2026/8/2 聖霊降臨節第11主日  「平和のシンボル」

マルコによる福音書9:42-50、エフェソの信徒への手紙2:14-17、詩編12:1-8
讃美歌 531

人は皆、火で塩味を付けられる。……自分自身の内に塩をもちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。(9:49、50)

 

Ⅰ.グロテスクな警告

きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言葉はマルコ福音書9章42節以下です。ここには、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい」という真に烈しい導入句のもとに、幾つかの単元がまとめられています。ちなみにマタイは、マルコがここにまとめたものを別々の文脈で伝えています。例えば42節の導入句とそれに続く、片手、片目、片足が罪を犯したら切って捨てよは、18章6節以下で、罪への誘惑で扱い、そして塩に関する訓戒は5章13節以下に配置しています。つまり本来別々に伝承されたイエスの言葉をマルコは一つにまとめたのです。竜安寺の石庭は、別々の所にあった石をあのように配置することで独特な精神性を作り上げたのですが、マルコは別々に伝承されたイエスの言葉を一つにまとめることで、どのような世界を描き出したのでしょうか。聖霊の照明を祈り求めつつ、御言葉に聞きたいと思います。

まず注目したいのは、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい」という導入句です。イエスはご自分を信じる者を「小さい者」と呼ばれます。ある聖書学者は「小さい者」とは、「心の貧しい者」(マタイ5:3)、つまり霊的に貧しい者と解釈しました。わたしは「小さい者」とは、文字通り無価値な者、つまり「貧しい人」、「今飢えている人」「今泣いている人」(ルカ6:20−21)であると考えます。そう考える理由は、福音書において、イエスを信じ、イエスに従った人々の多くが繰り返し「徴税人や娼婦」(マタイ22:32)、あるいは「罪人」(マルコ2:7、ルカ7:37、39、15:2、19:7)と呼ばれていることです。これらの呼び方にはあからさまな軽蔑感が込められていることから、イエスの敵対者が与えた呼び名であると解説した人がいます。初代のキリスト者たちは、敵対者が与えた呼び名を自分たちのものとしたのです。なぜ? それはイエスが、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(2:17)と言われたからです。ちなみに「招く」とは、終末の祝宴に招くという意味です。

それを象徴的に描いのが徴税人や娼婦、罪人たちとの食事です。イエスと徴税人、罪人たちとの会食は単に社会的次元の出来事ではなく、またイエスのひときわすぐれた人間性、人を差別しない心のゆたかさ、踏みつけられている人々への深い同情が表現されているだけではありません。その意味は一層深い次元に及んでいるのです。それは終末の完成の時に催される救いの祝宴の先取りであり、この食事において神の家族が目に見える形をとるのです! 食卓を共にする形で罪人が救いの共同体に迎え入れられているのであって、それは人を救う神の愛を誰の目にも最も印象的な仕方で表現しているのです。終末の完成の時に催される救いの祝宴を先取りした罪人たちの食事において、神の家族が目に見える形をとるのです。

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい。」これを受けて語られた言葉もぎょっとするような警告です。片手、片足、片目が、小さい者の一人をつまずかせるなら、切って捨てよ。両手、両足、両目が揃ったまま地獄に投げ込まれるよりは、片手、片足、片目になっても命にあずかる方がはるかに良いと言うのです。言うまでもなく、イエスはこれを文字通り実行せよと言われたのではありません。片手、片足、片目が罪を犯すのではないのです。「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生む」(ヤコブ1:14)のです!

イエスは、両手、両足、両目が揃ったまま地獄に投げ込まれるよりは、片手、片足、片目になっても「命にあずかる」(43、45)、すなわち「神の国に入る」(47)方がよいと言われます。その理由は「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」からであると。この言葉は、「イザヤ書」の結び、「蛆は絶えず、彼らを焼く火は消えることがない」(66:24)から取られたものです。イザヤはこの言葉を、神の栄光の顕現を語る結びで語りました。イザヤは神の栄光の顕現を、「わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人」(66:2b)であると語り、その結びで、神を神としない者が受ける報いを、「蛆は絶えず、彼らを焼く火は消えることがない」と語ったのです。この言葉をイエスは、小さい者をつまずかせる者に向けて語られたのです。ちなみに、口語訳聖書はこの言葉を44節と46節で繰り返しています。新共同訳は、翻訳のよりどころとした原本にこの二つの節が欠けていることから省きました。この言葉を三度繰り返した写本があるとは、この言葉が繰り返されねばならない教会の事情があったということか。教会の内部に目を向けると、多くのものが腐っていたというということか。

Ⅱ.私の中の地獄

ところで、すべての宗教が、蛆がわき、消えることのない火で焼かれる地獄の責め苦を語ります。地獄の責め苦を語ること、それがイエスの真意か。そうでないことは、〈万民とイスラエルの救い/ロマ9−11章〉について語られたロマ書11章32節から明らかです。そこには、「神はすべて人を不従順の状態に閉じ込めましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです!」とあります。「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」という隠喩でイエスは、「すべての人を憐れむ」神を浮き立たせたのです。

この点を象徴的に描いのが49節、「人は皆、火で塩味を付けられる」です。ちなみに、塩の効きめについての言葉はマタイにもルカにもありますが、「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」も、「人は皆、火で塩味を付けられる」もマルコに固有の言葉です。この言葉の「解釈はもっと難しい」と言った人がいます。そして教会の長い歴史の中でこの箇所がどう読まれたかを紹介します。_塩は犠牲を捧げるとき用いられるので、「塩を保て」というのは、身を捧げる心の備えをせよ、ということを意味したのであろうか? それとも、弟子たちの宣べ伝える使信が、塩になぞらえられたのであろうか? あるいはまた、健全な人間の悟性、愛の業、終末時における知恵、食事を共にすること、または単純な平和のシンボルとして考えられているのであろうか? こう言った後、「しかし」と言って、「自分をささげて苦しみを受け、この世に抵抗し、互いに平和を保つ精神を持て、と解するのが最も穏当だと思われる」と結びました。これが、イエスの難解な言葉の意味でしょうか?

マルコは「人は皆、火で塩味を付けられる」という言葉に何を聞いたのか? マルコがここにまとめた文脈からすれば、人に塩味を付ける「火」とは、「地獄の火」(43、48)以外の何ものでもありません。いったい、マルコは、「人は火で塩味を付けられる」の「火」を、「地獄の火」と解釈することで、どのような精神世界を描いたのか? そのことを黙想していた時、黒田平治の遺稿集『キリストの足音』の一節が思い起こされました。黒田さんは、敗戦後数年して東大理学部数学科の副手に採用されながら、その一年後、喉頭結核を患い、闘病、そして召された「無名の一数学者」です。この人の遺稿集(『キリストの足音』)にこんな言葉があります。

「わたしたちは罪を是認すべきではない。罪と戦わねばならぬ。そして勝たねばならぬ。だが人は罪を犯してはならぬのにしばしばこれを犯す。ゆえにわたしたちは罪を犯さないことによって罪に勝つことは不可能である。」こう言った後、黒田さんは視線を180度転回します。「すでに犯した罪が心を責めても、いつまでも責め続けないように神に心をおゆだねして安んじていよう。そして勝利をいただこう。これ以外に罪に勝つ方法はないからである。」

わたしはこの黒田さんの言葉に、「人は皆、(地獄の)火で塩味を付けられる」を読み解く鍵がある、と考えます。それとの関連で注目したいのは、詩編12編6、7節です。詩人は歌います。「主は言われる、『貧しい者がかすめられ、乏しい者が嘆くゆえに、わたしはいま立ち上がって、彼らをその慕い求める安全な場所に置こう。」詩人は、神は貧しい者、乏しい者のために立ち上がり、彼らが慕い求める安全な場所に置いてくださると歌うのです! しかもこのように語る「主のことばは清き言葉である。地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のようである」(5、6 口語訳)と。

Ⅲ.平和のシンボル

詩人は、主の言葉の清さを語るのに、〈天の炉で〉と言わず、〈地の炉で〉と言ったのです。天の炉で練り清める方が、地の炉で練り清めるよりも比較を絶して清いのではないか。 そうであるのに詩人は「地の炉で」と語ったのです。詩人は「地の炉」で何を考えていたのか? それは7節に、「虐げに苦しむ者と、呻いている貧しい者」とあるように、人間の苦悩のすべてではないのか。
仏教者であり小説家武田泰淳が『私の中の地獄』に記した言葉が心に迫ります。「地獄を知り尽くすことはできない。地獄の地獄性は、それほど限りないものである。……地獄とは何か。人間の苦悩のすべてである。……つまずきがある、壁がある、矛盾がある、絶望がある、迷いがある、暗やみがある、疑いがある。……醜さがある、汚れがある、弱さがある、競争がある、攻撃がある、抹殺がある。」詩人の言う「地の炉」とは、武田の言う人間の苦悩のすべてなのです。神の言葉は、人間の苦悩によって練り清められた言葉であるがゆえに、苦しむ人間を救うことができるのです。

「虐げに苦しむ者と、呻いている貧しい者のために、今わたしは立ち上がり、彼らが喘ぎ望む救いを与えよう」(詩編12:7)。この詩人の言葉と呼応するのがイザヤ書53章、「主の僕」の歌です。旧約聖書の最高峰といわれる第二イザヤは、苦しむ者のために立ち上がる〈主の僕〉を次のように描きました。

「彼が担ったのはわたしたちの病、
彼が負ったのはわたしたちの痛みであった……。
彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、
彼が打ち砕かれたの、わたしたちの咎のためであった。
彼が受けた懲らしめによって、
わたしたちに平和が与えられた。」(53:4−5)。

わたしはこの主の僕に、「人は皆、火で塩味を付けられる」を読み解く鍵があると考えます。どういうことかと言えば、人は皆、私たちの罪をすべて身に負い、私たちに代わって神から裁かれた十字架のキリストによって! 塩味を付けられるということです。言い換えれば、十字架のキリストを信じる信仰だけが、私たちを罪の腐敗から守ることができるのです。だから黒田さんは、「犯した罪が心を責めても、いつまでも責め続けないように神に心をおゆだねして安んじて」と語ることができたのです。
イエスは「虐げに苦しむ者と、呻いている貧しい者のために立ち上がり、彼らがあえぎ望む救いを与える」ために十字架に上げられ、地獄の苦しみを舐め尽くされたのです! 神の独り子イエス・キリストが私に代わって地獄の火で焼かれたことで、私たちが「あえぎ望む救い」、「平和」が与えられるのです。「彼が受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられた!」(53:5)。

だからマルコはこの単元を、「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」と結んだのです! 自分自身の内に塩を持つとは、「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられる」ということなのです。エフェソ書の著者は十字架のキリストによる平和を次のように語りました。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉おいて敵意という隔ての壁を取り壊し、……双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、……平和の福音を告げ知らせられました!」

十字架のキリストにこそ、わたしたちが喘ぎ求める救い、平和があるのです。キリストの十字架は〈平和のシンボル〉なのです! 闇の中を歩む民は、十字架のキリストに光を見るのです。十字架のキリストという光が死の陰の地に住む者の上に輝いたのです。この平和を誰の目にも見えるしるし(シンボル)としたのが、徴税人や遊女、罪人、つまり小さい人たちとの会食、主の晩餐です! 私たちは主の晩餐において、「虐げに苦しむ者と、呻いている貧しい者のために、今、立ち上がる」イエスを見るのです! ハレルヤ!

私たちも詩編74編の詩人のように、声を限りにこう歌おう。
神よ、立ち上がり御自分のために争ってください。
どうか、虐げられた人が再び辱められることなく
貧しい人、乏しい人が、
御名を賛美することができますように。(21、20)。

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