2026/6/28 聖霊降臨節第6主日   「ヨハネの首を」

マルコ6:14-29、Ⅱコリント4:6-10、マラキ3:19-23
讃美歌 304

イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が働いている。」……ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。(マルコ6:14、16)

 

Ⅰ.地獄模様

マルコは自らの福音書を「神の御子イエス・キリストの福音の初め」(1:1)という言葉で書き出し、その冒頭に、預言者イザヤがバビロン捕囚からの解放を告げた「荒れ野で叫ぶ者の声」として洗礼者ヨハネが、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(1:4)記事を置きました。そのヨハネがヘロデの誕生祝いで首をはねられたというのが、きょう、私たちに開かれた〈生ける神の言葉〉です。ヘロデは、「自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催」(21)したのです。参列者の中には、盆に載せられたヨハネの首を見て吐き気をもよおしたり、気を失う者もいたのではないか。同じ記事がマタイとルカにもありますが、マタイはこの記事を約半分に縮め(14:1−12)、ルカは、この記事そのものを削除しました (9:7−9)。

マルコはこの記事を詳細に描くことで読者に何を伝えようとしたのか? マルコはこの記事を、「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った」(14)という言葉で導入します。この導入句から分かることは、マルコはこの記事を、〈イエス〉を描く題材としたということです。マルコはイエスの栄光と全能を描くのに、まことに衝撃的な題材を用いたのです。聖霊の照明を祈り求めつつ、御言葉に聞きたいと思います。

イエスの名が知れ渡たり、その評判は為政者ヘロデの耳にも入ります。人々はイエスを、「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が働いている」とか、「彼はエリヤだ」、また「昔の預言者のような預言者だ」と言っていたのです。これを聞くとヘロデは、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言ったのです。 ルカはここで筆を折り、五千人を満腹させた記事に移りますが、マルコはその間に、ヘロデの誕生祝いという晴れやかな舞台で繰り広げられた、ヨハネの首をはねる残酷な場面を描いのです。それは次のようなものでした。誕生祝いにヘロディアの娘が舞を舞ったことで気分をよくしたヘロデは、酒の勢いもあってかヘロディアの娘に、欲しいものはなんでも与えよう、国の半分でも与えると誓うと、娘は母に相談します。するとヘロディアは、「ヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていた」ので即座に、「洗礼者ヨハネの首を」と言います。少女は大急ぎで王のところへ行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願い出たのです。それを聞きとヘロデは、「非常に心を痛めますが、誓ったことでもあるし、また客の手前、少女の願い」を聞き入れ、衛兵に、ヨハネの首を持って来るようにと命じます。衛兵は命じられるままにヨハネの首をはねると、それを盆に載せて少女に渡し、少女はそれを母親に渡したのです。

Ⅱ.メシアの先駆者の使命

ヘロデの誕生祝いで首をはねられたヨハネには、〈メシアの先駆者〉としての尊厳は微塵も感じられません。ヨハネが荒れ野に現れ、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えると、一大悔悛覚醒運動が起こり、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」のです。その中に、ガリラヤのナザレから来たイエスもいたのです。そのヨハネが、首をはねられたのです。
この出来事がいかに衝撃的であるかは、ヨハネの使命について語られたイエスの証言から明らかです。ヨハネに対するイエスの評価は、熱狂的と言ってもよいものです。イエスはヨハネの洗礼を「神から」のものであると言い(マルコ1:30)、またヨハネは「義の道を説いた」(マタイ21:32口語訳)と言われたのです。「義の道を説いた」とは聖書特有の表現で、「彼は正しい道をもたらした」という意味です。イエスが「道」(ヨハネ14:6)であるように、ヨハネも「道」であるとイエスは言われたのです。さらにイエスはヨハネを、「預言者以上の者」(マタイ11:9)、「すべての人間のうち最大の者」(マタイ11:11並行)と言われたのです。

こうした評価と同列にあるが、「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」という、マタイが伝える一句です(11:12)。ルカはこの一句を次のように言い換えました。「律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は喜んでこれに突入している」(16:16)。マタイは、洗礼者ヨハネの時から新しい世が始まったと語り、ルカは、「律法と預言者とはヨハネの時までである」、つまりヨハネは旧約の時に属しているとしたのです。どちらがよりむずかしい問題を含んでいるかと言えば、洗礼者を新しい世の開始者に加えるマタイの視点です。初代教会は、イエスがヨハネから洗礼を受けた記事から分かるように、イエスがヨハネの風下に立つ視点を修正しています。つまり、ヨハネと共に新しい世が始まったとは、イエスの視点なのです。

救いの時がヨハネから始まるというイエスの洗礼者評は驚くべきでものです。そのヨハネが今、首をはねられて盆に載せられ、ヘロデの誕生祝いという晴れの場に運び入れられたのです。いったい、マルコは、このような衝撃的題材でどのようなイエスを描いたのか? それを知る手掛かりが、イエスがペトロとヤコブとヨハネの三人を連れて高い山に登り、陽の光のように輝いた変貌の山から降る途中で交わされた会話にあります。マルコはそれを次のように描きます。

一同が山を下りるとき、イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留め、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。そして、イエスに、「なぜ、律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである」(8:11−13)。

エリヤを巡るイエスと弟子たちのやり取りから分かるように、人々はエリヤを好きなようにあしらったように、人の子も好きなようにあしらう、つまり、ヨハネの首がはねられるという壮絶な最期でマルコが描いたのは、神の御子イエス・キリストの十字架の死という壮絶な最期なのです。言い換えれば、洗礼者ヨハネが〈メシアの先駆者〉であるのは、ヘロデに首をはねられた壮絶な死においてなのです。「預言者以上の者」、「すべての人間のうち最大の者」であるヨハネがかくも惨めな最期を遂げたことを描くことでマルコは、神の御子イエス・キリストが十字架で殺されるという、筆舌に尽くし難い、想像を絶する悲惨を描いたのです。マルコの表現に近いものをあえて選べば、讃美歌164番2節の、「御使らも うち伏すまで、わが主の御傷は 照り輝く」があります。

ところで、ヨハネが首をはねられたというこの光景は、争いの中にある国や民族、また人間の間で、決して珍しいことではない。人類はこのような光景を何度も目にしてきたのです! 聖書の民も然りです。旧約聖書には戦争の惨禍の中で〈人肉を食う〉という衝撃的な記事があります。国が滅び、何もかも失った廃墟の中で「哀歌」の詩人は、「女がその胎の実を、育てた子を食い物にしている」(2:20、4:10)という衝撃的な言葉を記しました。人肉を食うとは、もはや人間ではない、ということ。その凄惨な経験を語ったのは哀歌の詩人だけではありません。バビロン捕囚という、どこにも逃れるすべのない極限状況の中で、祭司記者が、申命記の著者が、またエレミヤやエゼキエルが、人肉を食うという壮絶な闇があったことを伝えています。

祭司記者はレビ記に、「あなたたちは自分の息子や娘の肉を食べるようになる」(26:29)と記し、申命記の著者は、「あなたは敵に包囲され、追いつめられた困窮のゆえに、あなたの神、主があたえられた、あなたの身から生まれた子、息子、娘らの肉をさえたべるようになる」(28:53)と記し、またエレミヤは、「彼らの敵と命を奪おうとする者が彼らを悩ますとき、その悩みと苦しみの中で、わたしは彼らに自分の息子や娘の肉を食らい、また互いに肉を食うに至らせる」(19:9)と記し、そしてエゼキエルは、「お前の中で親がその子を食べ、子がその親を食べるようなことが起こる。わたしはお前に対して裁きを行い……」(5:10)と記したのです。 これらの言葉で衝撃的なのは、特にエレミヤ、エゼキエルから明らかなように、人肉を食うという凄惨な経験は、神に不従順な民に対する神の裁きとして語られるのです。神が、不従順な民に、人肉を食うという地獄を味わせるのです!

Ⅲ.闇から輝き出る光

しかし、これが、不従順な民の民に語られた最後の言葉ではありません。不従順な民が聞いた最後の言葉は、人肉を食うという極限の闇に光がある!ということなのです。哀歌の詩人はそれを、「口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう」(3:29)と語りました。「ちり」とは、「女がその胎の実を、育てた子を食い物にしている」という戦争に敗れ、廃墟と化した現実です。その廃墟の中に哀歌の詩人は希望、光があると語ったのです。祭司記者が見たのもそれです。「全地がヤハウェの栄光で満たされるであろう」(民数記14:21)。祭司記者もヤハウェの栄光、聖が目的を達成する最終状況を知っていたのです。そしてエレミヤとエゼキエルは、廃墟の中に見るヤハウェが栄光を、新しい共同体の問題に関連して、「新しい契約」(エレミヤ31:31)、「新しい心、新しい霊」(エゼキエル11:19、18:31、36:26)と語ったのです。

聖書の民は、人肉を食うという極限の闇に光を見たのです。それを象徴的に語ったのが前8世紀の預言者イザヤです。「この地で、彼らは苦しみ、飢えてさまよう。民は飢えて憤り、顔を天に向けて王と神を呪う。地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。」
この闇の現実を前にしてイザヤは次のように語ります。

 「先に、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、
後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、
異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
闇の中を歩む民は、大いなる光を見、
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(8:21−9:1)。

神への不従順ゆえに歴史の闇にほうり出された彼らは、「闇の中を歩む民」「死の陰の地に住む者」(9:1)です。その「彼らの上に光が照る」未来へとイザヤは眼を向けたのです。イザヤが目の前に広がる闇を見ながら眼を向けた未来を、最後の預言者マラキは次のように語りました。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす」(3:19、23)。このメシアの先駆者エリヤこそ洗礼者ヨハネである、というのがイエスのヨハネ評です。そしてマルコは、その洗礼者ヨハネの首がはねられるという凄惨な光景で、闇に輝く光、十字架のキリストを描いたのです!

結びに、闇に輝く光、十字架のキリストについて語ったパウロの言葉を聞いて終わりたいと思います。

_「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔(十字架)に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。_

十字架のキリストに闇から輝き出る光を見ない者は、四方から苦しめられ、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒されて人肉を食うのです。しかし、十字架のキリストに闇から輝き出る光を見る者は、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされないのです。キリストの肉を食べ、血を飲むからです! キリストの肉を食べ、血を飲む者は死んでも生きるのです! 私たちが生きている世界は、人肉を食うという、どこにも逃れるすべのない暗闇の世界です。その世界を生きる者の上に、十字架のキリストという光が輝いたのです。

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