2026/7/26 聖霊降臨節第10主日  「底辺を生きる人」

マルコによる福音書9:30-41、ヨハネの手紙一 4:16-17、申命記16:9-12
讃美歌 391

イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(9:35)

 

Ⅰ.反キリスト的議論

きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言葉はマルコ福音書9章30節以下です。ここにはキリスト教の最も大切な教え、人の子の受難と死と復活に対する弟子たちの無理解を描いた二つの記事が伝えられています。一つは、人の子の受難という人智では到底計り知ることのできない神の救いの計画が語られた時、弟子たちは、だれが一番偉いかを議論していたこと、もう一つは、イエスの名によって悪霊を追い出していた人を、自分たちに従わないのでやめさせようとしたという記事です。自分たちに従わないのでやめさせようとしたことが、なぜ、十字架のキリストに対する無理解なのか? 新約において従うことが求められるのは、イエスだけだからです。ところがヨハネは、「われわれに従わないので」と言ったのです。しかも原文では二度「われわれ」と言っているのです。マルコはこのように描くことで、ヨハネは自分の十字架を背負ってイエスに従っていないことを暴露したのです。

こうしてマルコは受難告知のあとに、弟子たちの無理解を暴露することで、もう一度、御後に従えと呼びかけるのです。それが、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」という言葉です。聖霊の照明を祈り求めつつ、「仕える者」になるために、共に御言葉に聞きたいと思います。
まず注目したいのは、受難告知に対する弟子たちの反応、「怖くて尋ねられなかった」(32)です。「怖くて」と訳されたこの語は、新約において最も重要な恐れの表現です。語源的には「逃げる」に結びつき、「驚愕、身震い、パニック」などの具体的な反応を指します。このニュアンスを最もよく伝えているのが、イエスが葬られた墓から逃げ出した婦人たちです。マルコはそれを次のように描きました。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(16:8)と。マルコは墓から逃げ出した婦人たちの「震え上がり、正気を失う」恐れで、人の子の受難告知を聞いた弟子たちの「恐れ」を描いのです。「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」と。

それにしてもなぜ弟子たちは、人の子の受難の意味が分からなかったのに、「主よ、それはどういう意味ですか」と尋ねることを恐れたのか? それは第一回の受難告知の後、ペトロが「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と激烈な言葉で叱責されたことと関連しているのではないか。言い換えればマルコは、「怖くて尋ねられなかった」という表現で、弟子たちはなお依然として、「神のことを思わず、人間のことを思って」いたことを描いのではないか。

それが、「誰が一番偉いか」という議論です。「誰が一番偉いか」は、反キリスト教的議論です。というか、取って食べてはならない「善悪を知る木の実」を食べて、「神のようになった」の宿命です。この誘惑から逃れうる者など一人もいないのです。 レーヴェニヒは迫害下の教会にもこの反キリスト教的議論があったと語ります。_教会は耐え抜いた。われわれはこのことについて神の導きの奇跡を崇めるのが当然である。教会の内部の状態に目を向けると、そこでは多くのものが腐っていた。……聖職者の間では、聖職者にあるまじきさまざまの独善的態度や反キリスト教的権勢欲がはびこっていた。(『教会史概論』)_

迫害下の教会にもはびこっていた反キリスト教的権勢欲は、キリスト教がローマから承認されたことで平常のありさまとなります。ローマ法王を頂点するヒエラルキー(位階制)、権力構造ができあがったのです。キリスト教の様相は一変しました。キリスト教会は、多くの富と政治の特権を獲得し、急速に、世俗化への道を歩みはじめたのです。レーヴェニヒの言葉が心に迫ります。「教会は、たとい全世界をもうけても、自分の魂を損したら、何の役に立つであろうか。」残る時間、マルコがここで描いた記事に聞き、魂の救いを得たいと思います。

Ⅱ.ディアコネオーとドゥレウオー

イエスが人の子の受難と死と復活について語っていた時、弟子たちは、「誰がいちばん偉いかと議論し合っていた!」(34)。ある研究者は、マルコはこの記事で、イエスの歩まれる道に対する弟子たちの無理解を強調することで、イエスの弟子の特徴を浮かび上がらせる、と解説しました。マルコが浮かび上がらせたイエスの弟子の特徴とは、「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になる」ということです。

『ギリシア語釈義事典』によりますと、「仕える(デイアコネオー)」という語の新約における意味の根源は、イエス自身の言葉と振る舞いから派生し、イエスの全活動と死とを「奉仕」とした最初期の解釈から出ています。この語は、「全く個人的に他の者に示される奉仕」という特別な響きをもっており、特に注目に値するのは、〈ドゥレウオー/奴隷として仕える〉との間の意味上の相違である、と。ドゥレウオーが「主人」に対する「奴隷」の依存関係および従属を表現するのに対して、ディアコネオーは、だれそれの利益を図ってなされる奉仕という思想をずっと強く言い表す、と。

この『ギリシア語釈義事典』の解説を反芻しているとき、ふと、イエスがここで語る「すべての人に仕える」は、〈ディアコネオー〉ではなく、〈ドゥレウオー〉ではないのか、との思いに捉えられました。実は、マルコは、この主題を10章35節以下で詳細に展開しています。ヤコブとヨハネが、イエスが栄光を受ける時、一人をあなたの右に、一人を左に座らせてくださいと願い出た記事です。この願いを聞いたイエスは、「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」といい、一同を呼び寄せてこう言われたのです。「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と。こう言ってイエスは、弟子たちが「すべての人に仕える」根拠として、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と言われたのです。 これはイザヤ53:10−11の苦難の僕を手本にした表現であるというのが一般的です。つまりマルコは、キリスト者がすべての人に仕える者である根拠は、人の子がすべての人に仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げたことにあるとしたのです。言い換えれば、マルコは、イエスの奉仕に、〈奴隷として〉の奉仕を見たのです。

このことを最も印象的に表現したのがヨハネ福音書です。ヨハネは最後の晩餐を、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、極みまで愛し抜かれた」と導入し、その愛をイエスの行動で描きました。イエスは食事の席から立ち上がると、上着を脱ぎ、腰の手拭いを巻き、たらいに水を汲み、弟子たちの足を洗い、手拭いてふかれたのです(13:4−5)。足を洗う! それは奴隷の仕事です。つまりイエスは弟子たちに対する極みまでの愛を、奴隷の奉仕で表現したのです。主であるイエスが奴隷として奉仕されたのです。イエスの弟子たちは僕として底辺を生きる以外にないのです!

ヨハネの第一の手紙の著者はそれを次のように言い表しました。「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内にまっとうされ……この世でわたしたちも、イエスのようである!」(4:16−17)。 「この世で、イエスのようである」とは、十字架のキリストに啓示された神の愛を生きるキリスト者は、イエスのように、奴隷として底辺を生きるということです! それを端的に表現したのがパウロです。パウロは自分のことを「キリスト・イエスの僕」(ロマ1:1)であると語り、同労者を「キリスト・イエスの僕たち」(ピリピ1:1)と言ったのです。

Ⅲ. 底辺を生きる者

マルコが、ヨハネが、そしてパウロが浮かび上がらせたキリスト者の特徴、この世でイエスのようである、つまり僕として底辺を生きるあり方との関連で注目したい旧約のテキストがあります。申命記16章、ユダヤの三大祝祭日の一つ、「刈り入れの祭り(七週祭)」の結びで語られた言葉、「あなたがエジプトで奴隷であったことを思い起こし、これらの掟を忠実に守りなさい」(12)です。三大祭(過越祭、七週祭、仮庵祭)は成人男子に課せられた祭りです(16)。ユダヤの民は年三回、エルサレム神殿で行われる大祭に参加することで、エジプトで奴隷であったことを思い起こさねばならなかったのです! それは十字架のキリストを記念する主の晩餐に引き継がれました。『ギリシア語釈義事典』は、イエスの全活動と彼の死をもっての献身を〈仕えること〉とする解釈は、恐らくパレスチナ教会の聖餐の祝いに持っていると解説しました。キリスト者は主の晩餐の祝いに参加することで、〈奴隷として仕える〉神の民に連なるのです。

マルコが、ヨハネが、パウロが、そして旧約聖書が浮かび上がらせた僕として仕える神の民の特徴との関連で最後に触れたいことがあります。それは、先週行われた「宣教計画」を巡る話し合いで提出された問い、「ボランティアと宣教(魂の救い)の違い」についてです。ボランティア、あるいはチャリティーで思い浮かぶのは、困っている人に手を差し伸べるということです。もう少し踏み込んだ言い方をしますと、持っている人が持っていない人に手を差し伸べることです。しかしイエスが弟子たちに求められる「仕える者」は「僕」(10:44)としての奉仕であり、底辺から支えることです。

それとの関連で紹介したい言葉があります。阪神淡路大震災に関連して語られた佐伯啓思の言葉です。佐伯氏は、「震災後、仏教、キリスト教を問わず、いかなる宗派による目立った宗教的救済活動もみられなかった……。今日では、もはや宗教が、この六千数百名にのぼる理不尽な死を納得させるような、いかなる力も持ち合わせていないことを誰もが知っているからである。宗教者の大半は、ボランティアとして援助活動をしただけであり、そのことはそれで有意義ではあっても、魂の救済という本職とはあまり関係がない。この不安感は、ボランティアという程度では相殺されるものではとてもない。」(『現代日本のリベラリズム』 講談社)。「神を信じないさまざまな教会が、今日、倫理会という名称で世界に普及しつつある」と言ったウィリアム・ジェイムズの言葉が心に迫ります。

改めて言うまでもなく、ボランティアやチャリティーは、キリスト教の専売特許ではありません。教会もボランティアやチャリティーに取り組みます。しかしそれはこの世が行うボランティアとは質が異なるのです。天と地ほども違う、と言っても過言ではありません。私たちが「主の晩餐による世界宣教」の主題の下、「すべての民の祈りの家」「憩いの場」「癒しの場」で目指すのは、僕として「仕える」魂の救済以外のなにものでもないのです。午後3時の祈りの時、神殿の「美しの門」で物乞いをしていた人に語ったペトロの言葉がそれを象徴しています。「わたしを見なさい。……金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって歩きなさい」(使徒3:4−6)。十字架のキリストに啓示された神の愛により、魂の救いを得て、永遠の命を生きるキリスト者は、この世では底辺を生きるのです! キリスト者は、十字架のキリストの下に重荷を下ろし、イエスの御名によって自分の全てを曝け出して祈る人なのです。

TOP