しく触れたいと思います。
イエスは彼の地で、汚れた霊に取り憑かれて全身傷だらけの男に出逢います。「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、……彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいていた」のです。汚れた霊に取り憑かれた人の状況がこれほど詳細に語られるのは稀です。「この人は墓場を住まいとしていた」とあります。この人は、人々が生活する日常の場から隔離された不可触禁忌地帯に生きながらにして捨てられたのです。
マルコは生きながらにして捨てられたこの人の心象風景を、「昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」と描きました。マルコが描くこの心象風景は、私たちの周辺でも見られる光景です。私たちは、意図的に自らの身体を傷つけたり、薬物を摂取するなどして、自傷行為を繰り返す人がいることを知っています。専門家は、虐待のトラウマや心理的虐待、および摂食障害、低い自尊心や完璧主義などと相関関係がある、と言います。自分などいてもいなくてもいいという精神的孤独が自傷行為に走らせるのです。マザー・テレサの言葉が心に迫ります。「今日の世界の最悪の病気は、結核でもハンセン氏病でもない。……自分はこの世にいてもいなくてもいい、と感じること、精神的な貧困と孤独こそが、人間にとって一番ひどい病気です。その人びとのために自分の心と自分の手を差し出すこと、これ以外にこの恐ろしい病気を治す道はありません。」イエスは悪霊に憑かれた人に自分の心と自分の手を差し出されたのではないか。「あなたも神に望まれて生まれて来た!」と。聖霊の照明を祈り求めつつ、御言葉に聞きたいと思います。
Ⅱ. 悪霊と戦うイエス
使徒行伝に、「神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられたので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました」(10:38)とあります。イエスはサタンに虐げられた世に、神の全権を身に帯びて踏み入ったのです。四つの福音書は、イエスがあらゆる種類の病気を癒やされたこと、また死者を蘇らせた三つの奇跡(ルカ7:12、ヨハネ11:39、マルコ5:35)と、七つの自然奇跡(マルコ6:45−52、11:12−14、マタイ17:24−27、ルカ5:1−11、マルコ4:35−41、6:34−44、ヨハネ2:1−11)を行われたことを報じています。これらの報告は批判的に研究すると、その数は著しく減少すると言われます。原始教会が奇跡物語をイエスの回りに積み上げたのは、何ら驚くにあたりません。教会は主キリストの栄光と全能を表現し、このことを当時の人に適した言葉で宣べ伝える恰好の手段を奇跡のうちに見出したのです。
今日でもそうですが、イエスの時代、悪霊に対する恐れが異常な力で人々を支配していました。あらゆる種類の病気が悪霊の力に帰せられたのです。とくに今日でいう種々の精神病がそうでした。精神病の病症を外から見ただけでも、「彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいた」ように、自分を統御することができないのです。
福音書が精神病を悪霊に取り憑かれたと表現しているのは、聖書は、その時代の言葉と表象(心に思い浮かべる像)で記されているからです。これとの関連で注目したいのがサムエル上16章14節、「主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった」です。サムエル記は、悪霊は「主から来た」と語るのです。ヨブ記も同じ見方をしています。ヨブの信仰はご利益信仰であると批判するサタンは、神の使いの一員(2:1)で、地上をパトロールする役割を担っていたのです。旧約聖書が記された千年の間、悪霊は「神からの霊」と考えられていたのです。
悪霊は神から来る、という表現にはどのような信仰の神秘が語られているのか。それについて重要な示唆を与えているのがパウロです。パウロは「神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり」(使徒22:17)、第三の天にまで引き上げられた経験をします。そのパウロが「わたしの身に一つの棘がある」と語ったのです。それは、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いであり、この使いを離れ去らせてくださるように、わたしは三度神に願うと、「わが恵み、汝に足れり」との声を聞いたと。
このパウロの言葉から明らかなように、サタンはパウロが高慢にならないように戒める神の鞭なのです。同じ見方をルカは最後の晩餐で、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、……ふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」(22:31)で表現しました。
新約においても「悪霊」は神の支配領域にあるのです! そうであるのに福音書は、悪霊を神に敵対するものと語るのです。なぜ? それを示唆するテキストがルカにあります。宣教に遣わされた七十二人は喜んで帰って来て、こう言います。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」(10:17)。これを聞くとイエスは言われます。「わたしは、稲妻が天空から落ちるように、サタンが天から真っ逆様に突き落とされるのを見た」と。同じ表象は黙示12:7−9にも描かれます。言い換えますと、イエスは天の領域から真っ逆様に地に落ちたサタンと戦うために、天を引き裂いて地に降られたのです。
その辺の事情を映し出す言葉があります。6節、「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。』」このサタンの叫びは、かつてサタンが天の領域にいたことを暗示しています。サタンはかつて天の領域にいたので、イエスが何者であるかを知り、それゆえに恐れたのです。サタンは天の領域から放り出され、地に突き落とされたのです。そのサタンに虐げられた世に、イエスは神の全権を身に帯びて踏み入ったのです。それはただ憐れみの業を行なうためではなく、何よりも悪霊との戦いに立ち向かうためでした。
Ⅲ.サタンの超克
イエスの悪霊との戦いで注目したいのは、追い出された悪霊が2000匹の豚の中に入って湖に落ち、死んだことではありません。この描写は、汚れた霊の名前「レギオン(軍団、兵士)」が あやまって「軍団」の意にとられたことで、2000匹もの豚に乗り移ったという話になったというのが一般的です。レギオンとは、悪霊の頭ベルゼブルの「兵士」いう意味なのです。
この癒しの記事で注目したいのは、豚飼いたちの言葉を聞いた人々が、イエスに、「(ここ)から出て行ってもらいたいと言い出した」(17)ことです。このゲラサの人々の反応は、ヨハネが伝える、サマリアの女の報告を聞いたサマリア人たちの反応とは正反対です。サマリアの人々は女の報告を聞くと、「イエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ」(4:40)のです。
実は、サマリアの女も、汚れた霊に取り憑かれたゲラサ人のように、「自分はこの世にいてもいなくてもいい、と感じる、精神的な貧困と孤独」を生きていました。それを象徴するのが、昼の十二時、太陽がジリジリと照りつける真昼に、井戸の水を汲みに来たことです。水汲みは女性の仕事で、朝早くとか、夕方涼しくなってから行われました。しかしこの女は、真昼に水を汲みに来たのです。なぜ? 女たちと顔を合わせたくなかったのです。太陽に身を焼かれるよりも、女たちの視線に魂を貫かれる方がはるかに辛かったのです。この女には五人の夫がいましたが、今連れ添っているのは夫ではないのです。この女は自分の中の空虚さを、夫で埋めようとしたのですが、埋めることはできなかったのです。「ふさわしい伴侶」(創世記2:18)としての夫婦の関係は、禁断の木の実を取って食べたことで崩れ去ったのです(創世記3:16)。
イエスは存在の渇きの中にあるこの女に、こう語りかけます。「あなたが手に持っているその器から、わたしに水を飲ませてください」と。ユダヤ人にとってサマリア人は異邦人よりも受け入れがたい汚れた存在でした。そうであるのにイエスは、サマリアの女が手に持つ器から水を飲ませてくださいと言われたのです。イエスはサマリアの女に手と心を差し出されたのです。女はイエスの手を握りしめると、町に行ってイエスのことを話したのです。それを聞くと、サマリアの人々はイエスに、「自分たちのところにとどまるようにと頼んだ」のです。
ゲラサの人々は違います。レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見ると、「イエスにその地方から出て行ってもらいたいと言い出した」のです。目の前に、存在の渇きを癒やされて、生き生きと顔を輝かせている人がいるのです。そうであるのにゲラサの人々はイエスに躓いたのです。なぜ、ゲラサの人々はイエスに躓いたのか? それはイエスが悪霊と戦われる「神の全権」が、十字架だからです! イエスが悪霊に憑かれた人に差し出された手は、十字架に鍵打たれた手なのです。
それはこの出来事を結ぶマルコの筆から浮かび上がってきます。「イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。イエスはそれを許さないで、こう言われた。『自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。』」
先ほど私は、イエスの悪霊追放は、ただ憐れみの業を行なうためではなく、何よりも悪霊との戦いに立ち向かうためであると語りました。「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったこと」とは何か? それについて重要な示唆を与えてくれるのは、悪霊の頭ベルゼブル論争で語られたイエスの言葉、「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない」(3:27)、です。これはイザヤ書53:12、「多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける」を下地にしていると言われます。つまり、イエスが悪霊と戦う武器は十字架なのです。
イエスが、悪霊に取り憑かれたゲラサ人に、サマリアの女に、自分はこの世にいてもいなくてもいい、と感じること、精神的な貧困と孤独の中にいる人に差し出された手と心は、十字架に釘打たれた手なのです。その手を握りしめる人は、肉体の棘で苦しむパウロが聞いた、「わが恵み、汝に足れり」という十字架の恵み(ロマ3:24)を知るのです!
イエスは言われます。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったこと、すなわち御子イエスを十字架に上げられたことをごとく知らせなさい。」イエスは同行を願い出た悪霊に取り憑かれたゲラサ人に、「自分の家にかえりなさい」と、地域社会でキリストの証人として生きることを求められたのです。それが使徒後の時代を生きるキリスト者の生き様なのです。イエスは主の晩餐で、十字架に釘打たれた手と心とを差し出されるのです。私たちはその手を握り締め、世界宣教に乗り出すのです。そのとき、サタンは屈服するのです。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します!」