讃美歌 529
イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」(マルコ8:23−24)
Ⅰ.霧に閉ざされて
きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言葉は、マルコ福音書8章22節以下、イエスがベトサイダで盲人を癒やされた記事です。この記事は「まるで霧に閉ざされているかのよう」です。イエスは盲人を村の外へ連れ出し、二人きりのところで二度、盲人の目に触れて癒やされたのです。盲人を癒すのに手間取っているのです。このような癒しは他に例がありません。マタイとルカはこの記事を伝えていません。イエスが癒しを行うのに手間取っていることと関係があるのか? マルコはこの「霧に閉ざされているかのよう」な癒しの記事で、読者に何を伝えようとしたのか? 聖霊の照明を祈り求めつつ、御言葉に聞きたいと思います。
まず注目したいのは、イエスが盲人の目を開くのに手間取っていることです。イエスは、足の不自由な人を歩かせ、盲人の目を開き、らい病人を清め、耳の聞こえない人の聴力を回復し、死人を生き返らせ、悪霊を追い出されたのです。イエスに癒せない病は何もありません。しかも癒しはすべて「ただちに」起こったのです。しかし、ベトサイダで行われた癒しは違うのです。人々が盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願うと、イエスは何を思ったか、盲人の手を取り、村の外へ連れ出し、二人きりになり、目に唾をつけ、両手をその上に置いて、「何か見えるか」と言われたのです。まるで癒しの効果を確認しているかのようです。盲人が「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と言うと、イエスはもう一度両手をその目に当てます。すると「よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった」のです。
マルコはこのような癒しの記事で何を伝えようとしたのか? そのことを黙想していた時、マルコがこの記事で描いたのは、いわゆる奇跡物語ではなく、別の意図があるのではないか、との思いにと捉えられました。実は、イエスの癒しが段階的に行われたケースがもう一つあります。それはヨハネが伝える「生まれつきの盲人の癒し」(9章)です。イエスは生まれつきの盲人を癒すのに、地面に唾をし、唾でこねた土を盲人の目に塗ります。しかし、これで盲人の目が開かれたのではありません。イエスは盲人に、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われたのです。盲人が言われるままにシロアムの池で洗うと、そこではじめて目が見えるようになったのです。
先週、教会学校の礼拝で、生まれつきの盲人が癒される映像を見ました。映像は聖書をなぞるように、イエスが地面に唾をし、唾で土をこねて盲人の目に塗るのですが、そこで聖書にない、思わぬ光景が映し出されました。イエスは弟子たちに支えられるように倒れ込んだのです。まるでイエスの中から力で出て行ったかのようにです。そのとき、12年もの間出血が止まらず、あちこちの医者にかかり、全財産を使い果たした女が、群衆に紛れてイエスの後ろから衣に触って癒された記事が思い出されました(マルコ5:24b−34)。マルコは癒しが起こった経緯を次のように描いています。「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいた」(5:30)。イエスが癒しを行う時、イエスの内から力(生命)が流れ出たというのです! イエスの力(生命)は言うまでもなく無尽蔵です。そうであるのに、生まれつきの盲人を癒す場面で監督は、弟子たちの腕に倒れ込むイエスを描いたのです。イエスの内から力(生命)が流れ出たと言わんばかりにです! それは私にとって新鮮な驚きであり、発見でした。
Ⅱ.救いの時
イエスが癒しを行う時、イエスの内から力(生命)が流れ出る! このことを象徴的に描いたのが、十字架にかけられたキリストの体から血と水が流れ出た、と証言したヨハネの記事です(19:34)。この血と水は、聖餐と洗礼のサクラメントのことであると言われます。聖餐も洗礼も十字架のキリストを直に体験するサクラメントです。聖餐と洗礼のサクラメントで十字架のキリストに直に触れるとは、どのような経験なのか? ヨハネはそれを次のように描きます。「この後、イエスは、すべてのことが成し遂げられたのを知り、『わたしは渇く』(口語訳)と言われた」(19:28)。イエスは十字架に上げられることで、カラカラに渇くまで無尽蔵の生命を注ぎ出し、私たちの罪、咎、汚れを洗い清められたのです。
マルコが盲人の癒しを題材にして描いたのは、この十字架のキリストではないのか? 十字架のキリストだから、霧に閉ざされたかのようにしか表現できないのです。イエスと弟子たちがベトサイダに着くと、人々はイエスのところに一人の盲人を連れて来て、触れていただきたい、と願います。するとイエスは人々を残したまま、盲人の手を取り、村の外に連れ出したのです。なぜイエスは、癒しを行うのに二人きりになられたのか? この人を癒すのに手間取ることを、人々に知られたくなかったのでしょうか。その真相は、イエスと盲人の会話にあります。イエスは盲人と二人きりのところで、盲人の目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」と尋ねます。盲人は、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と答えます。盲人は村の外に連れ出され、イエスと二人きりです。つまり、「人が見えます」とはいう「人」は、イエス以外ではあり得ないのです。しかもそのイエスは、「木のようで、歩いている」というのです。この描写でマルコは、十字架を背負って、ゴルゴダに向かって歩いているイエスを描いたのではないのか? この後イエスがもう一度両手をその目に当てると、盲人は癒やされて、何もかも、すなわち十字架のキリストがはっきり見えるようになったのです。これが、マルコがこの癒しを題材にして描こうとしたことではないのか。
この解釈が度外れた解釈でないことは、この癒しの記事に続く、ペトロのキリスト告白と(8:27−30)、人の子の受難と死と復活についての教えから明らかです(8:31以下)。ベトサイダを後にした一行は、フィリポ・カイサリア地方に向かいます。その途中、イエスは弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねます。弟子たちは、「洗礼者ヨハネだ」、「エリヤだ」、また「預言者の一人だ」と言っていますと答えます。それを聞くとイエスは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と言われます。するとペトロが、「あなたは、メシアです」と答えます。マルコはこの段落を、「するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」と結びます。弟子たちは、イエスが「メシア」であることを宣べ伝えるために召されたのです。そうであるのにイエスは、弟子たちに沈黙を強いたのです。なぜ?
その理由は、ペトロのキリスト告白にあります。それはこの後、イエスが弟子たちに、人の子の受難と死と復活について「あからさまに」(口語訳)語られたことで明らかになります。これを聞くとペトロは、「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」のです。マタイはこの時のペトロを次のように描きました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(16:22)。メシアが十字架で死ぬなって「とんでもないこと」であり、そんなことはあってはならない、とペトロは言ったのです。つまり、ペトロが「あなたは、メシアです」と言ったのは、業にも言葉にも力ある預言者、すなわち政治的メシアとしてなのです。イエスに政治的メシアの期待をかけることは、荒れ野の誘惑物語が明らかに示しているように、悪魔の誘惑です! だからイエスは、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とペトロを叱りつけたのです。このイエスの言葉の激しさから、事柄が琴線に触れたことが分かります。イエスは業にも言葉にも力ある預言者、政治的メシアではなく、人類の罪を贖う終末論的人の子メシアなのです。肉の目には、業にも言葉にも力あるイエスは、政治的メシアと映るのですが、人類の罪を贖う終末論的人の子メシアに対しては、肉の目は盲目なのです!
Ⅲ.イエスの渇き
イエスに政治的メシアの期待をかけることは、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」という、いわゆる自己崩壊です。この自己崩壊を真正面から取り上げたのが創世記3章の堕罪物語です。取って食べてはならない禁断の木の実、「善悪の知る木」の実を取って食べたことで、人間は神の祝福を失ったのです。神に祝福されて、一体である男と女の関係(創世記2:24)は崩れ、女は男に支配されるという呪われた関係に堕ちたのです(3:16)。この罪を認識する者はフェミニズムの限界を知るのです。また、神の息(霊)によって生きる者になった男は(2:7)、一生額に汗して食べ物を得、ついには土に返るのです(17−19)。土に返る、とは、神の息(霊)が人間から去るということです。それは文字通り死を意味します。
詩編102編の詩人は、人間は神を賛美するために創られたと歌いました(19)。人間は礼拝する存在、神をほめたたえることを本質とする人間、「ホモ・アドランスhomo adorans」なのです。その人間が神のようになろうとして神賛美を失ったのです。その失われた神賛美を回復するために、神は御子イエス・キリストを十字架に上げられたのです! それを最も美しく歌い上げたのがフィリピ2:6以下、初代教会の讃美歌です。
_キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執せず、己を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順でした。それゆえ神は、キリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名を与えられた。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです!_
わたしは、マルコがベトサイダの盲人の癒しを題材にして描いたのは、十字架のキリストによる神賛美の回復であると考えます。言い換えますと、ベトサイダの盲人の癒しは、ペトロのキリスト告白と、人の子の受難と死と復活についての教えを読み解く鍵なのです。どういうことかと言えば、イエスは、十字架を負って歩むご自分の姿がはっきり見えるまで、何度でも、弟子たちの盲目の目に手を当て、「何か見えるか」と言ってくださるということです。私たちの盲いた肉の目を開くために、イエスは十字架への道を歩まれたのです! それを端的に描いたのが、教会の迫害者パウロの回心物語です。主の弟子たちを縛り上げ、エルサレムに連行しようとダマスコ途上にあったとき、突然、天からの光が彼の周りを照らし、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と語りかけたのです。そのときパウロは、幻のうちに、栄光に輝く十字架のキリストを見たのです。十字架のキリストを見て、地に倒れ込み、「わたしは、なんという惨めな人間なのか。誰がこの死の体から救ってくれるだろうか」と叫んだのです。このパウロの叫びは、善悪を知る木の実を取って食べた、土に返る人間の叫びです。つまり神賛美を失った人間の根源的な叫びです。
マルコはベトサイダの盲人の癒しで、イエスは盲目の肉の目を開くために、何度でも私たちに手を触れてくださることを描いたのではないか。それが主の晩餐の秘義なのです。私たちは主の晩餐で、十字架のキリストの「渇き」を見るのです! イエスは十字架に上げられることで、カラカラに渇くまで無尽蔵の生命をすべて注ぎ出し、私たちの罪、咎、汚れを洗い清められたのです。イエスは何度でも、盲しいた肉の目に触れてくださり、「何か見えるか」と語りかけてくださるのです。私たちはこの語りかけを主の晩餐が祝われる度に聞くのです。聞いて、シメオンと共にこう告白するのです。
_主よ、今こそ、あなたは御言葉のとおりに
この僕を安らかに去らせてくださいます、
わたしの目が今あなたの救いを見たのですから_(ルカ2:29−30)。
ここに失われた「ホモ・アドランス(賛美する存在)」は回復されたのです! だから私たちは、キリストの肉を食べ、血を飲むことで、主が来られる日まで、主の死を告げ知らせるのです。