2026/9/13 聖霊降臨節第17主日 「葬りの備え」

マルコ福音書14:3-9、ロマ書6:1-4、詩編88:9-13,19
讃美歌 199

イエスは言われた。「……貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる……。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人は……前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」(マルコ14:6−8)。

Ⅰ.葬りの備え

きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言葉はマルコ福音書14章3節以下、「純粋で非常に高価なナルドの香油」をイエスの頭に注ぎ、葬りの備えをした一人の女の物語です。イエスはこの女の行動を高く評価し、「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう」と言われました。それだけではありません。キリスト教信仰の中心的使信である貧しい人への奉仕にまさるとされたのです。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる……。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人は……前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と。

実は、ルカは、イエスが高く評価したこの女の記事を伝えていません。その代わりルカは全く異なる趣旨で、香油注ぎの物語を伝えています(7:36以下)。それは情感豊かで、目に浮かぶような繊細なタッチで描かれます。ファリサイ派のシモンがイエスを食事に招くと、その席に、罪深い女(淫売婦)が紛れ込み、イエスが座っていた席に後ろから近づき、泣きながらイエスの足を涙で濡らし、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗ったのです。その様子を見ていたシモンは心の中で、イエスが預言者ならば、自分に触れている女が罪深い女であると分かるはずだと言います。シモンの思いを見抜かれたイエスは、_五百デナリオンの借金を帳消しにされた人と、五十デナリオンの借金を帳消しにされた人では、どちらの人が多く金貸しを愛するだろうか_と問われます。シモンは「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えます。するとイエスは、罪深い女の行動を一つ一つなぞり、シモンの対応と比較し、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と言われたのです。

ルカが描くこの物語で興味深いのは、誰もが正しい人間と認めるファリサイ派のシモンと、人々から後ろ指を指される罪深い女(淫売婦)の負債額(罪)に差があるとはいえ、その差は神の目から見れば五十歩百歩でしかない、ということです。言い換えれば、神の前に自分の正しさを誇れる人間など一人もいないのです。それを真正面から取り上げたのが「ヨブ記」です。ヨブ記の主題が何であるかについてはいろいろな解釈がありますが、わたしは神の義と人間の義の対決であると考えます。ヨブ記の著者はそれを結びで次のように描きます。

あなたのことを、耳にしていました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、
自分を退け、悔い改めます。

神を見たヨブは、正しさを主張したことを悔い、「塵と灰の上に伏し、自分を退ける」と言ったのです。この従来の訳は、あまりに飛躍的であり、敬虔すぎる解釈である、と言った人がいます(中沢洽樹)。「塵と灰の上に伏す」とは、悲しみあるいは懺悔のしるしです。しかしここは悲しみや懺悔の表現「塵と灰」ではなく、「塵芥」と解すべきであると。塵芥とは、死んで土に返るべき存在であるという意味です(創世記3:19)。ヨブは神との2回の対決によって(40−41章)、自分の無知と高慢を嫌というほど思い知らされ、己が身の塵灰であること、すなわち死すべき人間の脆さと穢れを思い知ったのです(42:6、30:19)。ルカはイエスに香油を注いだ女の物語で、人は皆、神の前に塵芥でしかないこと、しかもその塵芥を神は極みまで愛される方であるという物語に仕上げたのです。

Ⅱ.闇に輝く光

イエスは葬りの備えをした女を高く評価し、「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられる」と言われたのですが、実は、学者たちは、この言葉はイエスの真正の言葉ではないと言います。その典拠は、ルカがこの記事を伝えていないこと、ヨハネが伝える香油注ぎの記事です(ヨハネ12:1−8)。ヨハネが伝える記事は、おおかたマルコの記事に沿っていますが、「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられる」という言葉はありません。このようにイエスに香油を注いだ女の記事は多様な視点で伝えられています。

ところでマルコはこの記事を、祭司長や律法学者がイエス殺害を図った記事と、イスカリオエのユダの裏切りの記事の間に置いています。つまりマルコはイエスの敵対者だけではなく、十二弟子の一人イスカリオテのユダの裏切りという深い闇で、イエスの葬りの備えの記事を囲い込んだのです。そうすることでマルコはイエスに香油を注いだ女が放つ光を際立たせたのです。聖霊の照明を祈り求めつつ、マルコがこの記事で描いた闇に輝く光を見たいと思います。

「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」とあるように、この物語は一見すると、十字架で死んだイエスが香油を塗られることなく墓に葬られたことと関連しています(マルコ15:42−47並行)。マグダラのマリアをはじめとする婦人たちが週の初めの日に、イエスの墓に向かったのは油を塗るためでした(16:1)。イエスは油を塗られずに葬られることを予知して、この女の行為を高く評価されたのでしょうか。わたしはそれだけではないと考えます。なぜそう考えるかと言えば、パウロがコリントの信徒たちに伝えた「最も大切なこと」に、イエスが死んだことと死から甦ったことと共に「葬られたこと」があるからです。「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(15:3−4)と。パウロは、キリストが「葬られたこと」を、わたしたちの罪のために死んだことと、三日目に復活したことと共に「最も大切なこと」であるとしたのです。

イエスが「葬られたこと」が、「最も大切な」福音であるとはどういうことか? それとの関連で注目したいのは、「詩編中最も悲しい詩」といわれる詩編88編です。詩人は「葬られること」がどのような現実であるかを次のように謳います。

あなたが死者に対して驚くべき御業(救い)をなさったり、
死霊が起き上がって、
あなたに感謝したりすることがあるでしょうか。
墓の中であなたの慈しみが、
滅びの国であなたのまことが語られたりするでしょうか。
闇の中で驚くべき御業が、
忘却の地で恵みの御業が告知らされたりするでしょうか。

詩人は葬られること、すなわち死という現象をさまざまな表現_死霊、墓の中、滅びの国、闇の中、忘却の地_で言い表し、そこにはいかなる賛美もないと言います。ここに嘆きの詩編が歌う死の真の苦さがあるのです。死者は、生の領域である神を賛美する祭儀の外に、つまりヤハウェとヤハウェとの生の交わりから別れさせられたのです。私たちは死を心肺停止、つまり生理的機能の消滅と考えます。しかしイスラエルにとって死は生けるものの領域にはるかに深く入り込んでいることです。弱さや病、捕らわれや敵による難はすでに死の一種と見なされたのです。詩人はそれを、「愛する者も友も、あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです」と表現しました。武田泰淳はこの「暗闇」を『私の中の地獄』と語りました。「地獄とは何か。人間の苦悩のすべてである。つまずきがある、壁がある、矛盾がある、絶望がある、迷いがある、暗やみがある、疑いがある。……醜さがある、汚れがある、弱さがある、競争がある、攻撃がある、抹殺がある。」

Ⅲ.洗礼のサクラメント

「今、わたしに親しいのは暗闇だけです。」この暗闇に、神への賛美が響くことはないのです。ここにおいて旧約の人間学の最も固有な命題の一つにつきあたります。すなわち賛美は人間に最も固有な実存形態であるということです。詩編102編の詩人が、「主を賛美するために民は創造された」(102:17)と歌ったように、賛美は「生命の最も重要な目じるし」なるのです。土の塵から造られた人が、鼻に命の息を吹き込まれて生きる者になった!とは「賛美する存在(ホモ・アドランス)」になった、ということです。言い換えれば、賛美することと、賛美しないこととは、生と死のように相互に対立するのです。今私たちが現に生きている世界、それは神への賛美が失われた世界です。その意味で私たちは、言葉の最も厳密な意味で死の時代を生きているのです。

この失われた神賛美、つまり何も生み出し得ない呪われた死の時代を、命溢れる祝福された世界に再創造するために、神は御子イエス・キリストを世に遣わし、十字架に上げられたのです。それを最も端的に表現したのがフィリピ書2章6節以下です。パウロはそこで、神であるキリストが人間となり、十字架の死を遂げられたことで、天上のもの、地上のものに加えて、決して神を賛美することのない地下のものがすべて、イエス・キリストは主であると告白して、栄光を神に帰する、すなわち神を賛美するものになったと語ります。わたしはこの神賛美に、初代教会がキリストの死と復活の間に、「葬られたこと」を「最も大切なこと」の中に含めた理由があると考えます。どういうことかと言えば、キリストが「葬られたこと」は、単に油を塗られることなく葬られることを予知したからというだけではなく、イエスがわたしたちの罪のために死んだことと、新しい命を与えるために復活したことと共に、私たちの救いのためである!ことを言い表したものであるということです。

そのことについて優れた註解を著したのはパウロです。パウロはロマ書6章で、洗礼のサクラメントを展開します。しかもそれを、キリストの死と葬りと復活に準ずる形で語るのです。「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを(死んだこと)。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました(葬られたこと)。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです(復活したこと)。」人は洗礼のサクラメントによってキリストの死と結ばれ、キリストと共に葬られることで、死者の中から復活させられたイエスの新しい命を生きるのです!

このキリストと共に葬られ、新しい命に生まれ変わる至福を語ったのが、神を見て、自分が塵芥であることを知ったヨブです。

わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、
後の日に彼は必ず地の上に立たれる。
わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、
わたしは肉を離れて神を見るであろう。
しかもわたしの味方として見るであろう。
わたしの見る者はこれ以外のものではない。
わたしの心はこれを望んで焦がれる。(19:25−27口語訳)。

ヨブは後の日に「あがなう者」が地の上に立つことを知るのです。私たちはヨブが心底焦がれた「あがなう者」を、十字架のキリストに見たのです! 十字架のキリストにおいて、神を賛美することのない地下のものが、すなわち死霊が、墓の中で、滅びの国で、闇の中で、忘却の地で、「神は死んだ」(ニーチェ)と叫ぶこの世で、天上のもの、地上のものと共に、イエス・キリストは主であると告白して栄光を父なる神に帰するのです。「地獄とは何か。人間の苦悩のすべてである。つまずきがある、壁がある、矛盾がある、絶望がある、迷いがある、暗やみがある、疑いがある。……醜さがある、汚れがある、弱さがある、競争がある、攻撃がある、抹殺がある」この世の地獄をキリスト者は、洗礼のサクラメントによってキリストと共に葬られ、闇に輝く〈光〉として神を賛美ながら生きるのです!

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