讃美歌 2編184
律法学者はイエスに言った。「……『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。(マルコ12:32−34)
Ⅰ.イエスへの殺意渦巻く中で
きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言葉はマルコ福音書12章28節以下です。ここには「あらゆる掟のうちで、第一の掟は何か」を巡るイエスと律法学者の対話が記されています。マルコはこの記事を「もはや、あえて質問する者はなかった」(34b)と結び、イエスに向けられた〈最後の問い〉であるとしました。ちなみに、マタイはこの後の「ダビデの子についての問答」(22:46)を、そしてルカはこの前の「復活についての問答」を最後の問いとしています(20:39)聖霊の照明を祈り求めつつ、なぜマルコは第一の掟を問う問いを最後の問いとしたのか、御言葉に聞きたいと思います。
イエスが力ある業と権威ある新しい教えで神の国の福音を宣べ伝えると、その評判は「たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まりました」(1:28)。そんなある日、イエスは安息日に片手の萎えた人を癒されます。するとファリサイ派の人々は、神を第一とする安息日を破ったとして、ヘロデ派の人々と一緒にイエスを殺す相談をし始めたのです(3:6)。イエス殺害を目論むファリサイ派とヘロデ派にマルコが再び言及するのは、「皇帝への税金」(12:13−17)をめぐる記事においてです。「人々は、イエスの言葉じりを捕らえようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした」のです(12:13)。ここでファリサイ派やヘロデ派の人を遣わした「人々」とは、「ぶどう畑と農夫」の譬えが自分たちに当てつけられたと気づいた、祭司長、律法学者、長老たち(11:27)です。彼らは「イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った」(12:12)のです。その「人々が」(12:13)イエスの言葉じりを捉えようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人々を遣わしたのです。彼ら以外にファリサイ派やヘロデ派を動かすことができる権力者はいません。
ユダヤ社会の最高権力者たちがイエスへの殺意をあらわにしたのです! それを象徴的に描いのが、イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入城された場面です。イエスはエルサレムに入城された次の日、神殿で売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返して、こう言われました。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と。このイエスの行動は、祭司長や律法学者をひどく怒らせ、彼らは「どのように(イエスを)殺そうかと諮った」(11:18)のです。
イエスが神殿で売り買いしていた人たちを追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返されたことは、きょう、私たちに開かれた第一の掟をめぐる問答と密接に関係しています。イエスは神殿で売り買いしていた人たちを追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返されることで、神への愛と隣人愛が「どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れている」ことを行動によって示されたのです。言い換えると、イエスは宮清めで、人間が神と出会う祭儀、すなわち宗教の基底を揺るがしたのです。だから彼らは「どのように(イエスを)殺そうかと諮った」(11:18)のです。こうして「あらゆる掟のうちで、どれが第一か」を巡るイエスと律法学者の対話は、ユダヤ社会の最高権威がイエスへの殺意を剥き出しになった情況下で交わされたのです。つまり私たちは、イエスの死を目の前に見ながら、イエスと律法学者との対話に耳を傾けるのです。それはどのような調べを奏でるのでしょうか。
Ⅱ.応答としての愛
「あらゆる掟のうちで、どれが第一か」を問う律法学者に、イエスは申命記6章4節、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」が第一の掟であるとし、それに第二の掟、レビ記19章18節、「隣人を自分のように愛しなさい」を付け加え、「この二つにまさる掟はほかにない」と答えられました。なぜイエスは第一の掟、神への愛に、第二の掟、隣人への愛を付け加えたのか? それは、目に見えない神への愛は、目に見える隣人への愛においてしか確かめることができないからです。イエスはそれを「善きサマリア人」の譬えで描きました(ルカ10:25−37)。追い剥ぎに襲われ、半殺しの目にあった人を見ると、「神に仕える」こと、すなわち神への愛を本分とする祭司とレビ人は道の向こう側を通って行ったのです(ルカ10:31−32)。つまりイエスはこの譬えで、祭司やレビ人には神への愛がないことを抉り出されたのです。シモーヌ・ヴェイユの言葉が心に迫ります。「霊的なものだけに価値がある。だが、肉的なものだけが、確かめうる存在を持っている。従って、霊的なものの価値は、ただ肉的なものの上に投じられた明るさとしてだけ、確かめうる。」
イエスが第一の掟、神への愛に、それを確かめうる第二の掟、隣人愛を付加されると、律法学者は「先生、おっしゃるとおりです。……(神への愛と隣人愛は)どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」と答えます。するとイエスは、「律法学者が適切な答えをしたのを見て、あなたは、神の国から遠くない」と言われます。「あなたは、神の国から遠くない」とはどういう意味でしょうか? この言葉を実感として受け止める良い例があります。宝くじです。宝くじは、たとえば7つの数字のうち6つまでが当選番号と一致していても、最後の数字が違えばハズレなのです。つまりイエスは、神への愛と隣人への愛が、「どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れている」ことを知るだけでは、神の国に入ることはできない、と言われたのです。
では、神の国に入るには何が必要か? それとの関連で注目したいのは、神への愛を第一の掟と言明した申命記です。申命記の戒めはすべて第一の掟、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という戒めの解釈以外の何ものでもありません(6:4−5)。しかも申命記が要求する神への愛は、選びの前提ではなく、その帰結なのです。それをとくに明瞭に表現したのが申命記27章9節以下です。「聞け、イスラエル、きょうおまえは、おまえの神ヤハウェの民となった。(主の聖なる民、宝の民とされた。)それゆえおまえの神ヤハウェの声に聞き、その戒めを守れ。」これから分かるように、神の声に聞き従い、その戒めを守れとは、神がイスラエルをご自分の宝の民として選ばれた愛に対する応答なのです。
問題は、イスラエルがこれらの励ましを聞き流し、救いを失ってしまうのではないかとの心配が申命記全体を貫いていることです。不服従の現象があらゆる暗い可能性として申命記の神学的視野の中に入ってきたのです。それを端的に描いのは30章15節以下、「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得る」(30:15−16)です。この言葉は、南ユダが滅びるという大破局を前にして語られました。つまり申命記は大破局のいわば直前に、今一度イスラエルに「生命」を提供したのです。「あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得る」と。それは感動的でさえあります。
Ⅲ.「生命」の提供
実は、国家が滅びるという大破局の直前に「生命」を提供した申命記は、ダビデの再来と言われたヨシヤ王の時代(列王下23:25)に、神殿修復の折に発見された巻物が元になっているといわれます(列王下22:8)。その巻物が王の前で読み上げられたとき、王は「心を痛め、主の前にへりくだり、衣を裂き、……泣いた」(22:19)とあります。生ける神の言葉が語られ、聞かれるとき、「心を痛め、主の前にへりくだり、衣を裂き、……泣く!」ここに_出エジプト24章、ネヘミヤ8章と共に_正典宗教の真髄があります。
この正典宗教の真髄は、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた律法学者の問題を浮き彫りにします。律法学者は、神への愛と隣人愛への掟を聴きながら、「心を痛め、主の前にへりくだり、衣を裂き、泣く」ことはなかったのです。イエスを知る前のパウロがそうでした。パウロは、「律法の義_すなわち神への愛と隣人愛_については非の打ちどころがない」と自負していました(フィリピ3:6)。そのパウロが、イエス・キリスト、しかも十字架のキリストを知ったとき、「わたしは、なんという惨めな人間なのか。だれが、この死の体からわたしを救ってくれるだろうか」(ロマ7:24)と心を痛め、主の前にへりくだり、衣を裂いて泣いたのです! 十字架のキリストを知る者のみが、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)という言葉を聞くのです。
結びに、パウロがコリントの信徒たちに語った福音を聞いて、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という幸いを実感したいと思います。「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。……どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。……最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活した」ことです。
パウロは、神の国に入る条件は、神への愛や隣人への愛ではなく、イエス・キリストの福音、つまり十字架の死と復活にあるとしたのです。このことを端的に描いのが、永遠の命を得るために何をすれば良いかを問うた金持ちの物語です(10:17以下)。イエスは金持ちの男に、「神への愛と隣人愛」を行いなさい、そうすれば命が得られると言われます。すると彼は、そういうことは小さい頃から守ってきたと答えます。それを聞くとイエスは、「あなたには、なお足りないものが一つある。持ち物を皆売り払って、貧しい人に与えない」と言われます。するとこの人は「気を落とし、悲しみながら立ち去った」のです。「気を落として、悲しみながら立ち去った」とは、「心を痛め、主の前にへりくだり、衣を裂き、泣く」こととは似て非なるものです。金持ちは神ではなく富に仕えることを選んだのです(参 マタイ6:24)。それは命ではなく死を、幸いではなく災いを選んだのです。
イエスは金持ちとの対話で、神への愛、すなわち自分を愛するように隣人を愛することができる人間など一人もいないことを抉り出されたのです。_義人はいない、ひとりもいない。……神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。(ロマ3:10−12)_その人間を救うために神は御子イエス・キリストを十字架に上げられたのです。言い換えれば、何をしたら永遠の命を得られるかという「最後の問い」に対する答えは、「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された」神の愛なのです。神が独り子イエスを十字架に上げてわたしたちの罪を贖われたというこの霊的なものにまさるものなど何もないのです。十字架のキリストに啓示された神の愛、を「信じる者は一人も滅びないで、永遠の命を得る」のです(ヨハネ3:16)。神は、御子イエス・キリストが十字架で裂かれた肉、流された血によって滅びるしかない者に「生命」を提供されたのです! イエスは言われます。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる!」(ヨハネ6:53−54)。神の御子イエス・キリストが私の罪を贖うために十字架で肉を裂き、血を流された、と聞いて「心を痛め、主の前にへり下り、衣を裂いて泣く」聖餐共同体は、人を救う目には見えない神の愛を誰の目にも最も印象的な仕方で表現するのです。