讃美歌 234A
イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。(マルコ4:26−29)
Ⅰ.主の僕の証人として
イエスはローマ帝国に対する反逆者として十字架で処刑された後、死から甦えり、四十日にわたり弟子たちに現れ、天に上げられました(使徒1:3)。その十日後、ユダヤの三大祭(申命記16章)の一つ五旬祭のとき、〔五旬祭は過越祭から50日後に行われる祭りで収穫祭ともいわれる〕、弟子たちが一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、弟子たちが座っている家中に響きわたったのです。
この光景は、イザヤが神殿で神の臨在に触れたときのことを思い起こさせます。そのとき、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」と呼び交わすセラフィムの声によって神殿は、敷居の基から揺れ動いたのです(イザヤ6:1−4)。突然、激しい風(神の息、霊)が吹き荒れるような音が天から聞こえ、弟子たちが座っている家中に響きわたったのです。
弟子たちに対するこの圧倒的な聖霊降臨は、イエスがヨハネから洗礼を受けた時の聖霊降臨とは趣を異にしていますルカは、イエスが洗礼を受けた時、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に下って来た」と描きました(3:21−22a)。聖霊が鳩のように、とは、平和の象徴です。それは天からの声、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3:22b)と密接に関係します。イエスはヨハネから洗礼を受けたとき、第二イザヤが語った「主の僕」(42:1)としての召命を受けたのです。主の僕は、傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことのない柔和な方(42:3)なのです。
では、弟子たちへの聖霊降臨でルカは何を描いのか? そのことを思い巡らしていた時、エゼキエルが語った神がイスラエルの汚れを洗い清める光景が思い浮かびました神は清い水をイスラエルに振りかけ、すべての汚れを清め、新しい心、新しい霊を置くと言われたのです(36:25−26)。ルカは、弟子たちへの聖霊降臨で、弟子たちの罪、汚れを清め、新しい心、新しい霊が置かれたとしのではないか。
なぜそのように考えたかと言えば、神殿で神の臨在に触れたイザヤが、「災いだ。わたしは滅びる。わたしは汚れた唇の者」と叫ぶと、神は祭壇の燃える炭火でイザヤの汚れを清めます。そしてこの後、イザヤは派遣されるのです。つまり、イザヤの派遣が罪の赦しの体験の後に起こったように、弟子たちの派遣も、イエスの血により罪が清められたことを聖霊によって確信した後に起こるのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)。 聖霊の照明を祈り求めつつ、私たちも初代の弟子たちのように聖霊を受けて、世界宣教に乗り出したいと思います。
Ⅱ.痛みの下に横たわる世界
聖霊により罪の赦しを実感した弟子たちは世界宣教に乗り出す! それを象徴的に描いのが、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(4)です。このときエルサレムには、五旬祭(収穫祭)を祝うために世界中に散っていたユダヤ人たちと、ユダヤ教に改宗した異邦人がいました。ルカはその国々を一つ一つ丹念に数え上げます。「わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいる」と。
聖霊に満たされた弟子たちは、“霊”が語らせるままに、国々の言葉で「神の偉大な業」を語ったのです。ルカが描くこの光景を黙想していたとき創世記11章、バベルの塔の物語に導かれました。それは、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」で始まり、「主が……全地の言葉を混乱させた」で閉じられる物語です。
なぜ神は、言葉を乱し、互いに意思の疎通ができないようにされたのか? それは同じ言葉を使っていた人間が、天に届く塔を建て始めたからです。天に届く塔を建てるとは、神の領域に足を踏み入れるということです。土の塵で造られた人間が、聖なる神の領域に踏み入ろうとしたのです! それが、取って食べてはならないと禁じられた「善悪を知る木の実」を取って食べた人間の〈原罪〉です(創世記3章)。「善悪を知る」とは、神のようになる、という意味です。御言葉はそれを、「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」と語ります(3:22)。
この〈おそれ〉が現実のものになったのがバベルの塔の物語です。語り手はそのを次のように描きます。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない」(6)。神が、人間の企てを見て、途方に暮れているのです。ここには、「人間の恐るべき可能性に直面したときの真の古代人の恐怖を感じとることができる」と解釈した人がいます。
私たち現代人が感じている恐怖は、古代人が感じた恐怖を遥かに超えています。アンドレ・ヴァラニャックは、「あらゆる技術革新は集団の死の危険をはらんでいた」と語りました。それを象徴しているのが原爆です。産業革命以来、過去二世紀間の科学技術のめざましい発展は、人間精神に、それに見合う発展をもたらしませんでした。「現在は精神にせよ、人間性にせよ、愛や創造力にせよ、貧困を目ざしての破滅的な下降」にあるのです(ヤスパース『歴史の起源と目標』)。真に恐ろしいのは、効率よく敵を殺す兵器を生み出す人間の心です。それは血を凍らせ、心臓をしびらせる、ぞっとするような、身に迫る悪です。
私たちが今、現に生きている世界は、バベルの塔の物語に象徴される世界、つまり何も生み出し得ない、呪われた死の世界です。その呪われた世界、死の相のもとに横たわる世界に「神の偉大な業」、すなわちイエス・キリストの死と復活を告げ知らせるために、弟子たちは聖霊を注がれたのです。ナザレのイエスが十字架で死に、甦ったことで、人間の罪により呪われた世界、死の相のもとに横たわる世界は、命溢れた祝福された世界に再創造されたのです。今や前途の希望もなく打ちひしがれている人々に助けの手が伸べられ、死人に等しかった人々に新しい生命が与えられたのです。生命の水が流れ、呪われた時は終わり、楽園の門が開かれたのです!
「しかし」、と人は言うかもしれません。私たちの目の前に横たわる世界は、依然としてバベルの塔の物語の世界、地は混沌として、闇が深淵の面にあり、強風が間断なく吹き荒れる世界ではないのかと。この問いに答えたのがロマ書8章18節以下です。パウロは言います。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると取るに足りない。被造物は虚無に服していますが……同時に希望も持っています。いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物は今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」と。この呻きは、助け給え、助け給え、という宗教的問題の真の核心です。
こう語った後パウロはさらに言葉を続けます。「“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。……同様に、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成している」と。虚無に服した被造物が、神の子たちが現れるのを切に待ち望んで呻いているだけではない。“霊”の初穂をいただいた神の子供たちが、そして聖霊が呻いているのです! ペンテコステの日に、弟子たちが聞いた天から聞こえた激しい風の音とは、聖霊の呻きではないのか。パウロは被造物の呻き、神の子たちの呻き、聖霊の呻きで、被造物が神の子とされること、つまり体が贖われる希望を語ったのです。
Ⅲ.大いなる信頼
このキリストにある希望を思い巡らしていた時、ヘロドトスが伝えるギザのピラミッドの一つを建てたメンカフラーの逸話が思い起こされました。メンカフラーはそれまでの悪政を正し、神への生贄も再開し、大いに善政を施します。そんなある日、彼のもとに、「お前は後六年生き、七年目には死ぬ」という神の託宣が届きます。この託宣を聞くとメンカフラーは、おびただしいローソクを作らせ、夜になるとそれに火を灯して歓楽に耽り、「夜も昼にして」六年の余命を十二年に使ったというのです。M・エリアーデは、「死の神秘を思索することによって、エジプト人はその天才によって最後の宗教的総合を実現した。これは、エジプト文明の終焉まで、その優位を保った唯一の総合である」と語りました(『世界宗教史』)。もしメンカフラーが魂の永生を本当に信じていたのなら、どうして「夜を昼にして」まで現世に執着する必要があったでしょうか。
このメンカフラーと対極の生き方をしたのが、イエスが「成長する種の譬え」で語った農夫です。四年サイクルの教会暦は今年、聖霊降臨祭に読まれる福音書としてマルコ4章26節以下、「成長する種」の譬えを指定しています。
イエスは言われます。農夫が土に種を蒔いてから、夜と昼、寝たり起きたりしている間に、土はひとりでに実を結ばせる。農夫はわけも知らず、また収穫のために何もしないのに、種は茎から穂に、穂から熟した穀物に成長する。そして実が熟すと、早速、鎌を入れる。「刈り入れの時が来た」(29、ヨエル4:13)からであると。
この譬えを聞いた人たちは、イエスは農作業のことを何もわかっていないと思ったのではないでしょうか。農作業は種を蒔いたら終わりではなく、種がよく育つように農夫はいろいろ労するのです。イザヤが語った「ぶどう園の歌」(5:1−6)のようにです。ところがイエスは、農夫は何もしないで、「夜昼、寝起きしているうちに」、種は自ずと成長し、実を結ぶと語られたのです。 それが神の国であると!
この譬えは、イスラエルに古くから伝わる「聖戦思想」を彷彿とさせます。エジプトを脱出したイスラエルの民が紅海を渡る時、つまり前に海、後ろにエジプト軍、行くも死、帰るも死、止まるも死という極限状況にあるイスラエルの民に、神はこう言われたのです。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。……主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(出エジプト14:13、14)。農夫が何もしないのに種は自ずから実を結ぶように、聖戦は、人間の協働を一切求めないのです。つまりイエスは、自ら成長する種の譬えで、私たちを救うために神が戦われる聖戦に対する信頼を求められたのです。
この譬えでもう一つ、注目したいテキストがあります。それは、神がノアの洪水の結びで語られた言葉です。神は言われます。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思いはかることは、幼い時から悪いのだ。……地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、……昼も夜も、やむことはない。」神は、人間が心に思いはかることは幼い時から悪いにもかかわらず、二度と滅ぼさないと誓われたのです。この神の誓いは、御子イエスを十字架に上げる「神の偉大な業」(使徒2:11)、聖戦において成り立つのです!
先ほど紹介したメンカフラーの生き様は現代人の生き様そのものです。現代人も、夜を昼のようにして、今を生きる歓楽に耽っているのです。現代文明の基本的性格の一つは〈新しさ〉の追求に見られます。新しさの追求という生き方の最大の問題は、焦点が〈今〉だけにおかれ、過去も未来も見えなくなる点にあります。「わが亡き後に洪水来れ」、「後は野となれ山となれ」という生き方です。結果、地は混沌として、闇が深淵の面にあり、強風が間断なく吹き荒れる世界と化したのです。この廃墟と化した世にあって、聖霊に満たされた教会は、荒れ野に囲まれた生を忠実に生きながら、倦むことなき忍耐をもって、天の都を目指して歩むのです。
教会は、御子イエス・キリストの十字架の死と復活という神の聖戦により、時が良くても、悪くても、御言葉を宣べ伝えるのです。「恐れるな、小さき群れよ。御国を下さることは、あなた方の神の御心である!」(ルカ12:32)。