讃美歌 495
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。……子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(マルコ10:14−15)
Ⅰ.原体験
きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言葉はマルコ福音書10章13節以下、イエスが弟子たちに妨げられた子供たちを祝福された記事です。イエスは、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と言って、「子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」のです。
子供を祝福するイエス、それは象徴行為、つまり行為による預言です。「百聞は一見にしかず」と言います。子供たちを祝福するイエスに、マルコは何を見たのか。マルコはこの出来事を、「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った」という言葉で導入します。子供の健やかな成長を願い、イエスに触れていただきたいと願う人々を弟子たちは叱ったというのです! その様子をご覧になったイエスは「憤り」、とマルコは記します。ちなみに、〈イエスの憤り〉という強い表現をしているのはマルコだけです。イエスは、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」と憤りをあらわにし、「神の国はこのような者たちのものである」と言って、「子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」のです。
それにしても「神の国はこのような者たちのもの」、つまり「子供のような者」が神の国に入るとはどういう意味でしょうか? 『聖書スタディ版_わかりやすい解説つき聖書』には、「子供」に次のような解説が付されています。「イエスは、力も知恵も無い子供をたとえに用いた。神の国に入る方法は、知恵や力によるのではなく、謙虚で信仰深いことによる、とイエスは示した。」この「解説」はイエスの言葉を、ゆえにイエスという人物を著しく歪めます。同情的イエスがそうであるように、誤ったイエス像に導くのです!
ところで旧約聖書には、どのような人が聖所(神の国)に立つことができるかを歌った詩編があります。代表的なのが詩編24編です。
「どのような人が、主の山に登り
聖所に立つことができるのか。
それは、潔白な手と清い心をもつ人
むなしいもの(偶像)に魂を奪われることなく
欺くもの(偶像)によって誓うことをしない人。」(24:3−4)。
もしこれが神の山、聖所に立つ条件であるならば、聖所に立つことができる人間など、一人もいないことになります。エレミヤは語ります(13:23口語訳)。
「エチオピア人はその皮膚を変えることができようか。
豹はその斑点を変えることができようか。
もしそれができるならば、悪に慣れたあなたがたも善を行うことができる。」
エゼキエルは語ります。イスラエルの罪、咎、汚れは鍋にこびり付いた錆であり、それは火で精錬しても取り除くことができない、と(24:3−12)。
私たちは幼児の純真な瞳に、その微笑みに、慰められ、癒されます。しかし子供が「謙虚で信仰深い」という表現は旧約のどこにもありません。あるのは、詩編51編の詩人が語った、
「わたしは咎のうちに産み落とされ、
母がわたしを身ごもったときもわたしは罪の中にあった」です。
この「咎のうちに産み落とされ者」をイエスは祝福された、というのが、きょう、私たちに開かれた〈生ける神の言葉〉なのです。聖霊の照明を祈り求めつつ、御言葉に聞きたいと思います。
Ⅱ.十字架の言
「神の国はこのような者たちのものである」、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」いったい、「子供のように」とは、どういう意味でしょうか? それとの関連で注目したいのはマタイ福音書11章25節です。 「そのとき、イエスはこう言われた。 『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。 これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、 幼子のような者にお示しになりました。』」
イエスは、神の国という未だかつて誰も見たことのない「隠された秘義」を、神は知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者に示されたというのです! このイエスの言葉に呼応するのが、パウロが第一コリント1章18節以下で語った〈十字架の言葉〉です。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。』……」(1:18−19)。これから分かるように、「神の国はこのような者たちのものである」とは、十字架の言葉〉と密接に関連しているのです。
十字架の言葉は、「知恵ある者や賢い者には隠され、幼子のような者に示された」とイエスは言われたのです。哲学の世界ではこれを弁証法的認識と言います。弁証法的認識とは、「いかなる本質もその反対物においてのみ、愛は憎しみにおいて、統一は争闘においてのみ、露となりうる」(シェリング)ということです。それを神学に適応すると、神は対立物において、すなわち、神を喪失し、神に見捨てられた状態においてのみ「神」として露わになるのです。具体的には、神は神に見捨てられたキリストの十字架において露わになるのです。言い換えれば、神の恵みは罪人のもとで露になり、神の義は、不義なる者および義を失った者のもとで露になり、神の恵みの選びは罰せられた者のもとで露わになるのです。敬虔な人ではなく、罪人こそが、義人ではなく、義ならざる人こそが、十字架のキリストを認識するのです。つまり、「子供のように」とは、罪人、不義なる者の言い換えなのです。
十字架のキリストに神を見るには、敬虔な者とか信仰深い者になることを断念しなければならないのです。律法の義については非の打ちどころがないと豪語したパウロが、十字架のキリストを知ったとき、「わたしは、なんという惨めな人間なのか。だれがこの死の体からわたしを救ってくれるだろうか」と言い放ったようにです。神が、その反対物において露わになるかぎり、神は、神なき者、神に見捨てられた者によって認識されるのです。この認識こそが、「この世でイエスのようである」(Ⅰヨハネ4:17)という、神に似る者となる希望をもたらすのです。神は十字架のキリストにおいて認識されることにおいて、はじめて、神の国を神なき者の地上へともたらし、神なき者に神の国を開かれるのです。
十字架のキリストにおいて神は、神の国を神なき者の地上にもたらし、神なき者に神の国を開かれるのです! そのことを黙想していたとき、申命記7章6節以下に導かれました。そこには次のように語られています。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民_神のために聖別された_である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」と。
神がイスラエルをご自分の〈宝の民〉として選ばれたのは、「他のどの民よりも貧弱であった」からである! しかも神が、他のどの民よりも貧弱であったイスラエルを選ばれたのは、イスラエルの心がまっすぐだったからではありません。申命記の著者は語ります。「あなたが正しく、心がまっすぐであるから……ではないことをわきまえなさい。あなたがたはかたくなな民である!」(9:5−6)。神に対して心頑なな民を神はご自分の宝の民とされた、と申命記は語るのです。
Ⅲ. 崩壊機の形成論理
申命記は、歴史において初めて神による民の選びを概念化したと言われますそのとき、オリエントの思想史において新しいことが起こったのです。新しいことの第一は〈民主化〉です。当時オリエント世界では、神による選びの対象は〈王〉でした。王は神に選ばれることで、全く特別の関係へと召し出されたのです。この関係の特権の一つは、神である父に自由に願うことができる権利です。その権利が、「民」に与えられたのです。言い換えますと、人は皆、直接、神と結びつくようになったのです。神と直接結びつくとは、嵐の中に神を見たヨブのように、自分が塵芥であることを知る(42:6)ということです。
第二は価値観の逆転です。寄らば大樹の陰、の譬え通り、大きいものに惹かれ、強大なものを選ぶのがこの世の価値観ですが、ここではそれが逆転しているのです。神は小さいもの、この世の価値観では無価値なものを愛されるのです。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに!」と。
神の愛が向けられるのは貧弱な者、無価値な者たちである! ここに聖書の価値観の革命的な性格があるのです。この「愛するに値しないものを愛する」神の愛(アガペー)は、ホセア書、申命記、エレミヤ書、第二イザヤを経て、新約に至り、頂点に達します。それを端的に描いたのが、先ほど触れた〈十字架の言葉〉との関連で語られた第一コリント1章26節以下です。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」という言葉で始まり、聖書的価値観の革命的性格が次のように語られます。「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれました!」(1:27−28)。申命記が歴史において初めて概念化した民の選びは、イエスが十字架に上げられることで完成するのです。
ちなみに、申命記が概念化した民の選びは北王国イスラエルの滅亡の危機と深く関連しているといわれます。超大国アッシリアの侵略の前に敗戦国民の生き残る条件は皆無に近い。「無価値な民の選び」という強烈な神の愛の論理は、こうした崩壊の最中で生まれたのです。言い換えれば、神の選びを主題とする申命記7章6−8節は崩壊期の〈形成の論理〉であるということです。これとの関連で注目したのが1−2節の勧告の言葉です。新共同訳は1−5節に「七つの民を滅ぼせ」という表題をつけ、6節以下に「神の宝の民」と表題をつけることで、申命記本来の文脈を破壊してしまいましたが、 1−2節の勧告は、6節以下の神の選びの動機づけとして置かれているのです。そこには次のように語られています。「あなたが行って所有する土地に、あなたの神、主があなたを導き入れ、多くの民、すなわちあなたにまさる数と力を持つ七つの民、……をあなたの前から追い払い、あなたの意のままにあしらわせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。」
この勧告で注目したいのは、「彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない」です。これは、イスラエルの古い宗教的伝承である〈聖戦思想〉の言葉です。聖戦思想とは、「主があなたたちのために戦われる。あなたがたは静かにしていなさい」(出エジプト14:14)ということです。この1−2節の勧告が、6節以下の神の選びに真の根拠を与えるのです。聖書の神は無価値な弱小国民、心頑ななイスラエルのために戦われるのです。この神の戦いの頂点に位置するのが、十字架のキリストです。神は無益な者を救うために御子イエス・キリストを世に遣わし、十字架に上げることで、心頑なな民を聖なる民、宝の民とされるのです。
イエスは人間が滅びに向かって進んでいるのを見ます。すべてが奈落の淵に立ち、今は最後の時である、と。この危機的な崩壊状況の中でイエスは、「神の国はこのような者たちのものである」と語られたのです。ガラガラと音を立てて崩れ行く今日の世界にあって、十字架のキリストを目の前に描き出す聖餐共同体は、闇に輝く光です! 神は、神を失った者に認識されることにおいて、はじめて、神の国を神なき者の地上へともたらし、神なき者に神の国を開くのです。