2026/5/31 聖霊降臨節第2主日   「霊による新生」

ヨハネ3:1-15、フィリピ3:5-11、創世記15:9-16
讃美歌 Ⅱ・184

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。……だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。(ヨハネ3:3、4−5)

Ⅰ.〈夜〉の両価性

きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)見上げ、心を高く上げて聞きたい御言葉は、ユダヤ人たちの議員、つまりユダヤ社会の宗教と政治の中枢にいたニコデモが、イエスのもとを訪ねて交わした会話です。ヨハネは、ニコデモがイエスを訪ねたのは「夜」(2)であったと記します。実は、イスカリオテのユダが最後の晩餐の席から姿を消したのも「夜」でした。ヨハネはそれを、「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。〈夜〉であった」と描きました。一人は夜、イエスのもとに来て、一人は夜、イエスのもとを去ったのです。「夜」にはいったい、どのような意味が込められているのでしょうか。

新約で「夜」が、純粋に時間を意味する例は殆どありません。旧約における宗教的用語法が新約に影響を及ぼしていると言われます。創世記1:5には、「光あれ」(3)と言われた神の創造的な言葉によって、混沌の闇が神の支配領域である「夜」に変えられたとあります。神は「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた」のですが、「呼ぶ」がそれです。旧約において「夜」は、神が栄光を現す時なのです。それを象徴的に描いのが、アブラムと契約を結ぶ伝承です。神はアブラムに、あなたの子孫は四百年の間エジプトで奴隷として生きる。その後、約束の地に導き入れると語り、アブラムが用意した犠牲を焼き尽くして契約を結ぶのです。語り手はそれを次のように描きます。「日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ」(創世記15:12)。このアブラムに臨んだ「恐ろしい大いなる暗黒」を私たちは、イエスが十字架に上げられた時にも見るのです。「昼の十二時になると、全地が暗くなった」(マルコ15:33並行)と。このように旧約において夜は、神の栄光を告げるのですが、他方、「夜」は混沌の無残りとして悪が働く活動領域であり、犯罪がはびこり、恐怖が支配する陰府をも意味するのです(詩91:5)。

この旧約における「夜」の象徴的機能が、新約に引き継がれたのです。例えば、イエスが湖の上を歩かれた記事があります(マルコ6:48)。それによりますとイエスは「夜が明けるころ」湖を渡って弟子たちのもとにやって来るのです。強風が間断なく吹き荒れる闇が追い払われたのです。また十人のおとめの譬えでは、花婿が来たという終末論的神の救いは、真夜中に告知されるのです。さらに人間の働きなしに自ずから成長する種の譬え(マルコ4:26−29)では、「夜と昼」が神の国の終末論的成長の過程を言い表しています。羊飼いに対する天使の告知も同様です(ルカ2:8)。羊飼いたちが「夜通し」羊の群れの番をしていた時、主の使いが彼らに近づき、主の栄光が彼らの周りを照らしたのです。また弟子の召命 (ルカ5:1−11)においても、「夜」がはっきりと終末論的含意を帯びています。「先生、わたしたちは〈夜〉通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」 収穫のなかった夜が明け、岸辺には朝の光の中にイエスが立っている!

つまりヨハネは、ニコデモがイエスのもとを訪ねた「夜」で、神の救済行為の全く新しい地平が開かれることを描いたのです。ヨハネはそれを、イエスに語りかけたニコデモの言葉で描きます。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」ヨハネはこのニコデモの言葉で福音書を閉じます。「イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、……これらのことが書かれたのは、……イエスは神の子であると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(20:30−31)と。

Ⅱ.肉の人、霊の人

ところで、この世に生を受けた人間の根源的な渇きである、神の国を見るというイエスとニコデモの対話は、噛み合いません。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」というイエスの言葉を聞くとニコデモは、「年をとった者が、どうして生まれることができましょうか。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。……どうして、そんなことがありえましょうか」(4、9)と言ったのです。ユダヤ教の中枢にいたニコデモが、イエスの言葉を全く理解しないのです。そのことを黙想していた時、キルケゴールの言葉が思い浮かびました。「枝の鳥、野の百合花、森の鹿、海の魚、そして無数の楽しげなる人間が『神は愛なり!』と歌っている。然しこれらのソプラノの下に恰も潜められたバスの如く、犠牲とせられ給いし人の『深き淵より』の聲が響く、曰く、『神は愛なり!』」

キルケゴールはこの言葉で、「神の愛」を歌うソプラノとバスの美しいハーモニーを語ったのではありません。キルケゴールは、無数の楽しげなる人間がソプラノで歌う『神は愛なり!』を聴いて、「友よ、此の調べにあらず!」と言って、バスで歌う「犠牲とせられ給いし人の『深き淵より』の聲、『神は愛なり!』」こそ、我が調べであるしたのです。心理学者W・ジェイムズは、ソプラノで神の愛を歌う「土壌は、ローマ教会のうちに見いだされる……が、プロテスタンティズムのなかにも、そういう種類の人間は実にたくさんいる」と語りました(『宗教的経験の諸相』)。

ソプラノで歌う「神は愛なり」は、現代の教会が直面している最も深刻な問題の一つです。北森嘉蔵先生は『神の痛みの神学』の第1章でそれを取り上げます。

_かつてアルブレヒト・リッチルは、「神についての充分なる概念は愛の概念の中に表現されている」ことを発見し、この「神の愛」によって「世界の問題が解決され得る」ことを確信して、喜びに満たされた。我々もまた出来ることならリッチルとこの喜びを共にしたく思う。世界の問題を解決する神の愛という音づれ以上に喜ばしき音づれがあろうか。然し我々はこのソプラノを聴いて、「友よ、此の調べにあらず!」と云はざるを得ないことを悲しく思う。シュライエルマッハー以後の近代主義神学における「神の愛」は要するに、この「楽しげなる人間」のソプラノに過ぎない。彼らは「深き淵より」響く神の痛みのバスを聞く耳をもたなかった、と。

いったい、ソプラノで「神は愛なり」と歌う人々の何が問題なのか? それは、罪の感覚の衰えです。W・ジェイムズは膨大な資料から、罪の感覚について次のように語ります。「血を凍らせ心臓をしびらせるぞっとするような、身に迫る悪の感覚」であると。パウロも、「血を凍らせ心臓をしびらせるぞっとするような、身に迫る悪の感覚」に苦しんだひとです。「わたしは、なんという惨めな人間なのだろう。だれが、この死の体から、わたしを救ってくれるだろうか」(ロマ7:24)。

ソプラノで歌う「神は愛なり」と、バスで歌う「神は愛なり」の間には越えることができない深い断絶があるのです! それを印象深く描いたのが「金持ちとラザロ」(ルカ16:19−31)の譬えです。毎日贅沢に遊び暮らしていた金持ちと、食卓から落ちるパン屑で腹を満たしたいと願うラザロが死んだ後、立場が逆転したという話です。金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、遥か彼方に、宴席でアブラハムのすぐそばにいるラザロを見ます。金持ちは大声でアブラハムに懇願します。「ラザロを遣わし、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」と。するとアブラハムはこう言ったのです。「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない」と。
これが、イエスが言われた、「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」の意味なのです。肉から生まれた者と霊から生まれた者との間には越え得ない深淵が横たわっているのです! しかも、信仰の父アブラハムでさえ、この深淵を越えることはできないのです。

Ⅲ.深い淵を越えて

この越えることができない深淵を越えるために、イエスは天を引き裂いて地に降られたのです! イエスは言われます。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかに、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」イエスの言われる「人の子も上げられねばならない」とは、天に上げられることと同時に、十字架に上げられることを意味しています。つまりイエスは十字架に上げられることで、天に上げられるのです。

イエスは自力で神の国に入ることができない人間を救うために天から降り、十字架に上げられることで、天に上げられる! イエスのこの言葉を思い巡らしていた時、キルケゴールが政治と宗教の物の見方について語った言葉が思い起こされました。キルケゴールは言います。

_現代においてはすべてが政治である(とは肉であるということ)。宗教的なものの物の見方は、つまり霊的なものの物の見方は、これとは天と地ほども相異しており、同様にその出発点や最終目標も、天と地ほども相異している。というのは、(肉である)政治的なものは地にとどまるために地で始めるが、一方、(霊である)宗教的なものはその端緒を上方からみちびきつつ、地上的なものを聖化して天にまで引き揚げようとするからである。_ イエスは十字架に上げられることで私たちを、越えることのできない深淵を越えて、天の領域に引き上げてくださったのです!

この陰府から天に引き上げられる大転換をパウロは次のように語りました。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラルの民に属し、……ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法の関してはファリサイ派の一員、……律法の義については非の打ちどころのない者でした。」イエス・キリストを知る前パウロは、肉を誇り、ソプラノで「神は愛なり!」と歌っていたのです。

そのパウロが十字架のキリストを知り、バスで「神は愛なり!」と歌う者になったのです。「しかし、わたしにとって有益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失とみなすようになったのです。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵芥とみなしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです!」

このように願う者は、「律法の義については非の打ちどころのない者」ではありません。「わたしは、なんという惨めな人間なのだろう。だれが、この死の体から、わたしを救ってくれるだろうか」と、「血を凍らせ心臓をしびらせるぞっとするような、身に迫る悪の感覚」を自覚する人です。

イエスはそのような者を清めて天に引き上げるために、十字架に上げられ、苦しまれたのです。イエスが十字架に上げられた時、恐ろしい大いなる暗黒が全地を覆ったのです。その暗黒の中でイエスは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」と叫ばれたのです。驚くべきことにヨハネはこの叫びに、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」愛を聞き取りました。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と。ヨハネは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」と叫ぶイエスに、「犠牲とせられ給いし人の『深き淵より』の聲、『神は愛なり!』」を聞いたのです。ヨハネもまた、「わたしは、なんという惨めな人間なのだろう。だれが、この死の体から、わたしを救ってくれるだろうか」との「血を凍らせ心臓をしびらせるぞっとするような、身に迫る悪の感覚」を生きたのです。この身に迫る悪の感覚を生きる人が、霊によって新しく生まれる者であり、彼は犠牲とせられ給いし人の「深き淵より」の聲、「神は愛なり」に合わせて、声を限りに、「神は愛なり!」と歌うのです。トマス・ア・ケンピスが『キリストに倣いて』の冒頭に記した言葉、「わたしは罪の悔い改めの定義を知るよりも、むしろそれを実感したい」との言葉が心に迫ります。

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